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蛙と蝸牛

本の感想。ときどき競艇の話。

死とは・・・

2007年04月28日 | Weblog
幼稚園に通う娘が、ある日突然「死にたくない。死ぬのが怖い」といいだした。なぜそんなことを言うのか理由はよくわからなかったが、30分もしたら忘れたようだった。

私も子供の頃から死ぬのがとても怖かった。学研の雑誌にノストラダムスの予言の話が掲載されていて、それを読んで1999年に人類は滅亡するのだとある時期まで信じていた。宇宙人に殺されるのか、いやだな~、痛いのかな~と眠れぬ夜に一人悶々としたりした。

人は誰もが「死」とは何なのか考えるものだと思うが、もちろん、なかなか納得できる答えは見つからない。

少し前に、当分これを私にとっての「死」の定義にしてもいいかな、と思える文章を見つけたので紹介したい。日本経済新聞の3月9日付夕刊のコラム「波音」から引用する。


◇ 死のデリート
死とは何か。三十代で亡くなったミュージシャンは「情報化だ」と言ったという。情報として人々の中に残ると。なるほど、手紙や写真で亡き父母を懐かしむ。クラシックや懐メロを楽しみ、黒沢や小津の世界に親しめのも、情報化されたからだ。
そう考えると、死も満更ではない。自分はどれほど情報化されるか。人が死んだ後、思い出を語る人も絶えて、二度目の死を迎えるともいう。大量に情報化された太平洋戦争の死すら、今や風化寸前。
たくさんの濃い思い出をつくっておかないと、一周忌も待たずにデリート(削除)されかねない。(修)


肉体は焼き尽くされ、あるいは地下で腐敗して滅亡しても、「私」は人々の記憶に残り続けるという、ある意味甘やかな思い込みは、死への恐怖を多少は緩和してくれるように思う。

何もしていない時

2007年04月20日 | Weblog
かなり昔に、確か別役実さん(だったと思うのです)が、エッセイで以下のような主旨のことを書いていらっしゃったような記憶があります。
“煙草とコーヒーとミステリ(の本)の3つで一つである。煙草をすいながらコーヒーを飲みつつミステリを読んでいる時、私は何も考えず、何も行わない状態になれる。3つのうち一つでも欠けてはいけない。日常においてそのような状態になれるのは、このシチュエーションしかなく、私にとって貴重な時間である。”

当時はこのエッセイの真意を十分には理解できていなかったように思います。

近頃、私も本を読んでいる時に“何も考えず、何も行わない状態”になる(というか意識的にそういう状態になれる)ことが多くなりました。
面白い本を読んでいると、気持ちがこの世から離れて本の世界に移っていくような気がする体験はだれにでもあるのではないでしょうか。

私は、本を読むこと以外に有効なひまつぶしの方策をしらないので、空いた時間には寸暇を惜しんで(?)本を読みます。長年そうしたことが習慣になっているせいで、最近ではおもしろくない本でも読み続けているうちに意識をあらぬ方向へもっていってしまう(うまく表現できませんが、本の内容を考えたり味わったしているわけではなく、そうかといって他のことを考えているわけでもない状態。つまり“何も考えず、何も行わない状態”)ことができるようになりました。そして、そのような時間を持てることが、読書の大きな楽しみの一つなのだろうと考えています。

FF13

2007年04月16日 | Weblog
ファイナルファンタジー(FF)12が、DS版で4月下旬に発売されるという。PS2版のリリースから、かなり短期間での移植といえるだろう。

これ、PS3陣営にとっては、けっこう衝撃的なのではないだろうか。ドラクエがDSに行ってしまった今、FF13こそが頼みの綱。しかしPS3向けにFF13が出ても、まもなくDSでもリリースされることが予想されるなら、PS3普及の強力なエンジンにならない可能性がある。
FFの最大の魅力である華麗なグラフィックスはDSの画面では再現できないかもしれないが、それだけのためにPS3の高価格を支払う気はあまりしないのではなかろうか。

スクエア・エニックスとしても、FFをPS3と心中させる気はないだろうから、もしかすると同時発売ということもありえよう。

いずれにせよ、PS3のライバルは、WiiではなくDSであることは明白。DSの想像を超える普及台数は脅威だ。

なんてことを言いつつも、実は「ファイナルファンタジー・タクティクス」の新作がPSPで出るというのを知って「PSP買っちゃおうかな~」なんて悩んだりしているのだが・・・(スクエアさん、DSでも早く出してください)

平和島

2007年03月21日 | Weblog
今日の総理杯の優勝戦。植木が01でフライング。恵まれの濱野谷が00のタッチスタート。最もスタート遅かった三嶋でも06だった。

かなり昔、野中(和)が(たしか住之江の賞金王だと思ったが)「起こした後、2、3艇(フライングを)切ったと思って、ゆっくり回った」とコメントしていたこと思い出した。
結局、このレースは誰もフライングではなかったので、このコメントは強がりだったのかもしれないが、エンジンイマイチだった井口とか三嶋とかは、(当然かなり早いスタートだということはわかったはずなので)思い切って落としてみる、という勝負の仕方もあったんじゃないか、と思った。

私は、ほとんど吉田と三嶋絡みの券だった。スタート時点で終わってしまっていたので、悔し紛れの感想なのだが。

それにしても植木は平和島と相性が悪い。今村の住之江みたいなものだろうか。

擬似エスパー

2006年12月12日 | Weblog
11月の初め頃、新聞に、頭の中でたし算や引き算を繰り返すと、その際に脳内の血流が増えることを利用して(それを電気信号に変換する装置を通して)模型電車を手を触れずに動かすことができた、という記事が載っていた。早ければ5年後にも身体に障害のある人が、頭で考えただけで家電機器を動かすことができるようになるという。

これって、見た目は超能力者そのものだなあ、と思った。
私は、超能力者と聞くと、マンガの「バビル2世」が真っ先に思い浮かぶ。テレポーテーション、サイコキネシス、テレパシーなんて言葉にあこがれた。手をつなぐとエネルギー波がほとばしって、つないだ相手をバーベキューにしてしまう、というのが極めつけの技だったかな。今では「エスパー」という言葉もめったに聞かなくなった。

どんなに科学が発達してもこうした超能力は解明されたり身につけることはできないんだろうな、と思っていたが、考えてみると、CTスキャンとか携帯電話、音速に近い旅客機なんていうのは、機能だけみれば超能力を実現させたものといえなくもない。

冒頭の例のように、脳内の何らかの動きを物理的・化学的な差異として抽出する技術が開発されつつあり、これを突き詰めていけば、意外と近い未来に「○○物質が分泌された。今この人は怒っているぞ(顔は笑っているけど)」などという調子で、人間の考えや感情が簡単に読み取れるようになりそうだ。

しかし、これは禁断のテクノロジーじゃないかという気がする。人間関係は原則としてタテマエで動いているわけで、本音が常にあからさまになってしまっては、現状のコミュニケーションがすべて崩壊してしまいそうだ。