老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

芸者・おもてなし・グローバルな視野(2)

2014-03-05 14:20:39 | 安全・外交
ここでいう芸者(芸妓)とは、世界に喧伝されたFUJIYAMA・GEISYAGIRLとは本質的に違います。

岩下尚志は芸者論でこう書いています。

「頭は鬢(びん)を張り出して髷(まげ)の前を割った島田に、平打の笄(こうがい)一本、櫛(くし)一枚、簪(かんざし)一本という簡素なもの。
 吉原芸者のこの姿を、花鳥山水等の図案の打ちかけに総縫いの上着と無垢の下着、髪の上は小間物屋の店のようだと形容された遊女と比べれば、いかに遠慮をさせたかということが分ると思います。
 そもそも、身分の別のやかましかった近代以前における服装や髪型は、一目見ただけで、その人物の職掌が分るものでなければならず、めいめいの洒落や酔狂で装うものではありませんでした。オリジナリティなどという観念の種さえないのですから、当り前の話です。
 現在の私たちの感覚からは一寸分りにくいのですが、見板創始の際に決められた吉原芸者の容儀は、おそらく男装に近い気分が感じられたに違いなく、客の誘惑を拒否するという表象の形であったように思われます。」P76

一般的には、花魁も遊女も混同されていますが、吉原の主人公は芸者ではなく花魁(性を提供する遊女)であった事がよく分かります。芸者とは、宴の席を盛り上げるために芸を提供する補助者だったのです。芸者衆は、遊女の職種を奪わないように厳しい制限がありました。芸者衆は色香ではなく芸で宴席を盛り上げると言う遊郭の中での自分たちの【居場所】をよく心得ていた人たちだったのです。出過ぎず、目立たず、それでいて見事な芸で宴席を盛り上げ、多くの事に通暁していて、客のどんな会話にも対応できる、そのような存在でした。彼女たちは、接客の見事なプロフェッシヨナルな存在だったのです。

こういう彼女たちだったからこそ、鹿鳴館のような旧来の日本では想像もつかなかった世界で堂々と振る舞い、世界の中での地位向上に一役買う事が出来たのでしょう。

幕末の唐人お吉の悲劇は、彼女の庇護者が幕府高官でなかったという点にあります。伊藤梅子・木戸松子・陸奥亮子たちは、夫が政府高官でした。もし、唐人お吉に同じような庇護者がいたならば、彼女の活躍ももっと評価されていたかもしれません。

ここに、江戸幕府と明治政府の時代の違いを見る事ができます。伊藤にしても陸奥にしても木戸にしても、江戸時代の身分制度の中では、それほどの高位ではありません。どちらかと言えば、軽輩にあたります。これが、意識の中での身分制度のくびきから自由にしたのでしょう。この身分意識からの解放が、自分自身の意志で【芸者】を娶り彼女たちの能力を開花させたのだと思います。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水

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