釈尊伝 (53) - 誘惑 -
それから誘惑。いろいろな欲望をもっていますから、誘惑が当然でてきます。欲望をもたねば誘惑というものも手のほどこしようがないのです。けれども欲望のある以上仕方ありません。魚が魚つりの針にかかるということは、よくよく頭のないものだからと考えられます。ミミズの切ったものを、わざわざ食べなくてもよいのにと思いますが、とびついて引っかかります。鮎になるともっとばからしいです。毛針といってみせかけの針に食いついてきます。頭が悪いなあといって、頭をしらべてみれば、悩みそなんかあまりないです。われわれは魚はばかなやつだといいますが、われわれの頭もたいした頭ではないようです。すぐにそういうように小さなエサに食いついてしまって、そして敗けてしまうということがございます。
- おびやかすもの -
それから脅かし。この脅かしというものは、これは本当に脅かしに遇った場合と、脅かされはしないかという不安。そういう恐怖と不安と誘惑。そういうものが、いったいどこからくるのかということです。われわれが心配するのは、よそからくると心配する。誰かがそうするものと心配するわけであります。また一面そうであるにちがいありません。そうじゃないというのではありません。それにちがいありません。けれども、しかしそれにおどろかされなばならないのは自分であり、そしておどろくのは自分の心です。したがってそういうものは自分の心の中にひそんでいるといってよいわけです。それが自分の心の中にひそんでいるものだと知ったときに、「この戦いというものは終わった」と、こういうふうに一応いい切っているわけであります。この自分の心にひそんでいると知ったということ、それを知ったということは、まあそういうようなわけであるかというふうに知ったのではない。その知ったという内面を、次に述べてあります。 (つづく) 『釈尊伝』 蓬茨祖運述より
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引証 ・ 初は、三の文を引いて証明する。
(1) 「瑜伽論に説かく、若し任運生の一切の煩悩は、皆三受に於いて現行すること可得なりという、広く説くことは前の如し」(『論』)
三受可得の意義を述べます。『瑜伽論』巻第五十九に「是の諸の煩悩幾ばくか楽根と相応し、乃至幾ばくか捨根と相応するや。」という問いにたいして、「答う。若しくは任運に生ずる一切の煩悩は、皆な三受に於いて現行することを得べし。是の故に一切の識身に通ずる者(貪・瞋・癡)は一切の(受)根と相応し、一切の識身に通ぜざる者は意地の一切根と相応す。任運に生ぜざる一切の煩悩は、其の所応に随って諸根と相応す」と説れています。これは三受と四性の関係で引証された文章と同じです。ここには一連の関係性があるように思われます。一切の根とは苦・楽・捨の三受根をいいます。
(意訳) 「任運に生じる一切の煩悩は、すべて三受において現行する。」と。広く説くことは前の通りである。任運に生じる一切の煩悩が、すべて三受と相応するということは、三受以外の憂受は存在しないことになる。すなわち地獄の中での逼迫受は憂受ではなく、ただ苦受のみである、という証拠になる。また次に引証される文から伺えることは、任運に生じる一切の煩悩には、薩迦耶見(身見)と辺執見(辺見)があり、これが第六意識と相応するということになります。前五識とは相応しないのですね。
(2) 引証、その二は『瑜伽論』巻第五十八を引いて説明します。
「又、説かく、倶生の薩迦耶見は唯無記性なりという。彼の辺執見も応に知るべし亦爾なり」(『論』)
ここは身見・辺見は唯無記性であることを述べます。
「倶生の我見は唯無記性なりと云えり。彼の文には辺見無しと雖も、例するに必ず応に爾るべし」(『述記』)と述べられてあり、『瑜伽論』巻第五十八には「復次に倶生の薩迦耶見は、唯無記性なり、しばしば現行するが故に、極めて自他を損悩する処に非ざるが故なり。」とあり、辺見は無記であるとは説かれてはいないが、辺見は身見に随って動くので、無記であるという。無記は有覆無記のことです。
この項 (つづく)