唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 受倶門 更徴その3 ・ 釈尊伝 (57)

2010-07-11 18:37:03 | 受倶門
釈尊伝 (57)     - 因果と縁起 -
 
 万物というものも、われわれは万物があって、それだから生まれてきたというけれども、これを因果関係でみるのが常識の見方になります。縁起の関係でみますのが仏教の見方になります。ここのところが混乱して考えられていますから注意を要します。この世界が原因。われわれの生まれてきたのが結果。いま仏の教えはこの世界というものによって、われわれの生があるのだということです。したがって原因結果の関係ではなく、相対関係であります。だからわれわれとこの世界とは一つであります。こういうところに仏教のさとりという意味の道があります。
 
             - 別体と一体 -
 原因結果では別体。この世界があるから生まれてきたんだという。生まれてきたものの今度死んでしまったら、この世界はあるけれども、もう自分は死んでしまえばないのだといえば、ものは別になります。この世界と私というのは別になります。だから死んでしまえば無くなってしまう。生まれるまではなかったという関係になります。原因結果の関係で考える場合は、こういう関係になります。相対関係でみますと一体という一面があります。この世界と私というものは一体なのだということです。ですから縁起の関係がなりたつのであります。この世界によって自分の生まれたということがあるのだ。また自分が生まれたということによってこの世界というものがあるのだと、相対関係であります。われわれは普通はそう考えられないでしょう。 (つづく) 『釈尊伝』 蓬茨祖運述より
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 第三能変 受倶門 護法の論破(3)
 第一師の反論は「主の意に依っていい、受は客に依って説く」(意根は阿頼耶識に依り、受は客に依って説いているのである。)というものでありますが、それはありえないと護法はいいます。
 「彼の論には唯客の受のみを説き、通じて意根を説けりとはいうべからず。異の因無きが故に」(『論』)
 (意訳) 彼の論(『瑜伽論』巻第五十七)には、ただ客の受(六識の捨受)のみを説いて、通じて意根を説いているとはいっていない。異なった理由(所以)がないからである。
 (『瑜伽』に受の中には唯客受のみを説けり、意の中には通じて主の識をも説くというべからず。主の識というは第八なり。第八識も必ず捨受と倶なるをもっての故に、異の所以として別に論を作すこと無きが故に。『述記』)
 護法は安慧の説の矛盾をついているのです。それは六識に約して説いているにもかかわらず、意根は、主の意に依って説くというのであれば、矛盾している。即ち八識に約した解釈で認めてしまっていることになるではないか。そうであれば、主の識は必ず捨受と倶に存在するから、地獄にも捨受が存在することになり、安慧がいう地獄に捨受が存在しないという説は成立しないではないか、ということになります。「異因」という意味は、根拠を異ならせる二重基準を用いて主張を展開していることを指します。矛盾した根拠のことです。矛盾した根拠を以って自説を展開している安慧の所論は破綻している証拠になるというのが、護法の論破です。

第三能変 受倶門 返詰 ・ 釈尊伝 (55) 

2010-07-11 18:20:15 | 受倶門

 (おわび) 七月九日の項を公開していませんでした。前後しますが公開します。申し訳ございませんでした。

釈尊伝 (55)     - 老いの苦悩 - 

 それから次に老。老いてゆく。これも孤独であります。老病死ともに孤独の苦しみです。人間というものは孤独では生きられないものであります。孤独に耐えるなんていうことは人間にはありえません。孤独に耐えられるということなら、そんなことをいわなくていいのです。それは孤独ではないのです。孤独に耐えるという人は、孤独でない人がいえるのです。その意味で次に老病死の苦悩は、つまり孤独であります。殺される場合、だれでも助けてくれる人がいないのに、助けてくれといいながら相手に殺されてしまいます。これは孤独です。痛いとか、苦しいとかはしばらくの間です。それより恐ろしいのは孤独であります。

               ー 無明の執着 -

 それはなにによるかを観察した。そして、「それは愛欲によっておこり、またその愛欲によって、ものの真実の相が黒雲におおわれるように暗まされることをさとった。その無明の執着によって、生まれ、また死して、輪廻し苦悩する人間の姿を、太子はありのままに観じられた。その内観の内容を縁起の道理と名づけるのである」

 無明の執着によってとは、これは真実のすがたに暗いということ。つまり、愛欲というのは、やはり自分というものに執着している心。自分というものに執着している心が、つまり愛欲という表現をとったのであります。人を愛するということは、いつでやはりよりどころは自分の執着であります。自分についての執着がなかったなら、人を愛するということはできません。だから愛欲によって苦悩となり、またその愛欲の心は、ものの真実のすがたをくらます。ひとたびその執着によってなにものかに心がしばられてしまった場合には、本当のものが見えないという、ありのままが見えないということです。ありのままが見えないと自分の評価がくるってきます。相手がときには非常によく見えてきます。自分が好きだと思ったものは、十倍も二十倍もよく見えます。悪いと思ったものは、また十倍にも二十倍も悪く見えます。そういう意味で真実のすがたをくらますというむずかしい表現をとったのであります。 (つづく) 『釈尊伝』 蓬茨祖運述より

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 第三能変 受倶門 返詰(安慧の護法への反論)

 「豈客の捨彼に定んで成ぜざるにあらずや」(『論』)

 (意訳) どうして、客の捨受が、地獄・純苦処では、成立することがあろうか、いや成立しないはずである。だから地獄で存在しない「余の三」に捨受が入っているのである。

 「二に返詰す。此れは前師の問いなり。此れは六識を弁ず。故に客捨無しという。八識に約して作法して論を為すにはあらず。爾らずば、余の三(喜・楽・捨)は即ち無き法成るが故に。若し喜と楽と更に一形を取るという。二形は無きを以っての故にと言はば。豈鬼・畜の中に亦二形の者無からんや。又地獄に何が故に二形有りと許さざるや。故に彼に三無しというは兼ねて客の捨を取る。」(『述記』)

 地獄に捨受が存在しないという根拠に『瑜伽論』の文も、護法の言うように八識に約して述べるのではなく、六識に約して述べられてあるというのです。ですから安慧は『瑜伽論』に述べられる「余の三」には「楽受・喜受・捨受」とするべきであるといい、「余の三」に「楽受・喜受・憂受」とする護法の説に反論しているのです。

  •  一形 - 男根または女根を指す。(『倶舎論』)その他の意味は、人の身体の存続する期間をいう。一期・一生涯をいう。
  •  二形 - 男根と女根。男性の特徴と女性の特徴(二形倶生)