デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ユベール・ロベール「アルカディアの牧人たち」(1789)、ヴァランス美術館

添景という言葉を書物で目にしたのは先月末読み終えた「ヨゼフ」だったけれども、俗っぽい人が添景となっている絵をたくさん描いたユベール・ロベール「時間の庭」展を見に行ってきた。
ロベールの絵は、このブログの上部(タイトル部)の背景画像に用いさせてもらってかなり経つし、これからも変更するつもりはないくらい好きなのだが、好きなわりに曲がりなりにもデカダンの名をつけているこのブログで、あまりこのテーマについて突っ込んだことを書いていないなぁ(笑)。
それはともかく、単に日常生活には必要のない、食と住さえどうにかなれば、人は生きられるのに、人は庭に前時代や古い時代の役に立たん遺物や朽ちたものを配そうとする心が働いたり、そういった庭を見て心が安らいだりするのは、どういった理由からだろうかと、そういったことをユベール・ロベールの絵を見ると、いつも考えてしまう。
カラッチ以降に描かれ続けた理想風景や古代への憧憬をテーマにした廃墟が盛り込まれた絵画の要素を真摯に学び、自身の筆によって奇想な廃墟画の作風を確立させたロベール。現実の庭を、絵のような庭にデザインした彼はまた、そのような庭のような絵を描くわけだが、その中には添景として俗っぽい人間の姿、作品の多くで滝や川で洗濯をする女性の姿を描きこんでいる。
絵の中の人物たちからすれば、廃墟は日常にある当たり前すぎるもの、普段の視界に溶け込みすぎて見向きもしないものかもしれないが、少なくとも私は現実の時間と過去の時代を示すものが同居していると見てしまう。廃墟を構成する物体は過去には使われていた立派な建造物や、権威を示すための大きな墓だったりするわけだ。廃墟画には、そういった元が立派な姿だった物たちの未来の姿が描かれているわけであって、ありきたりな書き方だが、ロベールの絵はまさに時間が交差している点であるし、想像力を働かせれば絵の舞台の過去に思いを馳せ、思いを馳せたらまた眼前に(思いを馳せた物の)未来の姿が現われるというおもしろさがあるように思うのだ。
ところで、画像の「アルカディアの牧人たち」は古代社会というよりは、伝説的な桃源郷を表した作品である。この傑作が1789年に描かれたというのを見て、妙な感覚に襲われた。作品は、支配層の没落や社会が顛倒・混迷し始める年に描かれたわけで、それでいて先人たちの影響をあからさまに感じさせる作品なわけだが、こういった、ルーヴルの代表作だけでは体験できない、ロベールのキャリアを積み上げていく過程と絶頂期の傑作を堪能できるのが上野での展覧会であった。こんな機会はなかなか無い。とてもすばらしかった。

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