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蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

砂に埋もれる犬

2025年03月12日 | 本の感想
砂に埋もれる犬(桐野夏生 朝日新聞出版)

12歳の小森優真は、4歳の腹違いの弟と母の亜希といっしょに北斗という元ホストのアパートに同居していた。学校には2年ほど通学しておらず、亜希は、北斗と遊びに外出しては帰ってこない。残されたわずかな菓子パンなどを食い尽くすと、優真は近所のコンビニ店長(目加田)に廃棄する食品を分けてくれと頼みこむ。目加田は気の毒になって本来は禁止されている廃棄品を提供する。やがて母を殴ってアパートを飛び出した優真は、施設に保護され、娘を病気で失っていた目加田の里子となるが・・・という話。

桐野さんの作品は、登場人物が不幸・不運の坂を転げ落ちていくエスカレート感と救いのないエンディングが特徴の一つだと思う。
本作ではエスカレート感はあまり強烈ではない(それでも、やっと平穏な日常を手に入れたはずの優真がおかしな方向に走っていく姿はやるせない)が、救いのない結末には(わかっていても)少々ゲンナリするものがある。(いや、あのラストは和解を描いたものだ、という見方もあると思うが・・・)

毎日の食事にもこと欠いていた優真。通学や朝夕の食事はもとより個室もスマホも与えられるという環境になっても、同級生から無視されたり里親から生活態度を注意されると、前の生活の方が気楽でよかった・・・などと不満を募らせる。
隣の芝生は青く見えるというのか、まこと人間は自分が今ある環境に満足できない性癖があるのだなあ(まあ、オレもそうだけど)と、悲しくなる。

規範というものに触れさせてもらえずに中1にまでなってしまった優真に、理屈でルールを説いても反感を買うだけ、目加田の妻は難病の娘を長年看護することで子どもをありのままに受け入れる考え方ができ、それがエンディングにおいてわずかな救いを感じさせてくれている・・・のだろうか??

入門 哲学としての仏教

2025年03月12日 | 本の感想
入門 哲学としての仏教(竹村牧男 講談社新書)

仏教というと、お寺とかそこにある墓とか、葬式とか供養とかといった儀式的な側面しか(現代日本においては)想起されないが、本書では(題名通り)仏教の哲学としての側面を解説している。「入門」とあるものの用語や言い回しは難解で読み進むのに苦労する。用語解説集かせめて索引があると良かったと思う。

「しかしその宗教としての仏教のなかに、極めて論理的に自己と世界にかんする真実と真理を究明し、かつ表現しており、そこにいわば哲学としての側面があることも事実である。(中略)じつに存在・時間・言語など、広汎な問題にわたっての限りなく深い「知」が、仏教に豊かに存在していた。」(P241)

そして、西洋哲学や科学が突き詰めてきた主客二元論(客観的な観察が可能であるとする)・要素還元主義を批判し対立する内容を持っており、特に関係性について縁起という思考に特徴があるとする。

「仏教の根本概念は、無我と縁起ということができるが、それは根本的に、実体(自己自身で自己の存在を支える、常住不変な存在)を否定し、関係主義的立場に立つものといえる。この関係主義的世界観こそ、今日のエコロジーの基礎だし、あるいはフラクタルとか複雑系とかにも関係していよう。縁起(関係論)の哲学を最高度に高めた華厳の思想、重重無尽の縁起を説くその華厳の思想などは、まさに超モダンそのものである」(p13)

先日、近親者の3回忌があって、住職が読経のあと、長目の法話?をされた。
自分はかなり高齢なので次の周忌には来られないかもしれない。これがあなた達にお話をする最後の機会かもしれない。
ということもあり、縁起の思想に触れたその内容は印象的なものであった。
本書は出版直後の2009年に購入したが、序盤を読んだだけになっていた。今回読み始めたのは住職の話を聞いたのがきっかけになった。