蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

フーガはユーガ

2020年03月15日 | 本の感想
フーガはユーガ(伊坂幸太郎 実業之日本社)

風我と優我は双子の兄弟。幼い頃から父親の暴力に悩まされてきた。二人には特殊な能力があった。誕生日になると2時間ごとに二人がどんなに離れた場所にいても瞬間移動して入れ替わる(着ている服や手をつないでいる人もいっしょに移動する)ことができるのだった・・・という話。

荒唐無稽としかいいようがない二人の「能力」も、著者の手にかかると妙なリアリティがある面白い現象に見えてくるから不思議だ。

例によって悪の権化みたいな人が出て来て、「能力」を生かしてこの人をやっつける、というストーリーになる。悪者の描き方がうまい(とても悪い人のように思えるように描写してある)ので、終盤ではどうしても主人公側に立って勧善懲悪のカタルシスを得ようとページをめくる手が止まらなくなる。
著者の作品をたくさん読んできたので、さすがにこのパターンも飽きてきたかなあ、という気もする。
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機密費外交

2020年03月15日 | 本の感想
機密費外交(井上寿一 講談社現代新書)

官房長官が所管する現代の機密費は使い道が公開されておらず、監査を受けるための記録活動も必要ないらしい。しかし、戦前においては、機密費の記録や領収書などの証跡は相当程度保管されていたようだ。大半は終戦時に焼却されてしまったが、その一部は整理・刊行が行われているそうである。
本書は、そういった機密費に関する公開情報から、いったんは和平に近い状態にあった日中関係が破綻に至るプロセスをたどる評論。

本書を読んで一番に感じたのは、機密費の使われ方が割合とみみっちい、ということだった。現場委の外務省官僚やその関係者は(現在の価値で)数十万円程度の機密費を引き出すのにたいそう苦労したようだ。
また、使い道の多くは、国民政府の親日派やリットン調査団などへの接待費(飲食代等)だった、というあたりも、スパイ小説ばりの内容を期待していた私にはちょっと残念な実態であった。
もっとも、記録が残っていないだけで、実質的な機密費として巨額のカネが動いていたのかもしれないが。

満州事変以降、日中戦争までは日中関係は悪化の一途、というのが私のイメージだったのだが、本書によると事変以降でも和平に近づいたことは何度もあったようだ。
ただ、そのたびに政府関係者の食言や現地軍の勝手な行動などによって相互不信が広がり、破断になってしまったらしい。

著者によると、こうした、友好でもないが戦争でもない、といった中途半端な冷戦状態は現代に通じるものがあるという。つまり、ちょっとしたアクシデントで関係は坂道を転げ落ちるように悪化するかもしれない(ので注意すべき)、というのが本書のメッセージである。
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エドガルド・モルターラ誘拐事件

2020年03月15日 | 本の感想
エドガルド・モルターラ誘拐事件(デヴィット・カーツァー 早川書房)

1858年、統一運動が盛り上がるイタリアのボローニャで、6歳のユダヤ人少年(エドガルド)が教皇の派遣した兵士に連れ去られる。父母は息子を取り返そうと全欧のユダヤ人コミュニティを通じて教皇へ働きかけるが・・・という話。

キリスト教の洗礼を受けたユダヤ教徒は、キリスト教会が(保護するために)誘拐してもいい(というか誘拐すべき)、というのが当時のカトリック世界のルールで、そのための手順や収容施設もあったそうだ。
洗礼というのは(被洗礼者の命が危うい場面では)聖職者でなくても実施することができるそうで、エドガルドの場合もモルターラ家の女中から受洗した、とされていた。

誰でも簡単(決まり文句を唱えて水を垂らすだけ)に洗礼儀式ができてしまうのでは、勝手に洗礼されて誘拐される子供の方はたまったものではないのだが、モルターラ家はあくまでソフトにお願いする、という恰好で教皇に働きかける。
そのやり方が効果的だったのか、民主化運動が燃え盛り宗教的な権威が衰えた時期だったせいなのか、この誘拐事件は全欧中の注目の的となってしまう。意固地になってエドガルドを手放そうとしない教皇(ピウス9世)は、世論の厳しい非難を浴び、これがイタリア統一運動にも影響を与えたそうである。

エドガルドは教皇に大切にされ、自らも(キリスト教の)聖職者になってとても長生きする。幼い頃からキリスト教に感化され、それ以外のものを信じられなくなった彼は、ある意味幸福な生涯を送ったと言えなくもない。
対照的に両親の方は、息子は帰ってこないわ、返還運動に注力しすぎて職業も財産も失うわ、はては殺人の疑いまでかけられるという悲惨な境遇に陥ってしまう。
皮肉としかいいようがない結末だ。

最近、たまたまユダヤ人に係る物語をたくさん読んだ。様々な差別や迫害を受けても(あるいはそれゆえに)2000年以上に渡って民族のアイデンティティを強固に守り抜く彼らの原動力はどこにあるのか?を問う内容が多いのだが、なかなかそれを本から見出すことは難しい。
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勝ち過ぎた監督

2020年03月15日 | 本の感想
勝ち過ぎた監督(中村計 集英社文庫)

2004~5年に高校野球全国大会で連続優勝し、2006年も決勝再試合の末準優勝した駒大苫小牧高の香田監督を描いたノンフィクション。

同校は他県から選手をかき集めるようなこともなく(大阪出身の田中将大が活躍したことで有名だが、彼はスカウトされたのではなく、自ら同校を志望したそうである)、多くの選手が北海道出身。
タイトルが暗示する通り、考えもしなかった甲子園優勝(しかも初めて「白河の関」越え)を成し遂げて突然有名校となったことから(無名校なら見逃されそうな)不祥事が表面化してしまう。
周囲やマスコミから持ち上げられたと思ったら突然突き落とされるような扱いを受けた香田監督は、人間不信に陥る。そして田中や本間(2006年の4番)たちが属する学年の選手と(彼らが引退後に)決定的な仲違いをした時に精神の不安定さが最高潮に達する。(客観的にみると香田さんの行動や考え方に世間並みでない点が多々あったのも確かなようだが)
甲子園常連校の監督というと、テニュアを得たかのように相当な長期間監督を続けている、というイメージがあるが、圧倒的な実績を残した香田さんは、上記のような経緯から2007年シーズンの後、追われるように監督を辞めている。

本作は、駒大苫小牧高の野球部の栄光を描いた部分は、「ドカベン」シリーズのような上出来の野球マンガさえ超えるような面白さ(結果を知っていてもどんどん先が読みたくなる)があり、その反面として、同校野球部の影の部分や香田監督の葛藤を描く場面のやるせない絶望感はくっきりと暗くて黒く、内省的な文学作品を読んでいるような趣があった。
「事実は小説よりも奇なり」を地でいく、並の小説より遥かに高いエンタテイメント性と文学性を兼ね備えた優れたノンフィクション作品だったと思う。
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小さな場所

2020年03月15日 | 本の感想
小さな場所(東山彰良 文藝春秋)

台湾の繁華街に刺青専門店(タトウーショップ)が集まった一角があり、紋身街と呼ばれていた。主人公の景健武(小武)は小学生で、両親は紋身街で食堂を経営している。小武と紋身街の人々をめぐる短編集。

「黒い白猫」は、タトウーショップを経営するニン姐さんの店から逃げ出した黒猫を連れてきた女の子がニン姐さんに小さな猫の刺青をしてもらう。やがて彼女は芸能界で活躍するがすぐに忘れられてしまう、という話。

不思議な探偵の孤独(グウドウ)さんが主役の「神様が行方不明」は、土地公廟を出奔した神様を孤独さんが連れ戻す話。孤独さんと小武のちょっと哲学的?な会話がいい。

「骨の歌」は、小武の通う学校の郷土史?の先生が実はラッパーとしてデビューを目指していて・・・という話。台湾の原住民問題の複雑さが垣間見られる。

「あとは跳ぶだけ」は、小武の知り合いのレオは演劇を通じて知り合った女の子と付合い両親にも紹介するような仲になるが、その子が突然失踪してしまう。彼女を寝取ったのはなんとレオの父親だった。レオはショックで過食症になり・・・という話。
本作の中ではこれが一番よかった。レオが立ち直る過程が泣かせる。芥川龍之介の「地獄変」と対照させたのも効果的だった。

「天使と氷砂糖」は、紋身街で売女呼ばわりされていた小波という女の子の話。小武が彼女から氷砂糖をもらうシーンが印象的。

「小さな場所」は、小武が井の中の蛙をめぐる創作をする話。創作や小説に関する著者の姿勢が伺われる。井の中の蛙の物語も面白い。
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