■自筆譜に興味をもったらどう学ぶべきか?まず一曲を徹底的に探究する■
~レコード芸術4月号に、私の著書への書評が掲載されています~
2016.3.27 中村洋子
★雑誌「レコード芸術」2016年4月号の書籍紹介欄で、
私の著書≪クラシックの真実は大作曲家の「自筆譜」にあり!≫が、
紹介されました。
本書を十分にお読みになったうえで、好意的な評価を下されています。
以下がその書評です。
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音楽ソフトとハードの販売会社として知られるディスクユニオンが2012年に
発足させた出版部門「DU BOOKS」。すでに注目すべき出版物を多数
出しているが、この本も高い問題意識に満たされたものである。
著書の中村洋子は東京藝術大学作曲科を卒業した作曲家。
代表作≪無伴奏チェロ組曲≫(全6曲)はドイツのベルリン・リース&エアラーから出版され、カラヤン時代のベルリン・フィル首席チェロ奏者、ベッチャーによって録音されている。
また中村の作曲家としての視点から行われるバッハ作品の「アナリーゼ講座」は好評を得ていて、08~09年「インヴェンションとシンフォニア」(全15回)、10~15年「平均律クラヴィーア曲集」(全48回)を東京ほか各地で開催している。最近ではベーレンライターの原典版≪ゴルトベルク変奏曲≫など鍵盤作品の序文解説の翻訳と注釈を記すなど、活躍めざましい。
この本は、彼女のブログ「音楽の大福帳」の抜粋。収録順は掲載順というわけではなく、テーマ別にはっきり分かれているわけでもない(中村悌一や岡本文弥などへの言及もある)。「内容が濃密」なので「ご自分にとって興味のある部分だけを選択し、少しずつお読みになるのもよい」(あとがき)とされる。
この中で一貫しているのは、現代の音楽シーンに対する苛立ちである。「巷で“天才演奏家による極めつけの演奏”などと派手に宣伝」するのは「売らんがためのメッキでしかない」。
≪インヴェンションとシンフォニア≫のエトヴィン・フィッシャーやレントゲンの校訂譜、≪平均律≫のバルトーク校訂版、ショパンのピアノ作品のドビュッシー校訂版などが「埋もれ、存在すら知らない方が多いのです。これらの宝物の価値が分からず、無視されるほど、現代のクラシック音楽のレベルが全体的に低下している」など。確かにそれらのものは古めかしく見えるし、原典版を重視する現代のあり方からすると、校訂者の主張が入りすぎているという考え方もあろう。しかし、中村は天才作曲家が解釈する天才の作品こを「これ以上ない音楽の楽しみに浸ることができる」という。たしかに原典版は作曲家自身の楽譜のレイアウトを全く踏襲していない。作曲家の手による自筆譜を見れば、スラーのかかり方や楽譜の段の切り替え、指示記号の位置など、作品といかに結びついているか。いかに現代の楽譜がそれらの情報を無視しているか。だからこそ自筆譜に立ち返ることの重要性が繰り返し語られるのだ。
しかし、その視点を大事にすればするほど浮かび上がる大きな問題がある。それはすべての譜例が中村自身の手書きによるものであるということだ。彼女は忠実に書き写しているというけれど当然実物とは違うのであって、ここまで自筆譜からの情報を第一義的に捉えるなら(掲載には困難をともなったとしても)その現物が全く見られないのは画竜点睛を欠くと言わざるを得ない。 それを除けば中村の主張には納得のいく部分も多く、特にピアノ教師には有益な一冊だろう。
■西村 祐(フルート奏者)
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(※中村洋子注:「中村悌一」とありますが、「中山悌一」が正しいです)
★(掲載には困難をともなったとしても)と、
評者が書かれていますように、実際大きな困難が伴い、
著作権の問題などから、本に掲載するのは、
限りなく難しいのが現実でしょう。
作曲家がこの世を去った後、どのような巡り合わせかは分かりませんが、
たまたま自筆譜を所有している人や組織が、人類の遺産である、
大作曲家の自筆譜の公開を拒否したり、ファクシミリでさえも高価で、
入手がなかなか困難になっている状況に対しては、
つくづく残念に思います。
★絵画でも、ゴッホやモディリアニのように、
極貧のうちに亡くなった画家の絵が、死後に投機の対象となり、
芸術を理解しない金満家の手から手へと、
渡り歩いていく姿は悲しいです。
★私が手書きで写しました自筆譜に、興味をもたれましたら、
一つでも結構ですので、是非、実物の自筆譜ファクシミリを
探し当てて下さい。
(探して入手するという努力もまた、勉強の重要な第1ステップです)。
そうしますと私の本に掲載した、たった一ヶ所だけでなく、
その曲全体の巨大な情報量が、あなたのものとなるのです。
★私が本に手書きで写しました自筆譜のファクシミリは、
購入は可能なものが多く、図書館で閲覧できるものもあります。
苦労して探し当てますと、出会いの喜びはまた格別です。
自筆譜からは、作曲家が曲を書いた瞬間の感動、喜びが、
直に伝わってきます。
★私は、岩波文庫「セザンヌ」ガスケ著/與謝野文子訳を、
時々、自分自身を鼓舞するために読み返しています。
★179ページ
「セザンヌは人生のうちの通算で一年や二年は、
ルーブルで過しているし、フランドルの美術館を見てまわり、
三十年もの歳月にわたってパリの展覧会や教会は全部、
駆け巡ったし・・・・・・(略)」と、あります。
いかに、セザンヌの勉強量が膨大で徹底しているかが、
書かれています。
★26ページ
「(セザンヌは)年老いてからは、仕事で疲労困憊、身体のほうが痛み
ほとんどものを読まなくなっていた。それなのに、幾度も、
田舎でもパリでも、広がる地平を目の前にして、または、
アトリエにいて描きかけの習作を前に、
立てた筆で音綴(シラブル)の拍子を取りながら、何十行もの
ボードレールやヴェルギリウス、ルクレティウスやボワローの詩を
暗誦しているのを、私(著者のガスケ)は目にしたものだ。
※セザンヌは「悪の華」を空で覚えていた。
ルーブルを歩いていると、何年に、というくらい正確に、
どの絵がどこから来たかを知っていたし、どこの教会、
どこの蒐集品陳列室にその写し(レプリカ)が見られるか、
それも知っていた。
ヨーロッパのさまざまな美術館に精通していた。
どうしてそうなったのか。実際に見学したこともなく、
ほとんど旅という旅に出たことのない彼だのに。
一度何かを読んだり、目で見たりさえすれば、多分、
一生記憶に焼きついたのだろうと、私は思う。
ものを見るのも、読書するのも、ひじょうにゆっくり、
ほとんど苦痛を覚えぬばかりにしてするのだった。
しかし、土壌なり、書物なりから奪い取ったひとつの年代、
世界のひとつのかけら、そういうものは自分のなかに深く埋めて、
刻み込んだ形で、何によってももう根こそぎにはされないようにして
持ち帰るのだった。」
★セザンヌにとってのルーブル美術館が、私にとっては
大作曲家の自筆譜です。
セザンヌは印刷された画集でオールドマスターの絵画を
研究したのではありません。
本物の絵画=“自筆譜”から、学んだのです。
★自筆譜を勉強しようとする際、
すべてのファクシミリを、買いそろえる必要はありません。
どれか一曲を選び、その曲の自筆譜を徹底的に勉強してください。
その時、できるだけ多くのその曲の実用譜を、見比べて下さい。
“自筆譜と異なっているところが、こんなにも沢山あるのか”と、
気付かれることでしょう。
★また、真のマエストロの録音された演奏を、
自筆譜を見ながら聴いて下さい。
あらためて、“この曲はこんなに素晴らしい曲であったのか“と、
きっと感動されることでしょう。
★この勉強ができますと、一曲だけであっても、
驚くほどの視界、視野の広さを獲得できるのです。
そうしますと、それまで曇った目で見たり聴いたりしていた
その他の作品が見違えるような輝きをもって、
眼前に迫ってきます。
音楽を学び、演奏する醍醐味を味わえるでしょう。
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