老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

芸者・おもてなし・グローバルな視野(1)

2014-03-05 14:12:02 | 安全・外交
鹿鳴館(ろくめいかん)とは、皆さんが教科書などでご存じのように、外国からの賓客や外交官を接待するために明治政府によって建てられた社交場です。文明開化の象徴的建物で、いわゆる欧化政策を象徴する存在です。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ばれます。

鹿鳴館は、当時の外務大臣井上馨の時、内山下町の旧薩摩藩装束屋敷跡(現在の千代田区内幸町、現帝国ホテル隣のNBF日比谷ビル(旧 大和生命ビル)に建てられ、後に華族会館になり、1940年に壊されています。鹿鳴館落成の明治16年より明治20年までの時期がいわゆる鹿鳴館時代です。鹿鳴館建設の目的は、明治新政府の最大の外交課題で悲願ともいえる幕末に締結された諸外国との不平等条約の改正のためでした。特に、【関税自主権】の回復は明治新政府の国家のレーゾンデートル回復のための悲願でした。その為、諸外国の外交官や婦人たちを招いて行う社交場が必要だと井上馨は考えたのです。

当然、当時の欧米各国の社交場では、社交ダンスが行われていました。先日、【戦争と平和】を久しぶりに見ましたが、当時のロシア貴族の社交場での衣装、ダンスなどが忠実に再現されていました。平成に生きる私たちでもその華やかさには驚かされるのですから、明治時代に生きた人々にとっては、驚天動地の世界だったに違いありません。特に、江戸時代を生きてきた女性にとっては、人前で男女が身体を接して抱き合って踊るなど、信じられない世界だったと思います。それこそ【ふしだらな】という一言で切って捨てられる世界だったのです。たとえば、「「西洋踊りは猥褻で困り切りたる馬鹿踊りなり」(『朝野新聞』)などと酷評しているように世間では悪評さくさくでした。

当然、幕末の攘夷思想を受け継いでいる国粋主義者からは、井上の欧化主義に対して猛烈な反対が巻き起こったのです。これが、鹿鳴館がわずか4年足らずで閉館された大きな要因でした。

さて、鹿鳴館をつくったのは良いが、一体どのような女性がこのような華やかな社交の場で活躍できるのでしょうか。おそらく、この問題は、明治の元勲たちを悩ませたに違いありません。この間の事情について山田風太郎は【江戸の舞踏会】で面白おかしく解説しています。

http://www4.plala.or.jp/agatha/MEDONOBU.html

ところが、意外や意外、日本女性たちは、鹿鳴館で見事な活躍を見せたのです。その代表格が伊藤梅子です。初代総理大臣伊藤博文の奥さんです。彼女は、通称「馬関芸者」と呼ばれた下関の芸者さんでした。下関の宴席で彼女と遊んだ伊藤が一目ぼれ。前の奥さんと別れて梅子と再婚したのです。

梅子は、馬関稲荷町の置き屋「いろは」の養女で、芸妓時代の名をお梅といいました。博文には、英国留学前に結婚したおすみという奥さんがいたのですが、おすみとは正式に離婚して、お梅を正妻にし、梅子と名のらせたのです。

彼女は賢婦人の誉れが高い人で、伊藤の地位が上がるにつれて懸命な努力を重ねたようです。文字も書けなかった梅子は、当代一流の書家阪正臣の弟子になって練習し、見事な字を書けるようになり、夫の代筆をするほど上達しました。和歌もこなし、皇后との歌のやりとりもしています。英語は津田梅子にならい手紙くらいは書けたといわれています。また津田梅子からは、米国の習慣など勉強したと言われています。

鹿鳴館開設当時、梅子はまだ踊れませんでしたが、翌年から毎週行われた「舞踏練習会」では、梅子は渋る高官夫人たちを説き伏せ、70人近くの夫人を参加させています。彼女の活躍を評する時に必ず「芸者上りにしては」という枕詞がつきますが、そうではなくて、【芸者上り】だからこそできたと考えなくてはなりません。家庭的にも伊藤博文は、稀代の「女好き」で、女遊びが命と言っても過言ではない男でした。浮名を流した女性は数知れず、英雄色を好むを地で行ったような男でした。

その妻ですから、気苦労が絶えなかったはずです。それでも梅子は一言も文句を言わず、伊藤が大磯の自宅「滄浪閣」に馴染みの芸者を連れてくると、その帰り際に、「御前様は公務でたいへん忙しい方だから、あなたにきてもらって慰めてもらうのが一番のお気休めになるのよ。御前様はあなたをご贔屓(ごひいき)なんだから、ときどききて慰めてくださいね」といって、反物などの土産を持たせたそうである。NHKの歴史番組で当時の芸者の子孫の方が、その時もらった立派な簪を見せていましたが、話半分としてもよく心得た女性だったと思われます。

岩下尚志に言わせれば、芸者(芸妓)の言う男には4種類あるそうだ。【旦那】【客】【客もどき】【まぶ】。旦那は文字通りお金をくれる人で客は世間で言うお客と同義。客もどきとは、通常のお客とは少し違い、多少は心を移したお客。まぶは、自分自身が本気で惚れた人。旦那・客・客もどきはお金を貢いでくれるが、まぶは、自分が貢ぐのです。おそらく、梅子にとって伊藤博文という男は、【まぶ】だったのかも知れません。惚れた男のためなら、勉強もする、女遊びも我慢する、何でもやってのけるという覚悟があったのでしょう。

桂小五郎(木戸孝允)の奥さん松子もそのような女性でした。松子は出身は小浜市。落魄した武士の子孫だったらしいです。京都三本木で幾松という芸名で芸者(芸妓)になります。聡明で美人だった松子は、たちまち京都では有名な売れっ子芸者(芸妓)になります。三本木は長州藩邸の近くにあったため、多くの長州藩士も遊びに来ていました。

桂小五郎は、幾松をものにするために相当な散財をしたようですが、その後幕末の騒乱の中で幾松は桂のために文字通り命をかけて彼を助けています。新撰組の近藤勇が桂を切ろうと置き屋に乗り込んできたとき、桂を抜け穴から逃がし、鬼の近藤の脅しにも頑として屈せず、ついには近藤をして「大した女」だと言わせています。

さらに、元治元年(1864年)6月、池田屋事件が起き。続いて起こる禁門の変以降、長州藩が朝敵とされ、桂は幕府に追われる身になります。桂は、二条大橋周辺に乞食の姿となって隠れ潜んでいたのですが、幾松は自らもぼろをまとい、よく握り飯を持っていったと言われています。

その後、出石に逃れた桂を探すために、幾松は芸者(芸妓)を辞めます。そして、出石に潜伏していた桂を探し当てます。行ってみると、桂は一種のうつ状態になっていて、「死にたい、死にたい」と念仏のように唱え、まるで生きた屍状態でした。考えてみれば無理もない話で、桂は禁門の変で松下村塾以来の親友久坂玄随をはじめ仲間を400人近く亡くしていたのです。絶望感と自分だけが生き延びたという罪悪感にとらわれても無理からぬものがあります。

桂が木戸孝允となってからも、時折、死んだ仲間が夢枕に立つといって、鬱鬱とした精神状態になっていた、というのは有名です。明治維新以降、彼の活躍が大久保やその他と比してあまり目立たないのもこのあたりに原因があるのではないかと推測できます。しかし、松子はそのような桂を励まし、彼の回復のために一生懸命看病します。まさに「まぶ」としての桂に全てを投げ打って尽くしたのです。

もう一人、【鹿鳴館の華】と謳われた芸者出身の女性がいます。陸奥 亮子です。外務大臣陸奥宗光の奥さんです。没落士族旗本・金田蔀の長女として江戸に生まれた彼女は、東京新橋柏屋の芸妓になりました。新橋で一二を争う美貌の芸妓だったと言います。大変身持ちが固い芸妓として有名だったようです。陸奥が一目惚れしたようで、陸奥の奥さんが死去した後、結婚しています。

彼女も大変苦労したようで、陸奥が明治11年、政府転覆運動に荷担した疑いで禁固5年の刑に処せられ、山形監獄[に収監された時、亮子は、姑の政子に仕え、子育てをしながら獄中の宗光を支えました。この時、陸奥は多くの書簡を書き、亮子の教育に努めています。陸奥は明治15年特赦によって出獄。翌明治16年に欧州に留学しています。明治19年陸奥は政府に出仕。亮子も社交界に進出し、鹿鳴館の華と謳われたのです。明治21年、駐米公使になった陸奥とともに渡米し、「ワシントン社交界に華」と称され、陸奥の仕事に大きく貢献しました。

現存する陸奥亮子の写真を見ると、現在のわたしたちが見てもその凛とした美しさに圧倒されます。写真を見るだけでも、彼女の聡明さ、凛とした生き方が伝わってきます。

亮子の写真;http://meiji.bakumatsu.org/men/view/29

このように鹿鳴館外交を支えた女性たちには、芸妓上がりの女性がたくさんいました。よく考えてみればすぐ分かるのですが、江戸・明治初期の女性の職業と言えば、芸妓・娼妓などぐらいしかありませんでした。彼女たちは、元祖職業婦人だったのです。芸妓だったらからこそ、彼女たちは、自立し自らの意志で惚れた男たちを助けたのです。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水

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