おさかな’sぶろぐ

日々感じたことを徒然なるままに。。。

「わからない」という方法7

2005年05月28日 09時52分15秒 | 日記・雑談
第二章 「わからない」という方法 より抜粋
1 私はなぜ「セーターの本」を書いたのか
◆なぜまたそんな不届きを
 「セーターの本」を書こうと思ったことの根本にあるのは、挫折である。「活字離れ」という、自分一人ではどうにもならない恐ろしい状況の中でいたのである。
◆「活字離れ」という状況の中で
 「活字離れ」とは読者が本を必要としなくなるという、とんでもない危機である。いくら本を書いても、そこに読者はいないというとんでもない状況が進行し続けている以上、すべては空回りするしかないのである。
◆状況が空回りしてしまったら
 状況というものは大きな力を持つ。状況が健全なときには、力のない人間でもひょいと救い上げてくれる。しかし状況が傾くと、人を見捨てるつもりがなくても、平気で見捨てていく。「活字離れ」は、出版という業界を襲った構造的な大不況なのである。その中で作家としてやるべきことは「いい作品を書いて、その状況を撥ね飛ばす」である。だが自分には、そんな力はない。「ない」と、さっさと認めてしまう。そんな時には、「とりあえず〝わかりうるもの〟を探す」である。「わかりきっている」と思えるような「くだらないもの」の中に、「〝わかる〟へのヒントは隠されている」のである。
◆「構造不況」の中で考えなければならないこと
 先のない業界の中で、人の考えるべきことは「この業界に留まるか、この業界から抜け出るか」である。傾いた業界に留まった人間は、その業界の立て直しを考えなければならない。
◆構造不況への錯覚
 人は「構造不況」という言葉を誤解し、「この業界はだめだ」と短絡する。しかし、構造不況とはその業界がパッとしない状態に陥るような構造を持ってしまったことであって、不要になったということではない。例えば、新しい町が出来上がっていく過程では、多くの建設業者が必要となる。だが出来上がればそんなに必要ではなくなる。だが町を維持メンテナンスするための建設業者は必要である。多くの業者は、営業形態の変更を迫られると同時に、多くの業者が業界からの撤退を余儀なくされる。こういう状態が「構造不況」である。
◆「活字離れ」の告げるもの
 二十世紀は「わかる」が当然の時代だった。その「正解」と思われるものを本は大量に供給し続けていた。だが、その供給がある程度以上のレベルに達した時、「〝正解〟があるというのは幻想ではないか?」という事態が訪れた。それが「活字離れ」である。だとしたら「わからない時代」の「わからない」という需要があれば、「それに対して答えを供給する」という業種の存在理由はある。
◆オバサンの論理、オジサンの論理
 二十世紀に「知識人」をやっている人達にとって、「わかっている」は当然のことで、それに対して「わからない」という人間は、バカなのである。「わからない」と思って、自分独自の思考法でものを考えると、神聖なる「正解」の有効性を信じる人達にとって、不真面目で不愉快で許しがたい行為なのである。

陶芸教室

2005年05月28日 08時14分12秒 | 日記・雑談
金曜日の夜から、あまごにあさんからお誘いがあり陶芸教室へ参加することになりました。毎週金曜日の夜、開講されます。っで、今日はぐい飲みを作ったのでした。初めての陶芸でちょっと難しかったですが、なんとかなりました。かなり面白いかも。次回から楽しみです。