デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



これまで紹介した、モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールにしろポンパドゥール夫人にしろブーシェにしろ、彼・彼女らはフランス革命前に亡くなっているが、ロココ時代それもルーヴルと大いに関わり、革命を生きた画家もいる。
ユベール・ロベール(1733-1808)もその一人だが、この人の絵はずっと気になっていて、有名な美術館に行ったなら必ず所蔵されてるか訊ねてしまう。(日本にもロベールの絵はあって東京の国立西洋美術館に「ローマのファンタジー」という作品がある)。
ロベールは1733年パリで生まれ、1754年21歳でローマに到着。それから10年以上もローマに滞在し、ローマの遺跡を絵や版画にしたパンニーニやピラネージのスタイルで廃墟画を描いた。イタリア各地を旅行して1765年に帰国、二年後のサロンにはじめて出品し、「廃墟のロベール」と言われるようになった。


「ルーヴルのグランド・ギャラリーの改造案」(1796)



「廃墟化したルーヴルのグランド・ギャラリーの想像図」(1796)

ルーヴル宮は18世紀後半まで、なかば芸術家の共同アトリエみたいな状態だった。
ルーヴルを美術館として整備し、王室の美術品を一般に公開しようという動きが始まるのが1770年代、1777年にルイ16世の美術館設立許可が出されるのだが、そのときからルーヴルの整備、陳列計画の策定を中心的に行なったのが、ユベール・ロベールなのだ。年譜によれば、革命騒ぎのときの投獄後、1794年にロベールはルーヴルの館長になっている(『NHKルーブル美術館Ⅳ』(日本放送出版教会))。
ルーヴル宮が美術館として公開されるのは革命後の共和制新政府になってからである。現在のルーヴル美術館には、おもしろいことにロベールが考えて描いたルーヴルの陳列計画や整備計画の絵が、今も展示されていたりする。
一番目の絵と次の画像を見比べると、ロベールの天井をガラス張りにしてトップライト方式で展示する構想が、ほぼ現在に実現されていることがわかったりするのだ!



さらにロベールはおもしろいことに、自身の美術館の構想で出来上がった美術館が、はるか未来にどのような姿になっているのかといった想像図まで描いているのだ。それが二番目の画像で、右下のミケランジェロ「瀕死の奴隷」も廃墟画となればただの一断片みたいだったりするし、崩れ去ったルーヴルにあっても彫刻を模写しようとする人がいたりと、ロベールの想像力は計り知れない。でも廃墟画に対する姿勢は、一貫しているのだ。


「ポン・デュ・ガール」(1786)(きれいな画像はこちら

ロココ時代自体が、ポンペイやヘレクラネウムの発見など、古代ブームが起こった時代だったので、廃墟画もたくさん登場したといえそうだが、ロベールは若い頃から古代のローマの遺跡に魅せられていた。
彼は現在もフランス南部にある古代ローマの水道橋(ポン・デュ・ガール)を描いている。絵のなかの長い年月が経った建造物に対し、人はあくまで小さい。水道橋は光と背景の空と一体となろうとしているかのようで、2千年の時間の流れをゆったりと感じさせてくれるかのようだった。

廃墟を表現する方法は、本当にいろいろある。また廃墟の解釈の法則もあるのかもしれないが、私は過去の栄華の記憶なくして、廃墟画は生まれないという、これだけは人間だけが味わえる特権、人間冥利に尽きることではないかと思う。ロベールの絵では、実際、生々しい廃墟の前にいる人間が、まるで時間の証人といわんばかりに立ち会っていると捉えられないか。
次に旅に出るとしたら、いつになるか分からないが、きっと私はまたどこかの廃墟に立つだろう。ロベールの絵は、またさらに私を行動に駆り立てる力を持っていた。ポン・デュ・ガールだけでなくいろいろなところに、行きたいっ…。

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