唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 受倶門 更徴(安慧の主張を論破する) ・ 釈尊伝(56)

2010-07-10 16:30:39 | 受倶門

 釈尊伝 (56)     - 輪廻 -

 それを簡単にいうと無明の執着。「その無明の執着によって」と続いています。そして「生まれ、また、死して、輪廻し苦脳する人間のすがたを、太子はありのまま観じられた」とあります。われわれは死ということを生とはなして考えています。生を愛して死を憎む。そういう意味で別々のものとしています。そうではなくて、生に対して死があり、死に対して生があるということです。そういう意味で「生まれまた死して・・・」というのは、なにもオギャーと生まれるということだけではなくて、われわれの生活がある意味でたえず生まれては死ぬ、生まれては死ぬのくりかえしよりほかにないということを意味するのであります。

             ー 転ぜられる -

 最後に、縁起という言葉について説明しますと、つまり内観の内容であります。内容を縁起の法と名づけてきているのであります。つまり老病死というものは、どうしてできたかというと、それは生によってであります。そして死は生によってあり、生は死によってあり、ということを縁起「というのであります。生というものが独立して存在するのではない。死に対して生があり、生に対して死がある。これを縁起というにであります。

              ー 縁起 -

 縁起。縁より起こるという文字。この老病死というものはなにによって起こるか、というと生によってであります。この間の関係を縁起というのです。相対関係と見てよろしいです。死の苦しみというものが独立してあるならば、いかんともしがたい。しかし生に対して存在する。では生というのはなににより、どうしてあるのかということです。普通は有によってある。有とは存在、有とはこの世界とか、三界とか、万物とか、いろんなものがあります。こういうことによって生というものがあるのだということです。 (つづく) 『釈尊伝』 蓬茨祖運述より

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 第三能変 受倶門 更徴(護法による安慧の説の論破)

 「三に更に徴するに三あり。一に前に乗じて徴し、二に別に徴を生じ、三に例を挙げて徴す。下は初めなり」(『述記』)

 「寧ぞ知る彼の文は唯客の受のみを説けりということを」(『論』)

 「(護法)返って問うなり。所説の捨受は現は定んで成ぜずという。汝何の道理に依ってか是れ客受なりということを知る。前師の云く、五十一に地獄の全と一分の鬼と畜とを説いて一向苦と名づく。不苦楽受は純苦の為に映奪せらるるをもって略して第八の主捨を論ぜず。是の故に是れ客捨なるを知るといはば、」(『述記』)

 (意訳) 護法が安慧に問い尋ねるのです。「どうして、『瑜伽論』の文はただ客の受のみが、説かれているのかとわかるのか。

  •  客受について - (1) 五識に相応する苦受を第六意識において説く場合 (2) 第六意識と倶である捨受 の二つの意味があります。ここは(2)の意味になります。 どうして彼の文は第六意識と倶である捨受のみが説かれているとわかるのか、ということです。捨受が地獄で成立しない理由を尋ねているのですね。それに対して、安慧の答えを想定して『述記』は述べているのです。意訳しますと、『瑜伽論』五十一に地獄のすべてと一分の鬼畜を一向苦と名づける。不苦楽受(第八識の捨受)は純苦の為に映奪(隠され紛れてしまう)されてしまうので、略して論じられていないのである。このことからも地獄には捨受は存在しないことがわかるのであって、余の三に憂受が入っていないのであり、捨受が入っていることがわかるのである。
  •  映(えい) - ようとも読む。隠す、うばうという意。奪もうばうという意。映奪は不苦楽受は純苦受の為に隠され奪われてしまって、現れてこないということ。

 これによって『瑜伽論』では阿頼耶識と末那識の所論を略して、六識に約して論じている、ということになり、地獄に存在しないのは楽受・喜受・捨受という余の三になり、憂受は地獄に存在するという主張になるのです。

 参照 『演秘』の記述 「純苦の為に映等とは、瑜伽論を按ずるに、若し那落迦等の中にては、他(客受即苦受)に映奪せられる不苦不楽受と純苦と雑じり受けて倶時にして転ずること無し。当に知るべし。此の受(捨受)は映奪せらるるが故に了知すべきこと難し。那落迦等の中にて一向に苦受と倶転するが如くなりと云えり。釈して曰く、等の言は彼の純苦の鬼と畜とを等す。彼の中の頼耶に捨受有りと雖も、余識の中の苦受猛盛なるに映奪せられて現ぜざるが故に苦受のみと言う。一向苦受とは客受に拠りて言う、略して捨(第八の捨)を云わず」と。

 二は論破する

 「彼には定んで意根を成ぜりとは説かず、彼には六の客の識有る時には無きが故に」(『論』)

 (意訳) 地獄には必ず意根が成立しているとは説かない。地獄には五識と相応する苦受を第六意識において説く場合、その依り所となる六識そのものが存在しないからである。

 『三十頌』第十六頌に「意識は常に現起す。無想天に生ずると無心の二定と睡眠と悶絶とを除く」 と云われていますが、第六意識は常に活動するといわれてはいるけれども、睡眠と悶絶や五位無心の時には活動はしない、間断するのですね。地獄は純苦の処であるので、悶絶の状態にあり、間断することになって、意根(前滅の識)も存在しないことになり、その場合六識そのものも存在しないことないなる、と。

 此れに対して安慧の反論が『述記』に述べられています。「その六転識は生と死と悶絶との諸位には行ぜざるをもって、若し彼れ救して意は主の意に依っていひ、受は客に依って説く」(意根は前滅の意で述べているのではなく、意根は主の意(阿頼耶識)に依って述べているのであり、受は客に依って説いているのであるから問題はない、と。この釈明を更に次の(三)で、論破します。