■ ドイツ映画の傑作 「 白いリボン 」 を観る ( 上 ) ■
2011.6.24 中村洋子
★2011.5.11 に、ご紹介しましたフィンランド映画
「 ヤコブへの手紙 」
http://blog.goo.ne.jp/nybach-yoko/d/20110511 は、
プロテスタントの 「 神と個人との対話、そして救済 」
という映画でしたが、
今回は、同じキリスト教を主題としながらも、
内容は大きく異なっている、Michael Haneke
ミヒャエル・ハネケ監督のドイツ映画 2009年
「 Das Weisse Band 白いリボン 」 です。
既に 「 名画 」 に位置づけられている作品、ということです。
★訴えたいテーマ、あるいは問題を、
観客に繰り返し繰り返し、自問させることに、成功しており、
私も、大変な 「 傑作 」 であると思います。
その問いのもつ重みは、頭に沈着し、終生離れないでしょう。
これは 「 名曲 」 も、同じことがいえます。
★その 「問い 」 とは、 「 宗教、教育により子供たちがどのように、
心をズタズタにされ、痛めつけられ、その結果、そこから救済されたい、
逃れたいという渇望から、 “ ハーメルンの笛吹き ” 、つまり、
ナチズムなど、極端なイデオロギーに、
引き寄せられていくのではないか 」 ということです。
★それ以上に、 「 そのような悲劇を呼び寄せてしまう、
キリスト教という宗教がもつ、 巨大な矛盾 」 を、
描こうと、したのかもしれません。
★主題とは別に、この映画のもつ、純粋な 「 映像の美しさ 」、
カラーではない白黒の映像の美しさは、特筆すべきです。
脳裏に焼き付き、長く忘れないことでしょう。
★映画を構成する 「 技法 」 も、実に、興味深いものがあります。
大胆に申しますと、映画の組み立て方が、
ドイツ音楽、西洋クラシック音楽の 「 真髄 」 ともいうべき、
「 fuga フーガ 」 の構成と、大変に似ているのです。
★また、音楽のみならず、西洋絵画、映画、文学などへの、
監督の、実に深い教養が 「 映像 」 に、滲み出てきます。
実に、手ごわい映画です。
★舞台は、北ドイツの小さく、貧しい農村。
ここで、陰湿で凄惨な、動機がよく分からない事件が、
次々と、起きます。
★この村で権力をもつのは、広大な領地を所有し、
家令を使って、小作人を搾取する 「 男爵 」 、
優しさなど、普通の人間の感情をもちあわせないような、
プロテスタントの厳格な 「 牧師 」。
愛人との、複雑な関係をもつ 「 医者 」 の三人。
★この村では、男爵が、地位と富とによって、村人の 「 生活 」 を支配し、
牧師が、村人の 「心 」 を、宗教と規律で、
桎梏のように、がんじがらめにしています。
「 ヤコブへの手紙 」 の、ヤコブ牧師のように、
個人として、神に向き合う姿は、全く出てきません。
一方的に、規律を強制するだけです。
★村人と異なり、特権的地位にある医師は、
放埓、肉欲の限りを尽くす、
いわば、罰すべき 「 堕落の象徴 」 として、描かれています。
「 堕落」 も、人間のもつ避けがたい一面です。
★牧師の息子 Martin マルティン と 娘の Clara クララとが、
どうやら、この映画で、起きる数々の不可解な事件、事故に、
深く、関わっているようなのですが、
具体的な映像として、真実はどうなのか、最後まで明らかにされません。
観客は焦らされながら、見守ります。
マルティンが、この映画の主人公である、とみる人も多いでしょう。
★牧師の末息子、愛らしいグスティーですら、
父親に呼びかける時は、かしこまって直立し、
「 Herr Vater ヘア ファーター お父様 」 と、
恐る恐る、喋りかけます。
礼儀正しいようにみえても、他人行儀な言い方、
子供らしさが、全く感じられません。
幼子にそのような言葉遣い、一種の媚を強いる親とは、何であろうと、
一瞬、冷水を浴びせかけられたような気持ちになります。
★この牧師は、映画ではプロテスタントの牧師ですが、
息子のマルティンという名前は、ドイツ人から見れば、
Martin Luther マルティン・ルター の Martin マルティンと、
容易に類推されるでしょう。
「 ルター対、カソリックの権威・ローマ法王庁 」 という構図にも、
とれます。
★20世紀の初頭でも、当時はまだ、貴族制度が残り、
豪勢な男爵一家と、惨めな小作人の生活との対比も見事です。
男爵の妻はイタリアの美人、暗い陰気な村に、
彼女が現れると、芙蓉の花が咲いたように明るくなります。
小学生ぐらいの息子ジギは、Thomas Mann トーマス・マンの
原作を映画化した Luchino Visconti ルキノ・ヴィスコンティ監督
「 Morte a Venezia ヴェニスに死す 」 に登場する
「 セーラー服の美少年 」 にそっくり。
その甘美さ、女性のように波打つ、柔らかな髪型まで瓜二つ。
この親子を眺めることで、観客は緊張から解きほぐされます。
★この 「 そっくりさん 」 を、出現させるところが、
見事な ≪ 技法 ≫ 、「 フーガ 」 に似た ≪ 技法 ≫ なのです。
「 fuga フーガ 」 の形式とは、基本的に、
力強い 「 主題 」 が、何度も 「 調 」 を変えて、出現します。
しかし、人間の耳は、その主題だけを、
ずっと聴き続けることは、できません。
あまりに、緊張を強いられるからです。
そこで、主題と主題の間に、「 divertissement 嬉遊部 」
という楽想を、挿入します。
★これは、主題の一部分を使ってはいるものの、
軽く、面白く、楽しい楽想です。
主題と嬉遊部とが、交互に出現することにより、結果的に、
生理的に、曲の全体を、楽しむことができるようになるのです。
★「 白いリボン 」 は、まさに、「 divertissement 嬉遊部 」が、
次々と出現し、可笑しくて噴き出したくなるものもあります。
それにより、この 「 重い主題 」 、つまり、
「 子供たちを、窒息しかねないまでに抑圧する宗教、教育 」 についての、
2時間半もの長編を、飽きさせず、楽しみながら、
一気に、結末まで引っ張っていきます。
「重いテーマ」が、縦糸ならば、
「そっくりさん divertissement 」 は、横糸なのです。
★もう一つ、仕掛けがあります。
この村の者ではない、外部の人間が、狂言回しの役割で、
登場し、老年になってからの 「 追憶 」 という形で、
物語の進行を、ナレーションしながら、説明します。
「 お能 」 の ≪ ワキ ≫ に、よく似ています。
★狂言回し役は、村の教師。
この教師が、またもや、大作曲家 Franz Schubert
「 シューベルト 」 (1797~1828年) の、そっくりさんです。
教師は31歳、若くもない、浅黒く風采の上がらない男、
シューベルトの肖像画そのもの。
髪は黒く縮れ、上唇は、分厚くまくれ上がり、
眼鏡も、シューベルトとそっくりの真ん丸ロイド眼鏡。
この顔を見ると、ヨーロッパでは、
笑いこける人も、多いことでしょう。
★恋人になる男爵家の乳母と一緒に、馬車で二人が、
麦畑をドライブするシーンは、戦前の有名な白黒映画
「 未完成交響曲 」 のパロディーでしょう。
この二人の恋ロマンスが唯一、この暗い村に、
希望、明るい光を、差し込みます。
★収穫祭で、男爵家の家令が、乳母の横にぴたりと座ります。
「 いくつになった? 」 と、さも下心ありげに聴きます。
「 フィガロの結婚 」 でお馴染の、“ 初夜権の行使 ” を、
観客は思い起こし、笑いを誘います。
■不可解な事件が唐突に、連続して起きます。
第一次世界大戦直前の1913年、収穫祭の前。
外出先から、馬に乗って帰ってきた医師が、自宅前で転倒して骨折、
大怪我を負います。
馬が、樹と樹の間に、張られていた針金に引っ掛かり、
医者は、もんどりうって、空中に放り投げられ、
地面に、たたきつけられました。
誰かが、故意にやった仕業。
しかし、動機が分かりません。
翌日には、その針金は、きれいに消えていました。
★その夜、牧師の子供マルティンたちが、理由を言わずに、
遅くまで、帰りませんでした。
牧師は、罰として食事を与えず、さらに、翌日、鞭打ちを加えます。
そして、 ≪ 白いリボン ≫ を腕に巻くことを、強制します。
親子関係、あるいは家庭のもつ温かみが、この家からは、
全く、感じられません。
子供の笑顔は、一度も見ることがありません。
親子が親しげに話すことが、一切ない。
軍隊のように、恐怖と命令、服従とで縛る。
★ ≪ 白いリボン ≫ は、 「 純潔の象徴 」 とされていますが、
「 純潔 」 といいながら、 “ あらゆる欲望を押さえ、
命令にだけ、素直に従いなさい ”という意味にしか、
画面からは、受け取れません。
「逆らわない」、ということが、権威の側から見ての、
“ 純潔 ” なのかもしれません。
★その命令は、「 神の命令 」 ということに、なっています。
ここでの 「 神 」 は、牧師であり、父、
絶対的な権力者ということになります。
子供にとっては、「 抑圧 」 の象徴でしかないでしょう。
ナチの 「 ヒットラーユーゲント 」の腕章を、
思い起こさせるのは、ごく自然です。
★翌日、小作人一家の老妻が、男爵の製材工場で作業中、
床が抜け落ち、地下に転落、死亡してしまいました。
★この小作人の顔が、Van Gogh ゴッホの絵画に出てくる
「 self-portrait 自画像 」 そっくりさん。
落ち窪んだ目、痩せこけた頬、世界中の苦痛を一身に背負ったような顔。
小作人の長男は、腐って抜け落ちるような床の上で、
母親を働かせた男爵に対し、怒りを抑えることができない。
★収穫祭で、村人がワインをしこたま飲んで、浮かれている時、
長男は、大きな草刈り鎌で、男爵の広いキャベツ畑を滅多打ち、
グチャグチャに、ほとんど潰してしまいます。
「 クの字型 」 の大きな鎌も、西洋絵画でおなじみのものです。
★男爵は、仕返しに、女中として雇っていた小作人の娘を、
即座に、首にします。
極貧の一家にとって、唯一給料を取ってくる大黒柱でした。
★もう一つ、事件が・・・。
その夜、男爵の息子ジギ が、行方不明に。
村人が総出で、捜します。
観客は、その捜索風景を、Rembrandt レンブラントの
名画 「 De Nachtwacht 夜警 」 の画面と、
自然に、重なり合わせることでしょう。
イメージが重なることで、既視感 déjà-vu のような、
自分も参加しているような、不思議な気持ちが湧きます。
★遂に、製材工場の中で、逆さ吊りにされたジギが、見つかります。
鞭で、したたか打たれていました。
戸板に乗せられて運ばれたジギを、迎えようと、
玄関の階段を転げ落ちちんばかりに、飛んで来る男爵夫人。
Eisenstein エイゼンシュタイン の
「 Battleship Potemkin 戦艦ポチョムキン 」
階段シーンに似ています。
★遂に、 " 寒くて、暗く、こんな陰湿な村は懲り懲りよ !!! ″ と、
男爵夫人は、子供を連れて、南国イタリアに去ります。
★一方、狂言回しのシューベルト君と、男爵家の乳母との、
恋愛は、ほほえましく進みますが、
男爵夫人が急に、イタリアに行ったため、
乳母は突然、首を切られ、追い出されてしまいます。
★途方に暮れた乳母は、シューベルト君を訪ね、
「 一晩、居させて欲しい 」 、 と頼みます。
彼は、古ぼけた小さな足踏みオルガンを弾き、彼女をやさしく慰めます。
Schumann: Album für die Jugend
シューマン 「 ユーゲント・アルバム 」 Op.68-3
" Trallerliedchen ハミング " 、そして、
Bach バッハの 「 Siciliana シチリアーノ 」 を、
愛情込めて、弾きます。
素朴な演奏が、心を打ちます。
(続く)
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