唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 受倶門 会通その(2) ・ 釈尊伝(64)

2010-07-19 22:40:14 | 受倶門

 『釈尊伝』 蓬茨祖運述より ー 釈尊の伝記  

 そういう意味で、釈尊の伝記は、昔は釈尊という名だけで、なんという説明もなしにきていました。歎異抄の文章がそれをあらわしています。近代に入ってからは、釈尊という名前は、歴史的人物として考えられてきました。しかし釈尊という歴史的人物の名前においては、仏教は埋没します。また、釈尊の伝記が云々されませんでしたが ー たとえば聖徳太子の義疏においても ー しかし仏教というものが日本の国に伝わってきたということがあります。ところが近代になって釈尊の伝記が明らかになってきましたが、しかし仏教というものは、われわれの生活となんの関係もなくなってきました。このちがいです。釈尊が歴史的人物であるならば、仏教として伝わらなかったでありましょう。仏陀という名のもとに仏法が伝わってきたのであります。それに対して歴史的人物として伝わったのがインド仏教です。しかしそこから仏教がつたわるということはなかったのです。

            ー 研究と信仰 ー

 問題は、仏教を信ずるということと、研究するということの差です。研究するというのは、自分に対象するもの、存在するものにいろいろメスを入れて、未知なるものを尋ねてゆくということになります。それに対して、信ずるというときには、まず我が身をそこへ、そのもとへ投げこみます。ある意味において、研究するときにも、選ぶということで、無意識にもそれを信ずるということがあります。いろいろのもののなかからこれにしようと決定するときには、無意識に我が身をそこへ打ちこむ決意をするわけでしょう。学校の単位を選ぶときなどそうです。これにしようと決めるときには、我が身をそれに捨てるということがあります。後で後悔してもおよばないということがあります。

            ー 自分が選ぶ ー

 そういう意味で、近代に入って歎異抄がとりあげられたことには、考えさせられるものがあります。そこには、今日われわれがおかれている社会の問題があるのです。つまり、われわれが決めるとき、決められてあるものを意識する。これは近代に入ってからでしょう。自分が選ぶべきなのに、自分が選ぶことができず、そうせしめられている。そう決められている。そのことがようやく近代に入って自覚せられてきた。それ以前は、そういう意識もなかった。当然、決められたとおり生きるのが正しいのであるという意識がありました。寺に生まれたものは寺を継ぐもので、他の職につくのは大変悪いことだという意識です。親が、社会が決めたとおり生きるのがよいので、そむくのは罪であるという。それが近代に入って、自分が思うまえに、選ぶことができないように決められてしまっていることを自覚するようになりました。そこから主体的意識もでてきました。 (つづく)

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 第三能変 受倶門 会通その(2) 『瑜伽論』を会通する。

 「瑜伽論に地獄の中に生まれたる諸の有情類には、異熟の無間に異熟生の苦・憂相続すること有りと説き、又地獄の尋・伺は憂と倶なり、一分の鬼趣と傍生とも亦爾なりと説けるは、亦随転門に依っていう」(『論』)

 (第一の解釈)『瑜伽論』に説かれているのは、ただ随転門に依って述べられているのである。

 (意訳) 「地獄の中に生まれた諸の有情類には、異熟の無間に、異熟生の苦受や憂受が相続すること」(『瑜伽論』巻第六十六・大正30・665a)と説かれ、又「地獄の中の尋・伺は、憂と倶である。餓鬼や畜生の一分もまた同様である」(同、巻第五・大正30・302c)と説かれているのは、亦随転門に依って述べられているのである、と。

 『述記』に依りますと、「苦・憂有りという」のは大衆部の所説に従った随転門であり、「諸識並生するを以って苦と憂と相続す」と云う。「異熟果に由って生ずと計するが故に、此れが中に異熟の無間と言う。即ち是れは無性第二に上度の九心なり」これは上座部に従って述べた随転門であり、大論第五に尋・伺は憂と倶なりというは、経量部に依って云う、随転門である。謂く、経部は尋・伺は唯意識に在り、然も地獄の中の意には唯憂受ありというが故に亦随転門なり。」と述べられてありますが、これらはすべて随転理門によって説かれているものであり、真実理門という大乗の立場から説明されているものではないのです。

 随転理門は今でいう小乗仏教の教理を指すのですが、私は時機の問題が隠されていると思うのです。正像末史観がいわれますが、像法の時代には六識に約して頷けるだけの機根があったのでしょう、と思うのです。それが時代の推移とともに深層意識の解明が必要となってきたのではないでしょうか。そのことが大乗仏教を必然としたと思うのです。やはり時機を見つめる眼差しが必要なのではないかと思います。小乗は大乗からみると、劣っているのではなく、大乗の必要がなかったということでしょう。しかし、小乗も時代の推移とともに煩瑣な教理に沈んでいき、必然として大乗仏教を生みだしてきたのではないでしょうか。