唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 受倶門 会通、第二・三の解釈 ・ 釈尊伝(65) 

2010-07-20 22:50:02 | 受倶門
  たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かえってまた曠劫を径歴せん。(『教行信証』総序より
 釈尊伝 (65) 蓬茨祖運述より
           - 現代とは -
 今までは人間釈尊伝というプリントしたものから、順々と話して参考にしてもらってきました。今回は趣を変えて仏教はどこを着眼としてみてゆくべきか、その意味で考えてみたいと思います。
 現代は、われわれが考えるようにはうごきません。考える前に現象ができています。われわれが選ぶ前に、先に決められています。学園紛争問題もその意味ででています。先日話を聞くと、一部分にはこういう問題があると考えられます。今自分が学校を出て、この道を選ぼうとする場合、出てゆく道が自分の考えどおりにならない。資本家・支配者に決められたとおりになってゆくより仕方がないということで、それに悩んでいる。しかし、そうかといって現実にうごいている全共闘にはついてゆけないと、そんな悩みを話された方がありました。
 いろいろ考えた結果、そういうことがそのまま、日本人の近代意識なのです。つまり主体的立場に立ちたいということです。主体的立場に立つということがどうしてできるのか。残念ながら日本は形だけは近代化されている。明治維新以来、形式的近代化にいそしんだ結果、身動きのとれないものになっています。その他の南方諸国とか、近代化されていない諸国は、割り切ってやれるかもしれないが、日本は誰かが作ったというより、作りあげられている一面があり、やりにくいのでしょう。
           - 主体的立場 -
 本当の意味の主体的立場をとりたい。その意味で仏教における歎異抄がとりあげられてきたのは、主体的になりたいという願いによるといえるでしょう。
 歎異抄はなにをあらわしているのか。釈尊という言葉がありながら、伝記としてはなにも書かれてはいません。ただ釈尊そもものがなんであるかを語っている。つまり仏陀としての意味はあらわされているわけです。釈尊という人はどんな人物であったかということについては、歴史的にいろいろ論じられます。そうなると、過去の人物で、人によってここまでは考えられる、それ以上考えるのは誤謬であるという。それは学問というものでありましょう。釈尊伝のなかの、とくに仏陀という意味、さとりを開いて仏陀になったというところを一つ考えてみて、われわれがどういうふうに、どういう立場からみてゆけるのか。釈尊をみるときどうしても客体的になるから、釈尊を自分の立場としてみるとき、どのようにしてみることができるか。そのようなところから申しあげてみたいと思います。 (つづく)
                               ー ・ ー
 第三能変 受倶門 会通第二の解釈
 「又彼の苦根の意識と倶なるは、是れ余の憂の類なるをもって、仮って説いて憂と為せり」(『論』)
 (意訳) 地獄において苦根が第六意識と相応する場合は、他の雑受処である餓鬼・畜生界や人天の憂根と似ているので、これを仮に憂受と説いているにすぎなく、実際は憂受ではないのである。
 「地獄等の苦根の意識と倶なる者は、余の雑受処と及び人・天の中の憂根と相似せり。亦意識に在って逼迫受なるが故に、地獄の苦根を説いて憂と為す。実には憂受には非ず」(『述記』)
 地獄において相応するのは、第六意識にあ在っては逼迫受であるといわれていますが、逼迫受の説明のところでは、「第六意識と倶である逼迫受で地獄の中のものをただ苦受という、なぜなら地獄は純受であり、尤重であり、無分別だからである」、と説かれていました。ここの解釈では第六意識と倶である逼迫受は人天の中ではつねに憂受といい、餓鬼界と畜生界では憂受とも苦受ともいうことに似ているので、憂受というにすぎなく、仮に憂受というのあって、実には憂受ではない、といっています。
 第三の解釈
 「或いは彼の苦根は、身心を損するが故に苦根に摂められると雖も、而も亦は憂と名づく」(『論』)
 (意訳)「彼の地獄等の苦根は通じて能く逼迫して身・心を損ずるが故に、苦根に摂すと雖も而も亦憂と名づく」(『述記』)と述べられていますように、地獄の第六意識の苦受は、身心を損悩するので、苦受といわれ、苦根に摂められるのですが、また憂受ともいわれるのであって、実に憂根ではない、ということです。