老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

核武装論の理念喪失!

2006-10-21 14:45:47 | 安全・外交
中川・麻生両氏が口火を切った形の「核武装論」は、日本政界の中に底流として流れていた。石原慎太郎の核武装論は有名だが、中国が核実験をしたとき、時の総理大臣佐藤栄作が核武装に言及し、専門家を集めて核武装の可能性を研究していたことが昨日の報道ステージョンで流されていた。ことほど左様に、力を標榜するものにとって、核というものは魅惑的な存在である。

国連安保理の常任理事国はすべて核保有国であり、その他インド・パキスタン・イスラエルも保有している。核の抑止力理論は、20世紀の遺物ではなくて、現実の問題として再浮上し始めている。しかし、20世紀と決定的に違うのは、核がテロリストに渡り、それが現実に使われる可能性がある点である。核の小型化(スーツケース爆弾のような)がそれを可能にした。科学技術の進歩が、人類の首を絞める、という科学と人間との逆説的な関係が核問題に象徴されている。

ともあれ、国家対国家の間なら有効である「核抑止力理論」も、国家対テロリストには効力はない。その意味で、核問題は、20世紀よりはるかに深刻で、一歩間違えば本当に核が世界中に拡散し、人類の生存を根底から揺るがしかねない。

加藤尚武はを戦争論を3つの類型に分けて考えている。
1、絶対平和主義
絶対平和主義とは、非戦論・非武装中立、自衛権も含めた戦争放棄、絶対無抵抗の立場。日本国憲法に先取りされた理念。(※解釈改憲とは、「自衛隊」を認知するために、国際法で「個別自衛権」は認められているという理論付けで戦後自民党政府が行ってきたもの。現在の安倍政権は、この解釈を「集団自衛権」まで拡大しようというもの。)
2、限定戦争論
今回の北朝鮮の問題のように、平和的手段が効をなさない場合がある。そのとき、条件をつけて限定的な最小限度の武力行動を容認する立場をいう。基本的には反戦論の立場で、絶対的平和論ではなく、相対的平和論とでも言うべき立場である。現在の国連の立場は、基本的にこの立場であり、7章の41条、42条というのは、条件付、限定的武力行動の容認と読むべきであろう。
3、無差別主義
2の「限定的」というのは、きわめて歯止めが難しい論理で、現実に戦争が始まったら、戦場の論理が優先される。現にイラク戦争では、民間人の死者は5万人を越え、使用されている武器も核爆弾を除けば、限定されていない。つまり、戦争はいったん始まってしまえば、「戦場の論理」が優先される。さらにいえば、米国の「先制攻撃論」は簡単に言えば「やる前にやれ」という論理で、この発想はどう考えても、条件付「限定戦争」とはいえない。つまり、「危機があるからやむ負えない」「戦争だから、やむ負えない」という論理が通る可能性が高い。こういう無限定な戦争のありようを肯定する考え方を無差別主義論という。

日本国憲法9条を非現実的、理想主義的夢物語、平和ボケなどと嘲笑・揶揄する右派の論調から、それでは自分はどのような「戦争観」を持っているかを判断するのは難しい。今回の中川・麻生両氏の「核武装論」も、両氏がどのような「戦争観」を持っているかで大きくそのありようが異なってくる。ただ、「絶対平和主義」にしても「限定戦争論」にしても、「戦争は悪」「平和が正しい」という前提がある。正しい「平和」を守るためにどうすべきか、という方法論の相違が両者を分けている。

しかし、悲しいかな「平和が嫌い」「戦争が好き」というタイプの人間が多数存在する。わたしから見れば、中川・麻生両氏とも、「平和が嫌い」なタイプに見える。これは両氏に限らず、政治家全てにいえるのかもしれない。選挙のときの政治家の姿を見ていればよく分かる。ほとんどの政治家が生き生きとしている。選挙は戦い。そこで生き生きとなるというのは、人間の性としかいいようがない。

高村光太郎が、真珠湾攻撃を聞いた時、ものにつかれたように、戦争賛美の詩を書いたのも、戦いが好きという人間の性なのだと思う。何も高村だけはない。真珠湾の戦果に胸をときめかせ、歓呼の声を上げた日本人は無数にいるはずである。ことほど左様に人間という奴は、「戦いが好き」だし、静かな「日々」に何となく物足りなさを覚えるものである。(※この場合、人間を男といった良いかもしれないが、現在は女性にもこういうタイプが増えているので限定しなかった)

こういう人間の心理を計算に入れない政治家の発言は、きわめて危険である。逆にその心理を計算に入れて発言しているのなら、そういう発言こそ「扇動」というべきであり、厳しく糾弾されねばならない。

さて、今回の北朝鮮危機で明らかになったのは、21世紀人類が直面している「核拡散」の恐怖である。この恐怖を如何にして取り除くか、という課題解決に人類の未来がかかっている。

ここでわたしたちがよく考えなければならないのは、唯一の被爆国である日本と世界に先駆けた先見性を持っている日本国憲法の意味である。北朝鮮の核の恐怖に晒されている今こそ「核廃絶」を世界の先頭に立って叫ぶことが、世界から尊敬されることだという認識がなくてはならない。

こういう恐怖にさらされても、なぜ日本は核武装をしないのか。なぜ、非核三原則を遵守するのか、ということを世界に大きく発言するべき、絶好のチャンスである。政治家の先見性とはそういうものだと思う。同時に、目の前にある危機には、国際社会と連携して、日本がとりうるできるだけの手を打てばよい。臨検などという戦争一歩手前の手段をとらないのは、上記の理念に基づいているからである、というメッセージを発信すればよい。

国家の品格とは、そういう高い「倫理性」をもってはじめて生まれるものである。今回の中川・麻生はじめ安倍内閣のネオコン連中には、そういう先見性も倫理性も何もなく、危機の政治利用しか頭にないことがはっきりしたと思う。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水

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1 コメント

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おかしいですよ (鶴田ふぁん)
2006-10-30 23:41:35
だれも戦争なんかしたいと思ってないですよ。どうすれば戦争をせずに済むか、北朝鮮でも同じだが、核が平和に有効と思ったから配備しただけで、主要国はみんな持っている。議論すら許さないという左翼の発想は言論抑圧で、フッシスト独裁主義で戦前日本と同じ事をしようとしているんですよ
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