(雑感) サッカーワールドカップ、日本がんばりました。惜しくもベスト8には届きませんでしたが、日本列島を揺り動かせました。心を一つにして戦ったチームワークの良さは昨日の帰国会見でもよく伝わってきました。ベスト16がかかったデンマーク戦ですね。潜在的なエネルギーが爆発しました。試合中の一喜一憂ですね。本田選手のFKには芸術的な技をみました。遠藤選手のFKもすばらしかったですね。そして嬉しさを爆発させますね。サポーター共々その歓喜は本当に“やった”という感じですね。「喜は動勇する」ということは、このことを指すのでしょうね。これからいよいよ、ベスト8の戦いになりますが、何処の国が優勝するのでしょうか。でも、技と技を出しつくしての戦いには身心を揺り動かす力を感じますし、パワーをいただくことができますね。今しばらく寝不足の日々がつづきそうです。
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釈尊伝 (51) - いさましい姿 -
私は外国へは行きませんでしたけれども、出征だといわれて、一式新しいものをもらったことがあります。上着、靴、なにからなにまで全部新しいものを支給せられました。ただし身体にあわんのです。私がもらったものは袖がながかったり、靴がだぶだぶであったりして困ったです。しかしそこはなんとかして、銃をもち、ラッパを鳴らしつつ、家の門をでていくのです。沿道におおくの人がでて見ています。なにかいさましい気になりました。それから汽車にのってフイリッピンへ行く予定だったのですが、船が沈んでもう船もなくなって、行くところもなく、いつまでも汽車にのせられぐるぐるまわっていたことがあります。しまいには千葉県のある兵舎にほうりこまれ、そこでしばらく過ごしたことがあります。まぁ出征するときだけはいいものです。あとが悪いですが、あれだけなら悪くはないです。とくに先頭にたって馬にのって歩いている将校なぞうらやましかったです。
- 人間の欲望 -
ですから、そういういさましい姿は、いつだって人間の欲望というものには、はなれないだろうと思います。それから金持ちの姿。今日は、金さえあればという時代ですから、金持ちの姿というものが、やはり欲望の中の中心となるものでありましょう。それから権力、権力というものもまたたいへんな力を持っています。これには誰も勝てないです。昔から「非は理に勝たず、理は権に勝たず」ということがあります。非というのは道理のないことです。道理のないことをいっておっても、道理に出逢ったら勝てないということです。しかし、どんなに道理のあることでも、権力には勝てない。今でもそういうことがやはり通るのが人間の世界なのです。どんなに道理のあることでも権力というものは、動かせないのです。それが世の中の動かしがたい相であります。どんなに怒っても仕方がない。怒ったところで怒った方が負けです。昔の言葉で「天に勝てず」というのがあります。また「非は理に勝たず、理は法にかたず」ということもあります。法は法律です。理論はどんなに立派でも法律には勝てない。しかしその法律も権力には勝てないということです。しかしその権力も天に勝たずといって、ながい間、権力をふるっておりましたものが戦争に負けると、一時に力をうしなってしまうということです。そういう意味でとうてい変わると思わなかった、日本という国柄が変わってしまったということです。 (つづく) 『釈尊伝』 蓬茨祖運述より
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第三能変 受倶門 逼迫受を説明する。その(1)五識と相応する逼迫受を説く。
「諸々の逼迫受の五識と相応するをば、恒に名づけて苦と為す」(『論』)
(意訳)あらゆる苦痛や危難がさしせまる感受が五識と相応するものをつねに苦という。
その(2) 第六意識と相応する逼迫受を説く。初めは安慧の説(安慧の主張・その引証・結を述べる)、後は護法正義
「意識と倶なるは、有義は唯憂という、心を逼迫するが故に、諸の聖教に、意地の慼受(しゃくじゅ)をば憂根と名づくと説けるが故に」(『論』)
(意訳)第六意識と共なる逼迫受は有義(安慧の説)は、ただ憂受という。なぜなら心を逼迫するからである。そして諸の聖教(『対法論』巻第七)に第六意識の慼(うれい)受を憂根というと、説かれているからである。
「此の意には唯憂のみ有り。唯分別なるが故に。緒の聖教に意識と相応して有る所の慼受をば、皆憂と名づくと説くが故に。これは長徒の義なり。若し地獄の意に苦有りと言うものならば、何が故にか説かぬという」(『述記』)
これが第一師の説で、『述記』には長徒の義と述べ、具体的な論師の名を挙げていないが、注釈等から安慧の説であるとされている。第六意識は分別意識であるので、これと相応する逼迫受は、憂受のみで、苦受はないという立場です。
次はその証拠を引くわけですが、『述記』には問いがだされています。(上記)その問いを受けて『論』が答えています。 (この項 つづく)
参考
色界十七天 - 色界は初禅・第二禅・第三禅・第四禅の四天に分かれ、欲界の上に在る天界で、欲界の穢れを離れ、物質的なものがすべて清浄である世界をいう。色はrupaルーパ・形づくるという動詞から造られた言葉で、形あるものの意味がある。また変化するものという意味とがあり、形を有し、生成し、変化する物質現象をさす言葉。変壊(へんね)・質礙(ぜつげ)の意がある。-物体が特定の場所を占めて他の物を入れないこと。一つの物が他の物を妨げることで、物質的な障碍のあることで、色の特質とされる。欲界を離れ色界に生まれてもなお、障碍が生じるので、迷いの境涯とされる。この色界がさらに、また十七天に分類される。色界にいる十七種の神々のことを指す。
- 初禅(第一静慮処) (1)梵衆天ー大梵天に所属する衆の神々。 (2)梵輔天ー大梵天の前に行列して侍衛する神々。 (3)大梵天ー偉大なる梵天
- 第二禅(第二静慮処) (1)少光天ーこの領域の神々のうちでは光明が最も少ないので、少光天と名づけられる。 (2)無量光天 (3)極光浄天ー清らかな光が遍くこの領域を照らすので、この名がつけられる。遍光天とも、光音天とも名づけられる。
- 第三禅(第三静慮処) (1)少浄天ー精神的な快楽感(意地の楽受)を浄と名づけ、この領域のうちではこの浄が最も少ないので、少浄天と名づけられる。 (2)無量浄天 (3)遍浄天
- 第四禅(第四思慮処) (1)無雲天ーこの天以上では諸天が雲の密集しているようにひしめくことがないので、この名がつけられる。 (2)福生天ーすぐれた功徳をつくった凡夫の生まれるところの天。 (3)広果天ー凡夫の得る果報のうちでもっともすぐれた人の生まれるところの天。 (4)無煩天ー離欲の聖者が煩悩の垢をすすぐので、この名がつけられる。 (5)無熱天ー熱悩を離れている天。 (6)善現天ー禅定の徳が現れやすいので、この名がつけられる。 (7)色究竟天ーこの上には物質的な領域がないので、この名がつけられる。 詳しくは『倶舎論』巻八参照。 以上の十七の神々を説一切有部の学派は考えていました。