デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



































コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




同志社共葬墓地の隣にある















なんか漢字で書かれるとまた違う迫力が…


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




新島八重の墓



新島襄の墓



徳富蘇峰の墓(分骨埋葬)



八重の兄の墓






















同志社共葬墓地はずいぶん前にも偶然来たことがあった。それは大文字山の頂上から南禅寺を目指そうと思って下山していたら、道を間違えてまさかの新島襄の墓の裏手に出てしまったのだ。
より正確には、山の方から墓地に入ってしまい立派そうな墓があるなぁと思って近づいたら新島襄のものだったというべきだろう。ところが、その日は新島襄縁の日だったらしく、墓の前で学校の関係者およびその生徒が讃美歌を歌っていて、それを知らずに私が墓の後ろから現われてしまったのである。つまり、「おのれどこから出てくんねん、空気読めよ!」といわんばかりの鋭い視線に蜂の巣にされた思い出があるのだ(笑)。
しかし、その頃と比べると、今の墓石も墓地はかなりきれいにされている。やっぱり大河ドラマの影響はすごいとしかいいようがない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





京都国立博物館で陶磁器を鑑賞した後日、一人でではあったがもう一度新島襄とその妻八重が眠る墓地へと足を運んだ。ここ数日アップしているネコの画像の日と同じ日である。








そうなのかもしれないが、必要以上にこの場所の評判を貶めている気が…






大河ドラマのなせる業か、案内板も新しい



運動靴でなら15分くらいで着く



「八」の字の位置が微妙に…



近づいてきた


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





12月の頭のことだが、久しぶりに会った友人と魅惑の清朝陶磁展に行ってきた。
家から待ち合わせの駅に向かうまでに、駅伝が行われるところに遭遇し、待ち合わせの時間までに駅に着くか心配になったが、なんとか間に合った。



数ヶ月ぶりに外で食べるラーメン。美味く感じた。


魅惑の清朝陶磁展は京都国立博物館であった。いかんせん陶磁器についてはまったくといっていいほど知らないままの鑑賞だったので、足早に回る結果となったが、江戸時代における清朝の陶磁器は食器として使用されるというより、自分のステータスを示すような観賞用として飾ること目的で持たれることが多かったという説明が印象に残った。
また、展示品の最後の方には、日本の陶磁器の影響が色濃く見られる清の職人によって作られた作品もあり、18世紀には日本の陶磁器が「輸出されていた」ことが窺い知れ、興味深かった。


 



来館した日には二胡とピアノによるコンサートも催されていた。「シルクロードのテーマ」「蘇州夜曲」「川の流れのように」の三曲を聴いたが、最初の二曲でジーンときてしまい目頭が熱くなった。ただ、二曲目の最後の方で、演奏のホールだけはフラッシュ無し撮影は可だったにも拘わらず、そのことを知らないどこかのおばさんが「撮影禁止よ!」と友人を叱り付けていた。直後にそのおばさんが誤解だったことを認めて謝ってくれたが、友人とともに不愉快な気分になってしまった。なにせ曲の途中だったから。

博物館を出たあとは、南禅寺へ紅葉を見に行った。しかし、博物館を出る直前に館の休憩所でカメラを置き忘れるというドジを踏んだまま南禅寺に来てしまった。寺で気づいてから博物館に電話し、置き忘れた可能性の高い場所を伝えると、しばらくして見つかったと電話が入った。黒のカメラケースを置いた場所が黒色のシートだったことが忘れた原因だった。ちょっとしたところには必ずと言っていいほど持ち歩くカメラがないと心もとないものだが、それよりも友人に気をもましたことが自分にとって残念でならなかったのが正直なところだった。
南禅寺の後、大河ドラマの主人公のお墓に詣でた。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




1939年公開(日本では1941年公開)されたF・キャプラ監督の『スミス都へ行く』。昨年から、というよりここ数年間、ずっと見たいと思っていたのだがなかなか手にする機会が訪れなかった。
しかし、正月早々のこの記事で、開戦の年に日本で公開されていて、のちに特攻隊員になった人も映画館で観ていたことを知り、にわかに作品を観てみたくなった。本編の前に公開年をみて、戦時中に公開されていた洋画で、ナチスドイツをパロディにしたチャップリンの『独裁者』と時期的に近いんだなぁと思った(ちなみに『独裁者』が日本で公開されたのは戦後の1960年)。
日本では『独裁者』についてチャップリンの自伝とともに学校の教科書で採り上げられた世代も存在し、比較的若い世代でも『独裁者』という作品の知名度は低くないかもしれない。なにを隠そう私も教科書で『独裁者』の最後の演説を習い、学校から映画まで観せられたから、1940年代の洋画で『独裁者』ほどのインパクトを持ってる作品はあまりないのではないかと思っていた。
ただ、今回『スミス都へ行く』を観て、戦争が身近に迫りつつある時代に存在していた作品として、また戦後であっても世の中に警鐘を与え続ける映画としては、十分に『スミス都へ行く』もいぶし銀に光り続け評価され続ける作品であると思った。語弊があるかもしれないが、『独裁者』は笑いを通して最後には理想を掲げてみせるところに子どもにも青年にも分かりやすい英雄的要素があるが、『スミス都へ行く』はある程度年齢を重ねてから分かるまさにドン・キホーテ的要素があって、そこを読み取る必要がある点で大人向きの作品であろう。人間一人でできうる「抵抗」というのは作品にも描かれているとおり、ちっぽけでこっけいな形をとることしかできないし、「抵抗」するスミスに容赦なく襲い掛かる作中で言論を封じようとする強大な力の前に屈せざるを得ないことが多いのは世の常だ。21世紀に入った世界でも、相変わらず同じ問題を人類は抱え込んでいる現実を泥臭く描かれると、英雄的要素に臭みと苦味が加味される。そこがまた大人向きなのかもしれない。
ところで、F・キャプラの映画では「素晴らしき哉、人生!」で主人公の妻が重要な役割を果すが、『スミス都へ行く』の中でもアメリカ映画にしばしば登場する伝統的な女性像に目が行った。スミスが精神的に打ちのめされてリンカーンの座像の前でうなだれる場面、彼に闘うことを促すのは彼の女性秘書だが、その場面を観ていて「フィールド・オブ・ドリームス」の主人公の妻のことが頭をよぎり、この手の女性像はアメリカ映画の伝統の一形態かも?と思ったのである。ドン・キホーテやムイシュキン公爵は美しい女性を通して報われることには縁遠いが、アメリカ映画ではいい意味でそれを裏切ってくれる。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ラファエロ工房「オスティアの戦闘」(ヴァティカーノ宮火災の間、1514-15)

この絵が塩野七生著『ローマ亡き後の地中海世界』(新潮社)の中で、オスティアの海戦に関する記述の中に図版でもちいられていた。本を読みながら、あぁこの絵は見たことがある、それも実物を見る前に作品について調べていったものだったことを思い出し、過去の旅行写真を引っ張り出してくる作業に没頭した。
絵は、今のイタリア半島や地中海で海賊行為をはたらいていた「サラセン人(北アフリカを制圧したイスラム教徒のアラブ人)」勢力と、ローマ教皇レオ4世がイタリア各地に呼びかけたことで結集した防衛軍とが戦った「オスティアの戦闘」を描いたものだ。画面の奥の方では戦闘が続き、教皇の足元にサラセン人の捕虜たちが跪いている。
世界史をやってない私は、『ローマ亡き後の地中海世界』で初めて800年のシャルル・マーニュ戴冠式から、849年のオスティアの海戦の流れを知ったのだが、少なくとも神聖ローマ帝国としてはサラセン人勢力と戦い初めて勝利したことを絵に描いてでも残しておきたい出来事だったことを、この絵が物語っていることは分かる。ちなみに、ラファエロ自身が描いたのは教皇レオ4世とその背後に立つ二人の枢機卿らしいのだが、レオ4世は画家の同時代人レオ10世の顔になっており、背後に立つ二人の枢機卿はベルナルド・ドヴィーツィ・ダ・ピッピエーナとジュリオ・デ・メディチ(のちのクレメンス7世)だという。
現地にいた頃、この作品についての思い入れは、そこまで強かったわけじゃない。予習して得た知識が人工的な音や記号の域を出ないままで作品を目にしたのは相変わらずであったが、見ておいたものが後々に新たな印象とともに甦える体験も決して悪くないものである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )







「また別の人間か…」






何気なく傍を通るだけなら、こんな感じにしか見えないだろう


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )










小さい子どもが近づいたときはサッと身構えていた。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )














哲学の道の若王子橋の近くではたぶん誰かが世話をしているであろう猫が数匹いた。まさか座布団まであてがわれているとは思わなんだ(笑)。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ 次ページ »