昨日は天神祭のクライマックスである船渡御と大川での花火が打ち上げられました。夏の風物詩ですね。花火を見て屋台のお好み焼きをいただきました。ビールを飲みたかったのですが、売り切れで残念でしたが、冷たいお茶はとてもおいしかったです。花火を撮るのは難しいですね。タイミングが遅れるんです。プロはすごいですね。朝刊の見出しに掲載されていましたがプロの技はすごいの一言です。一瞬の被写体に向かう姿勢は定の世界ですね。私たちの命には定を生きる命が宿っているのでしょう。ただ忘れているだけですね。
- 『釈尊伝』 -
(69) その(3) ー 不合理な魅力 -
そういう意味で、今日まで仏教というものが、唯一のよりどころとしておりました比較的合理的なところが、必ずしも仏教というもののよりどころにはならないことになった。むしろ一般人といいますのは、そういう合理的なものには、なんの魅力も持たない。かえって不合理なものに魅力を感ずるということです。それが現実であります。それは仏教でないのだといいましても、依然として成田の不動山のお守り、あるいは創価学会の信仰、いずれもこれは合理主義ではないわけです。どこまでも奇蹟信仰ということが魅力をもつのでありまして、創価学会も奇蹟をいえなくなると、それで魅力を失う。したがって今日でいう魅力はギャンブルでありますから、いわゆる政治というギャンブルをつかんで、今日では、信者社会の魅力をつかむということになるわけであります。政治は勝ち負けでありますから、現代の一種のギャンブルと言ってよいでしょう。
その(4) - 機械化とは -
さて、必ずしもそれだけで批判されるべきではないのですけれども、問題はそういう不合理なものになぜ魅力を感ずるかです。それは合理主義という立場は、われわれ自身をいかにも解放するが如く解釈されておりながら、かえってわれわれをそこにぬきさしならないものとして縛りつける一面をもっているからであります。つまり、手工業時代から機械化の時代へと移ってゆく、農村だってそうです。肉体労働から機械化へと移ってゆく。機械化へ移ってゆくということは、これは自分の思う通りにやれないということです。怖るべき笑い話がでてきています。ここ二、三年来、農村に稲刈り機というものがはやってきて、みな買い入れるのです。自動車というものをみなが買い入れたように、一軒が稲刈り機を買い入れるとみんなが買い入れる。今まで稲刈りといえば、人がいないので苦労する。人を雇うと相当経費がかかるううというので、それで自分の苦労もいろいろ考えて機械化にふみきる。すると、機械というものは便利なものですから、たちまちにして稲を刈り取ってゆくわけです。それでそれを集めるだけでいいわけです。ところが普通自分が刈った時には労力はいりますけれども、それを束ねて積みあげて、天気になればそれを干す。雨が降りそうだとするとそれをまた積みあげることができたのですけれども、機械の場合は、ある時間に刈ってしまわねばならんわけです。ところが刈り上げた時分に雨が降ってくると、そのまま水づかりになるわけです。それに昔は納屋に稲を運んで脱穀したのですが、今度は納屋に持ってきて脱穀はできない。やはり田の中でせねばならないのです。すると雨が降ってきたらできないのです。刈るのはいいのですが、後が思うようにならないのです。合理主義という意味では、一面、合理主義そのものによって人間が支配せられる、と同時に逆に人間でやれることまでが、今度はやれなくなるという。そういう悩みを夏に帰ったときに檀家の者が訴えていました。それじゃ機械を共同で持てばといっても、人間ですからこれもまたなかなか共同作業ということがうまくいきません。十軒で一台の機械を持ってやるということになると、誰でも早くやってほしいのです。経費も同じようにかかるというようなことですから、一番後になるものが損をするというようなことになるのです。 (つづく) 蓬茨祖運述より
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第三能変 受倶門 護法正義を述べる
「有義は六識には三の受倶にある容し。順と違と中との境を倶に受く容きが故に、意は定めて五が受と同にしもあらざるが故に」(『論』)
「此れも亦前に六十三(定中に声を聞くの文)の文を引いて三性倶なりと証するに同なり。定の中には喜(初・ニ定)・楽(第三定)受に通ず。卒爾の耳識は但捨受のみなるが故に」(『述記』)
(意訳) 護法正義は、六識には三つの受が、すべて倶に並び立つことがある。なぜなら、順と違と中との境を同時に受けるはずだからである。第六意識の受は必ずしも前五識の受と同じものとなるのではないからである。定中の意識は、喜受や楽受であっても、卒爾の耳識は、但捨受のみであるということがある。聞法会で先生の話に夢中になり楽受を受けている時、正座の状態では膝や足がしびれて苦受を感じます、しかし耳識は先生の声を聞いており、それは捨受であるということがあり、よく経験のすることです。
ここは、前に三性の倶・不倶におけるのと同様であるので改めて述べる事はない、と『述記』には記されています。
順境 - 自分の心にかなう対象のこと。
違境 - 自分の心にかなわない、違する対象のこと。
中境 - 順でも違でもない対象のことで、倶非の境という。