唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 受倶門 引証(三不成就の文) ・ 釈尊伝(54)

2010-07-07 23:56:17 | 受倶門
釈尊伝 (54) 老病死の観察    - 死の苦悩 -
 「ここにおいて、太子は人間のまねがれえないと考えられる老、病、死の苦脳はなにによるかを観察した」
 ここにおいて太子は知ったという意味は、老病死というものをぬきにしては恐怖は考えられないということがあります。やはり脅かしは死です。最後のところは死であります。死ぬぞ殺されるぞという感じや、また病気になったときにはとても孤独であります。誰もみてくれるものがいないといわれれば怖いわけです。われわれが一番脅かされるのはそういうときです。元気なときはいいけれども、病気になったらどうするのだ。自分一人でやって行くといい切っているものでも、病気になったら誰もみてはくれないのだぞ、と脅かされると、どうも返事ができません。そんなことは心配しなくてよろしいというときには、いわゆる捨てぜりふしかいえません。自分のことは自分で仕末する。どうするつもりか。ガスでパスッと仕末する。とそれくらいの捨てぜりふで喧嘩だけはできても、実際は困る。実はそうなるとなさけないです。やはり病いというものは、病にかかって苦しむということしか普通は考えません。病人の苦しみしか考えません。しかし、われわれの健康な中に脅かしがあるのです。 (つづく) 『釈尊伝』 蓬茨祖運述より
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 第三能変 受倶門 三不成就の文 (『瑜伽論』巻五十七を引いて証明する)
 「又、瑜伽に説かく、地獄には諸の根において、余の三は現行定んで成就せず、純苦の鬼界と傍生とも亦爾なりという」(『論』)
 (意訳) また『瑜伽論』巻五十七(大正30・615a~b)に次のように説かれている。「地獄には諸々の根においては、楽受・喜受・憂受という余の三は現行しない。また純苦である餓鬼界と畜生界も、またこれと同じである。ただし雑受である餓鬼界と畜生界の一部を除く。雑受である処の餓鬼界と畜生界には余の三は現行する」
 「五十七に説かく、問う、那落迦に生じて幾ばくかの根を成就せるや。答う、八(五根・命根・意根・捨根)は、現も種も皆成ぜり。三(三無漏根)を除いて所余は或いは成じ成ぜず。三(三無漏根)は現行に約せば成ぜず。種子において或いは成ぜり。謂く般涅槃法なり。或いは成ぜざるは無涅槃法なり。余の三(喜根・楽根・憂根)は現行の故には成就せず。種子の故には成就せり。一向苦処の鬼と畜とも亦爾なり。若し雑受処ならば後の三は種も現も亦成就せりといえり」(『述記』)
 純受の苦処である餓鬼界及び畜生界には余の三は現行しないという『瑜伽論』の記述は護法正義の論証になるということです。次章で述べられるのは第一師の説である地獄にも憂受は存在するという異説との議論がなされます。
 「八根現種皆成就」というのは、命根をば彼の第八の種に依って立つ。何故八は皆現も種も成就するというのか。それは現の八を命と名づけ、八の種を根と名づくのであり、合わせて命根というのである。であるから種現に通じるのである。」(『演秘』取意)
 「現も種も倶に八は成ずと言うは、五根と意と命とを七と為す。三の無漏は現は定んで成ぜず。種は或いは成ぜり成ぜざるあり。有性と無性と別なるが故に。憂・喜・楽の三は定んで種を成じて現を成ぜざる中に、喜と楽とは定んで現を成ぜず。・・・憂根を以っては三は現を成ぜず・・・種は必ず有るが故に。是の故に此の地獄に余の三は現行は成ぜず種は定んで成就すと証す」(『述記』)このような理由に由って第六意識に苦があり、また純受である所の餓鬼界・畜生界の一分も同じことになると説かれています。