デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



1939年公開(日本では1941年公開)されたF・キャプラ監督の『スミス都へ行く』。昨年から、というよりここ数年間、ずっと見たいと思っていたのだがなかなか手にする機会が訪れなかった。
しかし、正月早々のこの記事で、開戦の年に日本で公開されていて、のちに特攻隊員になった人も映画館で観ていたことを知り、にわかに作品を観てみたくなった。本編の前に公開年をみて、戦時中に公開されていた洋画で、ナチスドイツをパロディにしたチャップリンの『独裁者』と時期的に近いんだなぁと思った(ちなみに『独裁者』が日本で公開されたのは戦後の1960年)。
日本では『独裁者』についてチャップリンの自伝とともに学校の教科書で採り上げられた世代も存在し、比較的若い世代でも『独裁者』という作品の知名度は低くないかもしれない。なにを隠そう私も教科書で『独裁者』の最後の演説を習い、学校から映画まで観せられたから、1940年代の洋画で『独裁者』ほどのインパクトを持ってる作品はあまりないのではないかと思っていた。
ただ、今回『スミス都へ行く』を観て、戦争が身近に迫りつつある時代に存在していた作品として、また戦後であっても世の中に警鐘を与え続ける映画としては、十分に『スミス都へ行く』もいぶし銀に光り続け評価され続ける作品であると思った。語弊があるかもしれないが、『独裁者』は笑いを通して最後には理想を掲げてみせるところに子どもにも青年にも分かりやすい英雄的要素があるが、『スミス都へ行く』はある程度年齢を重ねてから分かるまさにドン・キホーテ的要素があって、そこを読み取る必要がある点で大人向きの作品であろう。人間一人でできうる「抵抗」というのは作品にも描かれているとおり、ちっぽけでこっけいな形をとることしかできないし、「抵抗」するスミスに容赦なく襲い掛かる作中で言論を封じようとする強大な力の前に屈せざるを得ないことが多いのは世の常だ。21世紀に入った世界でも、相変わらず同じ問題を人類は抱え込んでいる現実を泥臭く描かれると、英雄的要素に臭みと苦味が加味される。そこがまた大人向きなのかもしれない。
ところで、F・キャプラの映画では「素晴らしき哉、人生!」で主人公の妻が重要な役割を果すが、『スミス都へ行く』の中でもアメリカ映画にしばしば登場する伝統的な女性像に目が行った。スミスが精神的に打ちのめされてリンカーンの座像の前でうなだれる場面、彼に闘うことを促すのは彼の女性秘書だが、その場面を観ていて「フィールド・オブ・ドリームス」の主人公の妻のことが頭をよぎり、この手の女性像はアメリカ映画の伝統の一形態かも?と思ったのである。ドン・キホーテやムイシュキン公爵は美しい女性を通して報われることには縁遠いが、アメリカ映画ではいい意味でそれを裏切ってくれる。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )