老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

我妻栄の論説「岸信介君に与える」「最高裁に望む」

2007-06-02 07:30:39 | 安倍内閣
http://www8.ocn.ne.jp/~yozan/rekisi/wagatuma.html
民法学者・文化勲章受賞者 我妻 栄

>我妻は、明治から大正にかけ、一応の形成を見た民法体系を、判例を中心として日本の社会的現実のつながりの中で充実発展させ、今日の民法学の基礎を固めたが、『民法講義』は五部まで刊行され、死去の年まで完成を見なかった。他方、そのライフ・ワークとして「資本主義の発展に伴う私法の変遷」というテーマのもとに、『近代法における債権の優越的地位』『経済再建と統制立法』を発表している。

>日米安保条約が批准された昭和35年6月7日、朝日新聞紙上に「岸信介君に与える」という我妻の手記が発表された。かつての学友の岸は、敗戦で戦犯となり巣鴨刑務所に入ったが、その時我妻は、友人として釈放の嘆願書に名前を連ねた。が、安保条約の是非で二人の意見は完全に分かれてしまった。

>「君は定めし、いまの外交路線を強めていくことが、わが国の発展のための最も正しい道だと確信しておられるでしょう。その信念を疑いはいたしません。しかし、戦前君はドイツと組んで、中国と英米を敵として大東亜戦争を断行することが、わが国の発展のための最も正しい道だと確信しておられた。それはとんでもないあやまりだったのです。君はまた同じあやまりを繰り返しているように、私には思われてりつ然とします。今日君に残された道は、ただ一つ、それは政界を退いて、魚釣りの日を送ることです。」

>真の良識と勇気の言言句句である。岸信介は安保条約が成立すると政界を去った。一国の首相も、賢哲の英知の前にはシャッポを脱がざる得なかったのである。

>昭和46年4月には、裁判官の新・再任拒否、修習生の罷免という最高裁がとった一連の処分について、我妻は、「最高裁に望む」という論説を発表し、その血も涙もない形式論理をつき、「最高裁は、せめて再任拒否と不採用の理由を明示すべき」ことを訴えた。

>この岸総理退陣勧告といい、最高裁に対する警告の文面といい、そこには我妻の控え目ながら、学者としての使命感と社会的役割の自覚が躍動している。

安倍首相の一族(岸信介、佐藤栄作)、血縁の安倍一族は、日米安保に関わりが深い。また、強攻策を常套手段とすることにも通じるものがあるようにも思います。2人の元首相(兄弟)は、国会内の強硬手段のみならず、国会外においても“血を見る”蛮勇を奮ったのだった。…旧安保闘争、新安保闘争(大学紛争)時のことです。この辺りの事情は、今は割愛します。ともあれ、先ずは上記記事を御一読ください。

ところで、安倍首相は、一体彼らに何を学んだというのだろうと感じています。皮相なものでなければ、国民個人個人にとって幸いなのですが、どうでしょう。個人を尊重しない政治・政策・制度(政党を含め)など、私は評価に値しないと思っているからです。

「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
蔵龍隠士

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我妻栄博士の勧告文 (長谷川勤)
2019-01-14 22:08:08
我妻栄博士は、米沢興譲館中学の誇りと聞いていました。岸信介への勧告も、時期は定かではありませんが聞いていました。上杉鷹山と実兄の秋月種茂の両名君ぶりも。明倫堂と興譲館は、ともに1770年代創建。この流れを汲む高鍋高校と興譲館高校の長い交流のことを聞いて、将に教育は国家百年の計を実感。我妻博士の、大東亜戦争観の通り『とんでもない誤りであった』の文言には納得。千鈞の重みがあります。日本国を亡国に追いやった国家指導者は、現在もなお他山の石としなければならないと思います。公の精神の欠如と思われます。
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