音楽の大福帳

Yoko Nakamura, 作曲家・中村洋子から、音楽を愛する皆さまへ

■■ ドビュッシーの再発見 ■■

2007-12-24 16:27:23 | ★旧・私のアナリーゼ講座
2007/9/29(土)

★ドビュッシーの「アナリーゼ・再講座」を9月27日(木)にいたしました。

2年前の講座を、もう一度お話する予定でした。

テキストは、2年前のものに、少し加筆しました。

ところが、自分でも驚いたのですが、お話する内容は、随分と変わっていました。

この2年間、勉強を続けていくうち、さらに、ドビュッシーが見えてきました。


★結論から申しますと、≪ドビュッシーの古典性≫を再発見した、ということです。

ドビュッシーの音楽は、旋法、五音音階、全音音階、長短調などからできており、

その見かけの新しさをもって、それ以前の音楽とは遮断された革命的なもの、

という見方が、なされがちです。

ところが、ドビュッシー以降、その音響を模倣し、

ムードだけで作曲された作品は、すべて淘汰されました。

ドビュッシーの作品が100年間生き続け、なぜ、さらに輝きを増しているのか?


★お薦めの本を一冊、御紹介します。

フランソワ・ルシュール著「伝記 クロード・ドビュッシー」(音楽之友社)。

(直訳調の日本語で大変読みにくいのですが、ドビュッシー研究の第一人者

「Lesure」の大著作ですので、我慢して読むしかありません)

私は、ドビュッシーの楽譜については、

フランスの「デュラン版」と、ドイツの「ヘンレ原典版」を使っています。

「ヘンレ版」といいますと、驚かれる方もいらっしゃるかもしれませんが、

最新研究に基づいて楽譜が校正され、「ルシュール番号」なるものが付いています。

例えば、「ベルガマスク組曲」には、「Lesure Nr.75」と書かれています。

モーツァルトのケッヘル番号と同じです。


★この本には、ドビュッシー(1862~1918)が、

10代で勉強した曲について、詳しく紹介されています。

1876年、14歳のドビュッシーは、地方の小さい町での演奏会で、

ハイドンの「ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための3重奏曲」を弾き、

「優秀な新進ピアニスト」と、評価されました。

その頃、ワーグナーの「タンホイザー」の序曲を聴いています。

コンセルバトワール(彼は10歳で入学)では、ピアノ課題曲として、

ベートーヴェンの「Op.111ソナタ」の第一楽章を弾いています。

その後、シューマンの「ト短調ソナタ」第一楽章も、課題曲として弾いています。

さらに、1879年、17歳でショパンの「演奏会用アレグロ Op.46」を弾きましたが、

コンセルバトワールの賞は、取れませんでした。

その頃、「タンホイザー」、「さまよえるオランダ人」序曲、

「ローエングリーン」を、聴く機会があったと推測されています。


★1880年、チャイコフスキーの支援者として名高い「フォン・メック夫人」の家庭で、

彼は、夫人と連弾したり、娘の歌の伴奏をするなど、音楽のお相手をしていました。

当時、チャイコフスキーは既に、巨匠でした。

フォンメック夫人に献呈された「交響曲第4番」のスコアを、

ドビュッシーはピアノで演奏し、夫人に聴かせています。

レコードのない時代でしたので、夫人は、このピアノ演奏で、

献呈された曲がオーケストラでどう響くか、想像しながら楽しんだことでしょう。

夫人は直ぐに、このピアノ演奏を、チャイコフスキーに手紙で報告しています。

さらには、ドビュッシーは、夫人の要望で、

チャイコフスキーの「白鳥の湖」を、ピアノ連弾用に編曲もしています。

「ユルゲンソン」社から出版されました。

しかし、まだ学生でしたので、コンセルバトワールの大物マスネーに、

ばれないよう、匿名でした。


★ドビュッシーのルーツが、これでかなりお分かりになった、と思います。

遡って、コンセルバトワール入学前の1871年ごろ、9歳頃のお話です。

ドビュッシーのピアノの先生は、年老いた肥った小柄な女性で、

「私をバッハ(小川)の中に突き落としました。

その先生は、バッハを、とても生き生きと演奏したものでした」。

後年、ドビュッシーはこのように回想しています。

つまり、入学前は、“バッハ漬け”だったのです。

なんという幸運なめぐり合わせだったのでしょう。


★同じことが、ショパン(1810~1849)にも言えます。

「バッハ」の評価は、当時、きちんと定まっていませんでした。

その大バッハが、大好きだった先生に、

幼少時に習ったことが、作曲家としての大成への道を導くのです。

ショパンのほうがドビュッシーより、さらに幸運だったともいえます。

ショパンと同世代のメンデルスゾーン(1809~1847)が、やっと、バッハを再発見し、

「マタイ受難曲」を初演から100年近く後の1829年になって、初めて再演するなど、

バッハの諸作品を演奏して広めていったという時代にあって、

バッハ好きの先生に、幼少時から習うことができたのは、

奇跡的といってもいいかもしれません。

ショパンが10代で作曲した練習曲は、バッハ・平均律クラビーア曲集を下敷きに、

ショパンの手法で、作曲したものですが、

幼少時、深くバッハに触れていなければ、とても作曲できなかったと、思われます。

★本題に戻りますと、まず≪ドビュッシーのルーツ≫を、お教えしたかったのです。

皮肉屋のドビュッシーは、後年、評論集などで、

例えば、ベートーヴェンについて、やや距離を置いた書き方をしています。

それを真に受けて、ベートーヴェンに対し、否定的であった、とは、

決して思わないでください。

今回、私が分かりましたことは、ドビュッシーの音楽は、

一生涯を通じて、バッハ、ベートーヴェンの影響を深く受け、

それを栄養として、全く独自な音楽を作っていった、ということです。

また、ワーグナーにつきましても、

「ベルガマスク組曲」にくっきりと、その影響を見ることができます。

次回、それをまた、お話いたします。


★再講座は、満員で入れなかったり、まだご存知なかった方のために始めましたが、

私自身、こんなに実り多いものであるとは、思いませんでした。

本講座を既にお聴きになった方も、再講座をお聴きいただく価値はありそうです。

次回の再講座は、「ラヴェル」を予定しております。

また10月14日(日)、「第2回ドビュッシー・アナリーゼ講座」を開催いたします。

こちらは、本講座です。

ドビュッシーのルーツを踏まえながら、彼がインドネシアやスペインなど、

異国からなにを学び、どんな芸術を作っていったか、お話いたします。


★ドビュッシーは、彼の中期以降、

傑作を「ブリュートナー」というピアノを使って、作曲しています。

これは、弦が3本ある通常のピアノと異なり、

弦が4本あり、彼も大変に気に入っていたそうです。

現在、日本ベーゼンドルファー・東京ショールームで、

ドビュッシーが活躍していた時代の「ブリュートナー」が展示中です。

とても典雅な響きでした。

本講座の際、是非、そのピアノに触れて体験してください。


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