(おわび) 七月九日の項を公開していませんでした。前後しますが公開します。申し訳ございませんでした。
釈尊伝 (55) - 老いの苦悩 -
それから次に老。老いてゆく。これも孤独であります。老病死ともに孤独の苦しみです。人間というものは孤独では生きられないものであります。孤独に耐えるなんていうことは人間にはありえません。孤独に耐えられるということなら、そんなことをいわなくていいのです。それは孤独ではないのです。孤独に耐えるという人は、孤独でない人がいえるのです。その意味で次に老病死の苦悩は、つまり孤独であります。殺される場合、だれでも助けてくれる人がいないのに、助けてくれといいながら相手に殺されてしまいます。これは孤独です。痛いとか、苦しいとかはしばらくの間です。それより恐ろしいのは孤独であります。
ー 無明の執着 -
それはなにによるかを観察した。そして、「それは愛欲によっておこり、またその愛欲によって、ものの真実の相が黒雲におおわれるように暗まされることをさとった。その無明の執着によって、生まれ、また死して、輪廻し苦悩する人間の姿を、太子はありのままに観じられた。その内観の内容を縁起の道理と名づけるのである」
無明の執着によってとは、これは真実のすがたに暗いということ。つまり、愛欲というのは、やはり自分というものに執着している心。自分というものに執着している心が、つまり愛欲という表現をとったのであります。人を愛するということは、いつでやはりよりどころは自分の執着であります。自分についての執着がなかったなら、人を愛するということはできません。だから愛欲によって苦悩となり、またその愛欲の心は、ものの真実のすがたをくらます。ひとたびその執着によってなにものかに心がしばられてしまった場合には、本当のものが見えないという、ありのままが見えないということです。ありのままが見えないと自分の評価がくるってきます。相手がときには非常によく見えてきます。自分が好きだと思ったものは、十倍も二十倍もよく見えます。悪いと思ったものは、また十倍にも二十倍も悪く見えます。そういう意味で真実のすがたをくらますというむずかしい表現をとったのであります。 (つづく) 『釈尊伝』 蓬茨祖運述より
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第三能変 受倶門 返詰(安慧の護法への反論)
「豈客の捨彼に定んで成ぜざるにあらずや」(『論』)
(意訳) どうして、客の捨受が、地獄・純苦処では、成立することがあろうか、いや成立しないはずである。だから地獄で存在しない「余の三」に捨受が入っているのである。
「二に返詰す。此れは前師の問いなり。此れは六識を弁ず。故に客捨無しという。八識に約して作法して論を為すにはあらず。爾らずば、余の三(喜・楽・捨)は即ち無き法成るが故に。若し喜と楽と更に一形を取るという。二形は無きを以っての故にと言はば。豈鬼・畜の中に亦二形の者無からんや。又地獄に何が故に二形有りと許さざるや。故に彼に三無しというは兼ねて客の捨を取る。」(『述記』)
地獄に捨受が存在しないという根拠に『瑜伽論』の文も、護法の言うように八識に約して述べるのではなく、六識に約して述べられてあるというのです。ですから安慧は『瑜伽論』に述べられる「余の三」には「楽受・喜受・捨受」とするべきであるといい、「余の三」に「楽受・喜受・憂受」とする護法の説に反論しているのです。
- 一形 - 男根または女根を指す。(『倶舎論』)その他の意味は、人の身体の存続する期間をいう。一期・一生涯をいう。
- 二形 - 男根と女根。男性の特徴と女性の特徴(二形倶生)