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蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

エドガルド・モルターラ誘拐事件

2020年03月15日 | 本の感想
エドガルド・モルターラ誘拐事件(デヴィット・カーツァー 早川書房)

1858年、統一運動が盛り上がるイタリアのボローニャで、6歳のユダヤ人少年(エドガルド)が教皇の派遣した兵士に連れ去られる。父母は息子を取り返そうと全欧のユダヤ人コミュニティを通じて教皇へ働きかけるが・・・という話。

キリスト教の洗礼を受けたユダヤ教徒は、キリスト教会が(保護するために)誘拐してもいい(というか誘拐すべき)、というのが当時のカトリック世界のルールで、そのための手順や収容施設もあったそうだ。
洗礼というのは(被洗礼者の命が危うい場面では)聖職者でなくても実施することができるそうで、エドガルドの場合もモルターラ家の女中から受洗した、とされていた。

誰でも簡単(決まり文句を唱えて水を垂らすだけ)に洗礼儀式ができてしまうのでは、勝手に洗礼されて誘拐される子供の方はたまったものではないのだが、モルターラ家はあくまでソフトにお願いする、という恰好で教皇に働きかける。
そのやり方が効果的だったのか、民主化運動が燃え盛り宗教的な権威が衰えた時期だったせいなのか、この誘拐事件は全欧中の注目の的となってしまう。意固地になってエドガルドを手放そうとしない教皇(ピウス9世)は、世論の厳しい非難を浴び、これがイタリア統一運動にも影響を与えたそうである。

エドガルドは教皇に大切にされ、自らも(キリスト教の)聖職者になってとても長生きする。幼い頃からキリスト教に感化され、それ以外のものを信じられなくなった彼は、ある意味幸福な生涯を送ったと言えなくもない。
対照的に両親の方は、息子は帰ってこないわ、返還運動に注力しすぎて職業も財産も失うわ、はては殺人の疑いまでかけられるという悲惨な境遇に陥ってしまう。
皮肉としかいいようがない結末だ。

最近、たまたまユダヤ人に係る物語をたくさん読んだ。様々な差別や迫害を受けても(あるいはそれゆえに)2000年以上に渡って民族のアイデンティティを強固に守り抜く彼らの原動力はどこにあるのか?を問う内容が多いのだが、なかなかそれを本から見出すことは難しい。

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