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「母さん、ごめん。 50代独身男の介護奮闘記」(著:松浦 晋也)

2017-12-11 23:02:52 | 【書物】1点集中型
 日経ビジネスオンラインで少し読んで、本になってると知ったので図書館から。かなり高い確率でいずれ自分にも訪れるであろう「介護する者」という立場、それも「独身者が実家にて」というのも想像でき得る限り自分に非常に近いシチュエーションの実体験話である。これを知らずにおれようかと。
 恥ずかしながらぼんやりとしか理解していなかった介護制度について、著者の体験から少しずつ繙かれていき、なんとなくではあるが今さら知ることができたことも多い。もっと勉強せねば。

 家族が介護の責任を負うことは、もちろん当たり前のことではあると思う。ただ、責任を持つことと実際に介護を行うことは別の話であるということが、筆者の体験をなぞっていくうちによくわかった。だからこそ公的制度があるのであって、基本的にはそのための「国民皆保険」だろう。今さらだが、その意味では健康保険も介護保険も根本的には同じだ。
 そう考えると、介護を家族だけですべて取り仕切るというのは端から無理筋ではないか。介護によって労働力が失われると社会も回らなくなる。著者は「介護は本質として家族と公的制度が連携しないと完遂できない」「介護する側が楽をしないと、される側も不幸になる」と記しているが、本質的にはそこなのだろう。身体的にもそうだし、この本を読むと精神的な面で「楽をする」ことが、より重要だとに思う。介護の末の不幸な事件が昨今、枚挙に暇がないことを見るだけでも明らかな話なのだが、こうして詳細な体験の例を知るとなおさらそう感じた。
 介護する相手である家族が、身体的に老いることはまだ(あくまで相対的に、であるが)受け容れられるとしても、認知症による退行を見守り続けることの辛さは、体験したことのない自分には到底わからないだろう。介護する相手を思うからこそ、自分にできないことはできないと見切らなければいけない。介護そのものの実施に当たっては介護福祉の専門家の力を存分に借りながら、意思決定には家族として責任を持つ。そういうあり方が理想なのではないだろうか。

 第20章「『予防医学のパラドックス』が教える認知症対策」は特になるほどと思った。確率の話である以上、病気になるときはなるし、ならないときはならない。でも健康を保つために一人ひとりが予防に取り組むからこそ、社会全体での罹患率が下がる。結果、社会全体として安心できる確率が上がる。何かをすることによって病気になる確率やら痩せる確率やら太る確率やら(笑)、統計上の数値にいちいち左右されるより、何はともあれ健康的な生活を心がけるのが一番だということだ。

 結局、生き続ける以上、自分も近い将来確実に老いる。いや、老いそのものはとっくに始まり、現在進行形であると感じている。ただの程度の問題だ。
 超高齢化社会という現状はもはや一朝一夕に変えることができないのであるから、悪者をつくるのではなく一蓮托生であることを直視しなければならない。特に、自分が年を重ねるにつれ自体はどんどん進み、高齢者としての社会福祉を受けることが今この時代よりも難しくなっていくであろうことが、現在すでにほぼ見えているのだから。
 誰もがいずれ老いるのだから、人は自分自身のためにも、老いを社会悪にしてはならないのだ。 「情けは人のためならず」。いつの世も、どんな事態でも、この言葉に尽きるということなのだろう。


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