音楽の大福帳

Yoko Nakamura, 作曲家・中村洋子から、音楽を愛する皆さまへ

■シューベルトの「即興曲」と「冬の旅」は、死の前年に作曲■

2009-08-28 23:57:39 | ■私のアナリーゼ講座■
■シューベルトの「即興曲」と「冬の旅」は、死の前年に作曲■
                    09.8.28 中村洋子


★8月もあとわずか、昨夜は、下弦の半月でした。

きょうも、美しい月です。

8月は、お盆や終戦記念日もあり、日本人にとっては、

死を見つめる月、でもあります。

殊に、ことしは、ベーレンス先生が死去され、

なおさら、その思いを募らせました。


★9月に録音します、私の「無伴奏チェロ組曲2番」の、

第1曲は、「Klagelied~クラーゲリート(哀歌)」から、

始まりますのは、偶然でしょうか。


★夭折した天才芸術家「シューベルト」、

日本で、同じように若死の天才は、

「樋口一葉」の名前が、思い浮かびます。

私は、子ども時代、よく「一葉記念館」にまいりました。

ミニチュアで出来た、当時の下町の街並み模型を見るのが、

好きなだけで、彼女の文学はあまり、理解できませんでした。


★近ごろ、読み直してみますと、このような深い人間洞察が、

どうして、弱冠24歳で亡くなった人に、できたのでしょうか。

31歳で亡くなったシューベルトも、同じことがいえます。


★一葉は、貧困と病苦の極限状態の中で、人並みはずれた

洞察力と創造力を発揮したのだと、思います。

以前書きましたように、シューベルトは決して、

貧困では、ありませんでしたが、

病苦に苛まれた一生だったと、いえます。


★1823年、26歳ごろ、病気治療のために服用した水銀は、

副作用が苛烈で、発疹、眩暈、頭痛、発熱、脱毛など、

筆舌に尽くし難い苦痛の連続だった、といわれます。


★10代から、傑作を作曲し続けた人でしたが、

そうした病に陥った後、20代半ば以降は、

世間的な成功には、関心を失い、

突き動かされるように、作曲だけに、

全霊を傾けた毎日だったようです。


★死の前年、1827年に「冬の旅」と「即興曲」を作曲しています。

余談ですが、「即興曲」という題名は、出版社が命名したものですし、

ましてや、「即興~インプロビゼーション」で、

作曲したものでないことは、いうまでもありません。

題名に引きずられますと、「天才」についての誤解が生じてきます。


★天才というのは、努力を厭わず、努力し続けられる人のことで、

たとえ、作曲するスピードが、異常に早かったとしても、

この曲を、即興で書いたとは、考えられません。


★「冬の旅」については、死の直前まで、推敲を重ねに重ねています。

「即興曲」は、ピアノ発表会などでも、

気楽に取り上げられる “きれいな曲” 、

「冬の旅」は、 “深刻な暗い深遠な” 曲、

というのが、一般的イメージでしょうか。


★しかし、この2つの曲集を、よく見ますと、

西洋の扉で、ノックの金具に飾られている双面神、つまり、

ローマ神話の「扉の神様 Janus ヤヌス」と、同じように、

大本は同じもので、そこに、シューベルトが2つの横顔を、

刻んだものであることが、分かります。


★例えば、「冬の旅」、第8番の「 Rueckblick (回顧)」の

1小節目と、「即興曲」Op.90-2 変ホ長調 の103小節目には、

同じ考え方に基づく、極めて大胆な「非和声音」が、使われています。


★「 Rueckblick (回顧)」の1小節目は、4声で書かれており、

ソプラノとテノールの「D」の音に対し、バスとアルトは、

「D」の倚音である「Cis」が、同時に置かれます。

倚音は、その解決音と同時には、奏されない、というのが、

「和声学」の大原則です。

ここで、シューベルトは、その原則を無視し、

破壊することにより、非常に、

衝撃的な音を、生み出しました。

さらに、自分で、「fp」の記号も記入しています。


★「即興曲」103小節目の2拍目は、右手に「Fis」が奏され、

同時に、左手で「Fis」の倚音の「Eis」が、奏されます。

そこにも、シューベルトは、「ffz」の記号を記入しています。

これも、「 Rueckblick (回顧)」と同様に、衝撃です。


★以上は一例ですが、この2つの曲集には、大変多くの共通点が、

ありますので、どちらか一方を勉強する場合、

必ず、もう一つの曲集を、紐解いてください。


★このように、連関して勉強いたしますと、

一つの曲集に、長時間を費やすよりも、

案外、短時間で、シューベルトの深い世界に、

近づくことが、出来るかもしれません。



                           (柿)
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■ベーレンス先生を悼むベッチャー先生からのお手紙■

2009-08-26 23:58:30 | ■ 感動のCD、論文、追憶等■
■ベーレンス先生を悼むベッチャー先生からのお手紙■
               09.8.26  中村洋子


★本日8月26日は、旧暦の七夕です。

初秋の澄んだ夜空を眺めながら、昨日、私のもとに届きました

Wolfgang Boettcher ベッチャー先生からの、

お手紙を、読み返しておりました。


★先週の18日に、日本でお亡くなりになりました

ヒルデガルト・ベーレンス先生の死を悼んだお手紙です。


★The death of Hildegard Behrens was a shock for us all.

Dark cloud is over this year's Kusatsu-Festival.

What an intelligent and warm person and great singer!!!

So life goes on.

We have to practice, to play and to teach.


★ヒルデガルト・ベーレンスさんの死は、私たち全員にとって衝撃です。

暗い雲が、ことしの草津音楽祭に、覆いかぶさっています。

彼女は、なんと知的で、暖かく、そして、

偉大な歌手だったことでしょう。

人生は流れていきます。

私たちは、練習し、演奏し、教えなければなりません。



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■リヒャルト・シュトラウスが手書きで写した、シューベルトのワルツ■

2009-08-23 18:39:46 | ■私のアナリーゼ講座■
■■リヒャルト・シュトラウスが手書きで写した、シューベルトのワルツ■■
                     09.8.23   中村洋子


★先週、急逝されましたヒルデガルト・ベーレンス先生を偲び、

悲しい、毎日です。

今回は、ベーレンス先生が、歌われたオペラ「サロメ」の

作曲家リヒャルト・シュトラウスと、シューベルトとの関係です。


★各国の、ベーレンス先生の追悼記事を読みますと、

「ワグナー歌手」と、紹介されていますが、

先生は、リートの演奏も、抜きん出ていました。

これから、おそらく、シュトラウスのリートなどを、

たくさん、歌われ、さらに充実した世界を、私たちに、

聴かせてくださるはずでした。

「残酷な運命」に、言葉もありません。


★シューベルト(1797~1828)の舞曲・レントラーと、

ブラームスとの関係については、8月15日のブログで、書きましたが、

リヒャルト・シュトラウスも、シューベルトを、

深く研究していたことを、証明する、

興味深い楽譜を、見つけました。


★これは、

「Universal Edition UE 14930 SCHUBERT KUPELWIESER - WALZER

D Anh.Ⅰ 214 aufgeschrieben von Richard Strauss」

クーペルヴィーザー ワルツ D Anh.(補遺)Ⅰ 214 」。

リヒャルト・シュトラウスが、1943年1月4日、ヴィーンで、

シューベルトのワルツを、手書きで、そのまま書き写した楽譜の、

ファクシミリ版と、通常の印刷譜の両方を収録した楽譜です。


★リヒャルト・シュトラウスの手書き譜には、

シュトラウス自身による、以下のような説明が、添えられています。

「1826年9月17日、シューベルトは、

彼の友人クーペルヴィーザーの、結婚に際し、この曲を作曲した。

この楽譜は、クーペルヴィーザー家に伝わっていた」。


★この曲は、32小節の大変に短い曲ですが、

「♭」を、6つもつ「変ト長調」の曲です。

「変ト長調」・・・と言いますと、何か思い出しませんか?


★シューベルトの「即興曲」 Op.90 の第3番「Andante」が、

同じ、「変ト長調」です。

この第3番は、1857年12月、シューベルトの死後、ほぼ30年後に

第4番と一緒に、やっと、出版されましたが、

「変ト長調」は難しいので、「♯」1つの「ト長調」に、

改竄されて、出版されました。

(ちなみに、この曲について、シューベルトはなにも、

命名していなかった、そうです)。


★何人かの方に、この即興曲を、「変ト長調」で弾いた後、

「ト長調」で、もう一度引き始め、反応を見てみましたところ、

一様に、「もうそれ以上、聴きたくない」という反応でした。


★柔らかく、暖かな「変ト長調」と、

「♯」により、導音の方向性を、常に意識させる、

はっきりとした性格の「ト長調」との違いを、体験するのに、

とてもいい教材、といえます。


★「クーペルヴィーザー ワルツ」は、冒頭に、

Ruhiges Walzertempo (落ち着いたワルツのテンポで)と、

シューベルトは記しています。

友人が、暖かい家庭を築くことを願って、作曲したのでしょう。


★しかし、24小節目で、突如、「♯」2つの調号をもつ、

「ロ短調」に、遠隔転調しています。

そして、すぐに、27小節目で、何事もなかったかのように、

主調の「変ト長調」に、復調しています。

これは、プレゼント用に片手間で書いたものではなく、

彼の“実験室”ともいえる、曲です。


★この転調や、最終の32小節目(ここからダカーポ)の和音などは、

その後の、ブラームスや、ヨハン・シュトラウス、

リヒャルト・シュトラウスに、つながる、

芸術作品としての舞曲やワルツの、「源流」と、

見て取ることが、できます。

このような小さな曲で、実験を重ね、翌1827年(?)に、

「Op.90」に、到達したのかもしれません。


★余談ですが、私が「 10 Duos fuer jungen cellisten 」を、

作曲しました折、「♭」4つの「変イ長調」を、弾き易い「♯」3つの、

「イ長調」に、変えたほうがいいかどうか、ベッチャー先生に、

ご相談しましたら、「断じて、変えるべきではない」というご返事。


★リヒャルト・シュトラウス(1864~1949)が、

このワルツを、手で写したのは、1943年、実に79歳のごろ。

功成り名を遂げた、晩年の頃です。

多分、クーペルヴィーザー家が所有していた、この楽譜を、

見た瞬間、その価値を読み取り、すばやく、

自ら手で書き写し、後世に残そうと、したのでしょう。

そして、彼の望みが、叶ったことになります。


★この手書き譜を、見ますと、その譜割りが、とても興味深いです。

23、24小節は「変ハ長調」で、

25、26小節は、「ロ短調」に転調し、同型反復しています。

シュトラウスは、それがよく分かるように、23小節目を、

5段目の冒頭に来るよう、譜割りをしています。

(シューベルトの原譜が、そうだったのかもしれませんが、

それは、見ることができませんので、不明です)

これが、印刷譜では、1段を4小節に、機械的に区切っていますから、

23小節目は、6段目の後半に、

25小節目は、7段目の前半に来ており、

2段に、分割されてしまいます。


★記譜一つを取っても、書き手の音楽的な力量が、

如実に、見て取れます。

これは、エキエルが校訂したショパンの楽譜にも、

逆の意味で、言えるかもしれませんね。


                       
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■■ヒルデガルト・ベーレンス先生、心よりお悼み申し上げます■■

2009-08-20 15:31:11 | ■ 感動のCD、論文、追憶等■
■■ヒルデガルト・ベーレンス先生、心よりお悼み申し上げます■■
                    09.8.20    中村洋子


★ヒルデガルト・ベーレンス HILDEGARD BEHRENS先生が、

日本で、急逝されてしまいました。

まだ、72歳でした。

本当に悲しく、茫然としています。

涙が止まりません。


★ベーレンス先生は、草津音楽祭出演のため、

16日の日曜日午後、日本に到着されました。

私は、同様に来日されたベッチャー先生と、

宿泊先の国際文化会館でお会いし、食事をご一緒しました。

ベーレンス先生は、“日本の地震が怖い”ことと、

“心臓の不調”を訴えられていることを、仄聞していました。


★その後、病院に行かれたようですが、ご体調を案じていました。

そして、18日夕に動脈瘤破裂で、お亡くなりになったという報道。


★私は東京新聞を購読していますが、19日夕刊、20日朝刊にも、

訃報記事は、残念ながら出ていませんでした。

ドビュッシーが亡くなったときのことを、思い出しました。

コンセルバトワール院長を務め、国葬となったフォーレとは、

対照的に、ドビュッシーの訃報は、極めて小さな報道しか、

なされなかった、そうです。

本当の芸術家を、同時代が理解することは、

なかなか難しいものがあり、ベーレンス先生の残された芸術は、

これから、私たちが、学んでいくべきものでしょう。


★2年前の夏、ベーレンス先生が演奏された、

シェーンベルク作曲「ピエロリュネール」を、聴きました。

この曲は、最高度の演奏「技巧」と「知性」が、要求される曲です。

「現代音楽」の専門家は、この曲のもつ複雑な音程やリズムを、

正確に、ソルフェージュのように、演奏することは、可能です。

しかし、シェーンベルクの豊穣な世界を表すには、甚だ不十分です。

この曲のもつ、もう一つの面、つまり、

本来の「クラシック音楽」の世界を、表現するには、

シューベルト、ブラームス、シューマンの歌曲を、

演奏できる芸術家でないと、不可能で、

シェーンベルクの豊かさには、近づけません。


★ベーレンス先生は、それができる極わずかな芸術家の一人でした。

その最高の演奏を直に、聴くことができ、私は、本当に幸せでした。

その後、ベーレンス先生に、そのことをお話しましたとき、

とても、喜ばれました。

私が持参しました「ピエロリュネール」の

スコア冒頭の、真っ白なページ一杯に、

「あなたの作品が世界で、聴かれることを、期待しています」

という内容のサインを、頂きました。


★昨年も、先生にお会いし、私の「ピアノトリオ」が、

ヴァイオリンのサシュコ・ガブリロフ先生、

チェロのヴォルフガング・ベッチャー先生、

ピアノのフェレンツ・ボーグナー先生によって、演奏された際にも、

楽屋にまで、わざわざ、祝福しに来て頂きました。

私を、暖かく抱擁され、「とても、感動しました。

あなたの曲が終わったあと、一瞬、沈黙があり、

それから拍手がありました。皆さん、心から感動していたのです」と、

おっしゃっていました。


★そのとき、バッハの「無伴奏チェロ組曲」の楽譜を、

持っていましたので、そこにサインをお願いしましたら、

「バッハの楽譜にサインするのは、恥ずかしいわ」と言いながらも、

にこやかに、サインをしてくださいました。


★一緒にお食事もしましたが、暖かく、知性に満ち、

思慮深く、好奇心も一杯、ユーモアにも溢れていた方でした。

澄んだ、小さな、細い話声は、一度聴いたら、

忘れることのできない声です。

その声が、いまでも聴こえるようです。

「あなたの夫は、ピアニストのマルカンドレ・アムランにそっくりね」と、

ウインクされていました。


                   (ベーレンス先生と私 Aug.08.)



■Hildegard Behrens, Soprano Acclaimed for Wagner, Is Dead at 72

August 19, 2009
The German soprano Hildegard Behrens, a mesmerizing interpreter of touchstone dramatic soprano roles like Wagner’s Brünnhilde and Strauss’s Salome during the 1980s and early ’90s, died on Tuesday in Tokyo. She was 72 and lived in Vienna.



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Her death was announced by Jonathan Friend, the artistic administrator of the Metropolitan Opera, in an e-mail message sent to associates and released to the media by Jack Mastroianni, director of the vocal division at IMG Artists and her former manager.

Ms. Behrens fell ill while traveling to a festival in Kusatsu, a Japanese resort town, to present master classes and a recital, and was taken to a hospital in Tokyo on Sunday night. She died there apparently of an aneurysm, Mr. Friend wrote.

Ms. Behrens’s ascent into the demanding Wagnerian soprano repertory was uncommonly fast after starting her career late. She did not begin vocal studies, at the Freiburg Academy of Music, until she was 26, the same year she graduated from the University of Freiburg in Germany as a junior barrister, having initially chosen law as a profession.

Her debut came in Freiburg in February 1971, the month she turned 34, in a lyric soprano role, the Countess in Mozart’s “Nozze di Figaro.” Her voice at the time was rich and flexible, and she might have continued on a lighter repertory path. But the shimmering allure and power of her sound and the intensity of her singing led her inexorably to Wagner.

In her prime she was a complete vocal artist, a singer whose warm, textured voice could send phrases soaring. Her top notes could slice through any Wagner orchestra.

Her technique made heavy use of chest voice, an approach that would eventually take a toll on her singing. Many purists argued that Ms. Behrens was no born Wagnerian. Her voice lacked the penetrating solidity of a Kirsten Flagstad or the clarion brilliance of a Birgit Nilsson.

Yet with her deep intelligence, dramatic fervor and acute emotional insights, she made her voice do what the music and the moment demanded. A beautiful woman with dark hair and a slender athletic frame, she was a poignant actress capable of fits and temperamental flashes onstage.

She was riveting as Wagner’s Isolde, a role she recorded with Leonard Bernstein conducting; Senta from “Der Fliegende Holländer”; and, especially, Brünnhilde.

She learned the three Brünnhilde roles of Wagner’s “Ring” cycle (in “Die Walküre,” “Siegfried” and “Götterdämmerung”) simultaneously, because she thought of the cycle’s four operas as an entity, an organic operatic drama. Her first Brünnhilde came with a complete “Ring” at the Bayreuth Festival in Germany in 1983, the production conducted by Georg Solti. It was a triumph for Ms. Behrens, which she repeated for the next three summer seasons there.

She sang the role when the Met opened its 1986-87 season with “Die Walküre,” the first installment of Otto Schenk’s production. In the spring of 1989 she sang in the Met’s first presentation of the complete Schenk “Ring,” which was designed with her in mind. The production was retired this May.

Between her Met debut as Giorgetta in Puccini’s “Tabarro” in 1976 and her appearances as Marie in Berg’s “Wozzeck” in 1999, she sang 171 performances with the company, including Leonore in Beethoven’s “Fidelio,” Elettra in Mozart’s “Idomeneo” and the title roles in Strauss’s “Salome” and “Elektra.” She sang the title role in Puccini’s “Tosca” opposite Plácido Domingo in the premiere of the popular Franco Zeffirelli staging introduced in 1985, a production later broadcast on public television.

Still, Brünnhilde became her Met calling card. She appears in the company’s DVDs of the Schenk “Ring” — recorded mostly in 1990, when she was at her dramatic and vocal peak — with James Levine conducting. The release affectingly captures her uncommonly feminine and thoughtful portrayal of this rambunctious character.

Yet Ms. Behrens’s move into Wagner was an act of will that took a vocal toll. By the mid-1990s, when she was approaching 60, her singing became ragged, with dicey pitch and strident top notes. Ms. Behrens drew criticism from many opera buffs and reviewers during this period. But she was determined to sing her chosen roles with uncompromising intensity, whatever the cost.

Hildegard Behrens was born on Feb. 9, 1937, in Varel, Germany, west of Hamburg, the youngest of six children. Both her parents were doctors, and her father was an avid amateur musician. As a child Ms. Behrens studied piano and violin and had a natural singing voice. Commenting on her musical upbringing in a 1983 interview with The New York Times, she said, “Nobody cared for me, and I had no expectations.” Hence her drift into law school.

Her true talent did not emerge until well into her vocal studies in Freiburg. In 1972 she joined the Deutsche Oper in Düsseldorf. She was discovered there by the powerful conductor Herbert von Karajan, who recruited her to sing Salome at the Salzburg Festival in Austria in 1977. The experience was exasperating for the determined Ms. Behrens: Karajan insisted that a nonsinger perform Salome’s Dance of the Seven Veils. Still, her performance was acclaimed and led to a landmark recording.

In the 1983 interview Ms. Behrens explained that she knew from the beginning that she would become a dramatic soprano, and that her slow start was an advantage.

“I consider my career to have had a fantastic logic,” she said, adding, “Now I realize that all that time I spent at the conservatory allowed me to evolve as a musician.”

“It was like playing a role out in my mind, before I actually did it. Even today I can think through a part, and my throat will subconsciously assume all the correct positions without my actually having to sing.”

By the early 1980s Ms. Behrens was such a major Met artist that she considered her loft in Chelsea home; she lived there at the time with her two children. Ms Behrens’s children, Philip Behrens of Munich and Sara Behrens Schneidman of Vienna, survive her, along with two grandchildren. She was married for a time to the German director Seth Schneidman, who directed her in several productions.

Ms. Behrens saw no divide between acting and singing. “Music for me comes out of the dramatic context,” she said in a 1997 interview with Opera News. “I have never had the temptation to view the voice as a fetish. For me it’s just a vehicle. I cannot consider it as some kind of golden calf.”

In 1990, while performing in the “Ring” at the Met, Ms. Behrens sustained a severe injury when a piece of scenery fell on her during the final scene of “Götterdämmerung,” the dramatic climax in which the Hall of the Gibichungs collapses. A beam of plastic foam and canvas stretched over wood fell prematurely and knocked Ms. Behrens to the floor, bruising her forehead and blackening her eyes. She had to miss subsequent performances. In a statement at the time, she said that if the beam had not struck her she might have taken a fatal fall into an open shaft created by a premature lowering of part of the stage floor.

Ms. Behrens was not an artist who looked back at decisions with regret, including her early choice of law school. She found helpful connections between law and opera.

“You go step by step in law,” she said in the Opera News interview, “and that’s what you do in opera too — finding motivations, reasons, cause and effect, emotions, guilt, responsibility. The intellectual training and discipline that it takes to solve a juridical case are very good for the approaches to a role.”

Correction: Aug. 19, 2009

A previous version of this obituary misspelled the surname of Hildegard Behrens's daughter. She is Sara Behrens Schneidman, not Scheidman.


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■シューベルトの舞曲レントラーが、ブラームスに与えた影響■

2009-08-15 14:21:32 | ■私のアナリーゼ講座■
■シューベルトの舞曲レントラーが、ブラームスに与えた影響■
                  09.8.15   中村洋子


★9月の「シューベルト即興曲・アナリーゼ講座」のために、

「シューベルトの舞曲集」を、勉強しています

「即興曲」を理解するには、彼の残したたくさんの舞曲を、

聴き、学ぶことが、欠かせません。


★シューベルト(1797~1828)は、友人たちとの集いで、

友人たちに踊りに合わせ、即興で、舞曲を巧みに演奏したそうです。

楽譜として残されている舞曲は、ヘンレ版の、

「Saemtliche Taenze= Complete Dances」として、

出版されています。


★ブラームス(1833~1897)は、ハンブルクで、

エドワルド・マルクスゼンの下で、作曲とピアノを

勉強中の時代(1843~53)、つまり、10歳から20歳ごろまでの間、

シューベルトの音楽に親しんだと、思われます。

師のマルクスゼンは、ヴィーンで、

イグナーツ・フォン・ゼーフリートの下で学んだからです。

ゼーフリートは、1838年に、シューベルトの最初の伝記を、

書いた人ですので、おそらく、個人的に、

シューベルトを知っていた人と、思われます。


★ブラームスは、1853年、ライプッチヒで、シューベルトの

交響曲 Great Cdur D944 を、聴いています。

また、ピアニストとして、活躍した若い頃のブラームスは、

ピアノ五重奏「鱒」D667 や、歌曲集「美しい水車小屋の娘」D795 、

ヴァイオリンとピアノのための幻想曲D934 などを、

演奏していました。


★このように、ブラームスは、最初から、シューベルトを

“滋養”として、作曲家となりました。

初めて、ヴィーンを訪問した1862年、

シューベルトの自筆譜を、たくさん、蒐集しています。


★ブラームスは、シューベルトの故郷・ヴィーンに、

定住した36歳の1869年、

所有していたシューベルトの自筆譜に基づいて、

編曲した「ピアノ4手連弾のための20のレントラー集」を、

ヴィーンの出版社から、出版しています。

シューベルトの「17のドイツ舞曲~レントラー」D366

(1816~24に作曲) と、D814 の舞曲とを合わせて、

20曲にしています。


★これは、シューベルトのピアノソロの舞曲を、ブラームスが、

ピアノ連弾用に、編曲したものです。

この楽譜は、Universal Edition Ue 31 958 から、出ています。


★この楽譜を、勉強しますと、

シューベルトの音楽が、分かること以上に、

ブラームスの音楽を、理解するための、

大きな手掛かりが、得られます。

以前、アナリーゼ講座で、私なりに、「ブラームス・トーン」として、

ブラームスの和声の特徴を、まとめました。

いかにも、ブラームスらしい音の重ね方、つまり、

和音構成音のどれを、どの位置に配置し、

重複、または省略させるかが、この編曲からも、

読み取れてきます。


★この曲集は、16小節程度の短い曲ですが、

前半8小節を、反復し、後半も反復するという形式です。

友人たちとの集いで、演奏したとすれば、

この反復を、何度も繰り返し、

さらに、即興的に変奏を加えていった、と思われます。


★ “ブラームスが、シューベルトから何を学んだか”、

“どこが、ブラームス的か”、について、

前半の反復が終わった9小節目からを、例にして、

シューベルトの独奏曲を、どのように連弾へと編曲したか、

その手法を、見てみます。


★原曲の、左手部分は、各小節の1拍目を、

単音から、1オクターブ下の音を足した、

オクターブの重音とし、バスを充実させています。

2拍目、3拍目は、シューベルトの音と同じです。

原曲の右手部分の、2拍目、3拍目を、9、10、11、12小節では、

ブラームスは、2拍目を左手、3拍目を右手に分割し、

スタッカートを、書き加えています。


★こうしますと、10、11、12小節に、

「 Cis - H - A - Gis - Gis - Fis 」という

旋律が、浮かび上がってきます。

シューベルトの、一見単純な旋律から、

ブラームスは、美しい2声部を、紡ぎだしていました。


★「単純」に見てしまいますと、シューベルトの「対位法」を、

読み取ることはできない、ということが、

ブラームスの編曲から、分かってくるのです。


★一つの旋律が、2声部、3声部など多声部によって成り立っている、

という音楽は、いうまでもなく、バッハの作曲技法の真骨頂です。

本当に単純で、つまらない曲からは、

「対位法」は、紡ぎ出せません。


★ブラームスの、単旋律を多声に分けていく手法は、

彼の交響曲の、オーケストレーションを、

見ているような感じがします。

30代のブラームスが、43歳の1876年に、交響曲第1番を発表するまで、

そのようにして、彼自身の管弦楽法を、磨いていたのでしょう。


★このシューベルトの原曲と、ブラームスの編曲を、両方、弾いてみますと、

シューマンの傑作ピアノ作品、例えば「パピヨン」、「謝肉祭」などでの

和音配置や、対位法の忍ばせ方に対する、アイデアの類似点、

もっと、はっきり言えば、シューベルトの大きな影響が、

浮び上がってきます。


★シューベルトが、このレントラーを、友人たちと演奏したように、

反復を繰り返しながら、自分で変奏も加えつつ、

何度もお弾きになりますと、きっと、とても楽しいでしょう。


★何回も繰り返しますと、その調性がくっきりと、意識されてきます。

そうしますと、次の曲の「調」、つまり「転調」の美しさや意外性を、

繰り返しなしでサラサラと、弾いたときより、

より強く、実感されることでしょう。

シューベルト独特の「転調」に馴染み、親しんでいく方法となります。


                      (若いジュズ珠)
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■シューベルト「即興曲」Op90と、バッハ「マタイ受難曲」の知られざる関係■

2009-08-09 18:11:29 | ■私のアナリーゼ講座■
■シューベルト「即興曲」Op90と、バッハ「マタイ受難曲」の知られざる関係■
                     09.8.9 中村洋子


★シューベルト(1797~1828)の「即興曲」Op90は、

4曲から、成ります。

有名なのは、2、4番ですが、全曲を通して勉強しますと、

2、4番の真価が、さらによく分かります。


★今回は、この4曲の調整の関係について、触れます。

調性は、1番「ハ短調」、2番「変ホ長調」、

3番「変ト長調」、4番「変イ長調」です。


★特に、1番と2番、2番と3番との関係は、次の通りです。

「1番の主音」の短3度上が、「2番の主音」、

「2番の主音」の短3度上が、「3番の主音」になっています。


★各曲は独立した曲ですが、全体を一つの曲として見た場合、

「1番から2番への転調」と、「2番から3番への転調」が、

極めて、似ています。

1番は「ハ短調」ですが、200小節目の3拍目から、

最後の204小節まで、同主長調の「ハ長調」に転調して、

曲を、閉じています。


★1番から2番は、「ハ長調から変イ長調」への、

転調となり、これは、短3度上の長調どうしで、

2番から3番への転調も、同じです。


★シューベルト以降、この「3度の関係の転調」が、頻繁に使われ、

ロマン派の転調の代表的なものと、考えられ勝ちですが、

実は、バッハが、その素晴らしい例をたくさん、

それ以前に、残しているのです。


★バッハ「マタイ受難曲」の第1曲目のコーラスは、

「ホ短調」で、始まりますが、終止音は、「ピカルディーの3度」

または、「ピカルディーのⅠの和音」

(短調の曲の終止和音の、第3音を半音高めることにより、

根音と第3音の音程が、長3度となり、終止和音も、長3和音となる)

を使い、「E - Gis - H」 の長3和音で、終わります。

第2番の開始和音は、「G - H - D」 の3和音で、

1番の曲から、場面転換し、「エヴァンゲリスト」が、

“Da Jesus diese Rede vollendet hatte” と、歌い始めます。


★この「E - Gis - H」と「G - H - D」の、2つの和音の関係は、

「E - Gis - H」の根音である、「E」の短3度上が、

「G - H - D」の根音である、「G」であり、

二つの和音は、長3和音です。


★この2つの和音を、ピアノなどで、弾いてください。

その後、シューベルト「即興曲」Op90の1番

「C - E - G」(C durの主和音)と、

2番の「Es - G - B」(Es durの主和音)の、

2つの和音も、弾いてみて下さい。

バッハの、先ほどの関係と、

全く同じであることが、実感できることでしょう。


★シューベルトやショパンが愛した、

この「3度の関係の転調」を、

バッハが、既に「マタイ受難曲」で、使っていることが、

お分かりいただける、と思います。


★シューベルトは、「即興曲」Op90を、

死の前年である、「1727年」に、作曲しています。

シューベルトとバッハの関係は、ほとんど語られていませんが、

シューベルトが、最も尊敬した作曲家「ベートーヴェン」が、

バッハを知悉しており、近年、モーツァルトも、受難曲を含む、

バッハのかなりの曲を、研究していたであろうことが、

明らかに、なりつつあります。


★メンデルスゾーン(1809~1845)は、

バッハ「マタイ受難曲」を、初演から、

「ほぼ100年後の1829年に再演した」と、されています。



★「マタイ受難曲」の初演は、1729年4月15日とされ、

作曲年は、はっきりしません。

メンデルスゾーン以前、バッハの息子たちなどにより、

部分的に、演奏はされていた、ようです。

1829年、メンデルスゾーンが、このマタイを大々的に

再演しましたが、この年は、

シューベルトの死から、2年たっています。


★メンデルスゾーンと「マタイ受難曲」の再演を計画し、自ら、

イエスを歌った、「エードゥアルト・デフリーント」によりますと、

1827年の冬から、再演計画が、もちあがっていたそうです。

さらに、遡りますと、

メンデルスゾーンは、既に1823年、クリスマスの贈り物として、

祖母「バベッテ・ザロモン」から、「マタイ受難曲」の

「筆写譜」を、既に、贈られています。

実に、彼が14歳の時で、シューベルトも、存命中でした。


★「マタイ受難曲 筆写譜」を、プレゼントした祖母の偉大な知性、

それを、読み解き、素晴らしさを完全に理解し、

再演したメンデルスゾーン、

祖母は、「何に本当の価値が在るか」、さらに、

「お金の本当の使い方」を知っていた女性、といえます。


★「マタイ受難曲」は、こんにち言われるように、

初演後、すっかり、忘れ去られていた訳ではなく、

音楽を、真に理解している人々により、脈々と、

伝えられていた、といえます。

あたかも、日本の「源氏物語」などが、手書きで写され、

読み継がれてきたのと、同じように、

この人類の宝を、手で筆写し続けた人々、

音楽を真に愛する人々がいたという、証拠ではないでしょうか。


★シューベルトが、「マタイ受難曲」を研究していたかどうかは、

資料がありませんが、シューベルトは、言われているほどは、

貧しくはなく、音楽教師だった父親の年収を、大きく上回る収入を、

出版社や、音楽会から得ており、

それだけで生活できた、最初の作曲家です。

一般的に言われている“貧しいシューベルト”は俗説でしょう。

従って、バッハなどの楽譜を、金銭的理由で見る機会がなかった、

とはいえないと、思われます。


★この「3度の転調」について、カワイ表参道で9月13日に開催します

「アナリーゼ講座」で、さらに、詳しく、ご説明いたします。


             (アスパラガスの葉、檜扇水仙、五色蔦、矢羽根薄)
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■シューベルト即興曲のアナリーゼ講座は、9月13日(日)です■

2009-08-04 01:23:16 | ■私のアナリーゼ講座■


■シューベルト即興曲のアナリーゼ講座は、9月13日(日)です■
  ≪ Vier Impromptus Op-90、2番と4番 ≫

09.8.4 中村洋子


★カワイアナリーゼ(楽曲分析)講座として、これまで、

ベートーヴェン「ワルトシュタイン・ソナタ」、

バッハ「イタリア協奏曲」、ショパン「バラード1番」、

ドビュッシー「ベルガマスク組曲、喜びの島」などを、

取り上げて、まいりました。

今回は、シューベルトの「即興曲」のなかでも、

最も親しまれている2曲 「Op-90、2番と4番」 を、

アナリーゼいたします。


★シューベルト Schubert (1797~1828)は、

音楽史上、稀にみる大作曲家ですが、意外と、

伝記や研究書が少ないことに、お気付きと思います。

31歳の短すぎる生涯の、ほとんどすべての時間を、

作曲だけに、捧げ尽くした人でした。

それゆえ、伝記で書くのに格好なエピソードなどは、

存在しようが、なかったのです。


★「4つの即興曲 Op-90 D.899」 の 2番変ホ長調と、

4番変イ長調は、誰でも、どこかで耳にした曲であり、

ピアノ学習者の方は、一度は弾くことがあると思います。

2曲とも、A-B-A の3部形式で、2番のAの部分は、

流れるような音階が続き、4番のAの部分は、

デリケートな分散和音が、さざなみのように、続きます。

中間部は、両曲とも、和音を基にした

エモーショナルな世界が、出現します。


★親しみやすい外見にもかかわらず、

実は、この曲は、シューベルトのピアノ作品を、

集大成した内容を、もっています。

この曲を作曲した1827年は、彼の死の前年であり、

同じ年には、歌曲集「冬の旅」も、作曲しています。

両者を結び付ける、共通のモティーフすらあります。

また、この「4つの即興曲」の4曲も、

緊密な構成原理で、結び付いています。


★この有名な「即興曲」を、弾いたり、聴いたりする際、

このようなバックグラウンドを、理解することは、

シューベルトに近づく、第一歩です。


★私たちは、シューベルトが残した「楽譜」からのみ、

シューベルトを学ぶのですが、ピアノ作品を深く知るには、

彼の歌曲や室内楽作品も、同時に学ぶ必要があります。


★「Op-90の2番」は、エチュード(練習曲)として

見ることも、可能です。

バッハの前奏曲から、シューベルトを経て、

ショパンの「エチュード」へと、つながっていくのです。

ショパンは、バッハとシューベルトを、

とても深く、研究しています。

「4番」の転調方法は、シューベルト独特の「3度の関係」を、

駆使しています。

これが、後世の作曲家、特にドビュッシーに、

大きな影響を、与えています。


★この曲でつかわれる「和声」や「転調」を、

具体的にはっきりと、理解しますと、

どのようなエクスプレッションを、つけて演奏すべきか、

自ずから、分かってきます。


★さらに、この曲の効率的な「暗譜」の方法も、

詳しく、ご紹介します。
 

日時:2009年9月13日 午後3時~6時
会場:カワイ表参道 2F コンサートサロン「パウゼ」
会費:3000円 (要予約)
講師:中村洋子
参加ご予約・お問い合わせは 03-3409-2511 omotesando@kawai.co.jp


■講師:作曲家 中村 洋子
東京芸術大学作曲科卒。作曲を故池内友次郎氏などに師事。日本作曲家協議会、日本音楽著作権協会(JASRAC)の各会員。ピアノ、チェロ、ギター、声楽、雅楽、室内楽などの作品を発表。2003 年~05 年、アリオン音楽財団《東京の夏音楽祭》で、新作を発表。自作品「無伴奏チェロ組曲」などをチェロの巨匠W.ベッチャー氏が演奏したCD『W.ベッチャー 日本を弾く』を07 年に発表する。このチェロ組曲やチェロアンサンブル作品がドイツ各地で演奏されている。08年9月、CD「龍笛&ピアノのためのデュオ」とソプラノとギターの「星の林に月の船」を発表。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
●第13 回「インヴェンション・アナリーゼ講座
      9月 29日(火)午前10 時~12 時30 分 「パウゼ」
            インヴェンション&シンフォニア第13 番

●第14 回「インヴェンション・アナリーゼ講座」
      10月 29日(木)午前10 時~12 時30 分 「パウゼ」
            インヴェンション&シンフォニア第14番

●第15 回 「インヴェンション・アナリーゼ講座」
       12月 4日(金)午前10 時~12 時30 分 「パウゼ」
            インヴェンション&シンフォニア第15 番、
           
■カワイ名古屋 第1回「インヴェンション・アナリーゼ講座」
       10月 21日(水)午前10時~
            インヴェンション&シンフォニア各1番 


                         (オオシオカラトンボ)
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■夏の舞茸スープ 自然耕房(じねんこうぼう)三夜沢きのこ園■

2009-08-03 01:08:25 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■
■夏の舞茸スープ 自然耕房(じねんこうぼう)三夜沢きのこ園■
                 09.8.2   中村洋子 


★9月は、13日に「シューベルト・即興曲のアナリーゼ講座」、

27日の「バッハ・インヴェンション講座」や、

私の作品「チェロ組曲」の、録音などで、

全力疾走と、なりそうです。


★気分転換に、萩原朔太郎の故郷・前橋に近い

赤城山の南麓へと、行ってまいりました。

山の木々の精気と、雨のように降る、

蜩(ひぐらし)の音で、

日本の夏を、実感しました。


★山の香りといいますと、私は、「自然耕房」の舞茸が、

以前から、大好きで、美味しく頂いています。

安全で、おいしいのはもとより、なによりも、

山の香りを、うっとりするぐらい、

発散させているからです。


★赤城山麓の、緑に囲まれた「自然耕房」の

舞茸栽培工場を、見学させていただきました。

工場は、舞茸の香りで満ち満ちており、

以前、スウェーデンを訪れた時にいただきました、

森の香りがプンプンする、地元の伝統食「キノコスープ」を、

急に、思い出しました。


★その「キノコスープ」は、山で採れた天然のキノコを、

大量に煮立て、ミキサーにかけ、クリーム状にしたものでした。

早速、今回、舞茸を使って、私流の「キノコスープ」を、

作ってみました。

①舞茸を、水、チキンスープとベーコン少々で、さっと煮る。

②煮たものを、煮汁と一緒にミキサーにかけ、ドロドロにする。

③牛乳、またはクリームと混ぜ、塩コショウで味を調える。

暖かくしても、冷たくしても美味しく、いただけます。

きょうは、大量に作り、小分けして冷凍しました。

夏の朝食に、ピッタリです。


★自然耕房の舞茸は、クロのほかに真っ白なものがあり、

さらに、ウスヒラ茸、タモギ茸、トキイロヒラ茸など、

色とりどりのキノコも作っています。

トキイロヒラ茸は鴇と同じ、美しいピンク、

タモギ茸は、鮮やかな黄色です。

スープの上に、一片のトキイロヒラ茸を、

載せますと、お洒落です。


★ウスヒラ茸は、蒸して、お醤油で頂きますと、

お肉を食べたような、充実感です。


★「自然耕房」は、美味しく安全なキノコを作るだけでなく、

いま、流行の「エコ」を、昔から徹底的に、実践している会社です。

シイタケを栽培した後に棄てられるホダ木を、細かく粉砕し、

そのチップに、おから、ビール粕を混ぜた「床」を作ります。

「床」は、1辺が20cmほどの立方体で、ビニールで密封。

そこに、舞茸菌を植え付け、絶妙な温度や湿度、照明の管理で、

2ヵ月後、やっと、写真のように、こんもりと盛り上がった、

それは見事な舞茸が、育ちます。


★舞茸を採り終わった、その同じ「床」に、

今度は、トキイロヒラ茸などの菌を植え、

計3回も、キノコを栽培します。

その後、「床」は、腐葉土と同じ働きをする「土」になります。

「自然耕房」は、その土で、美味しい野菜も作っています。


★つまり、シイタケ栽培に使った木が、回りまわって、

最後には、「土」になって、大地に帰るのです。

「床」を作るには、大量の蒸気で、

チップを殺菌する必要が、あります。

殺菌しないと、舞茸菌がうまく育たないからです。

蒸気をつくるには、通常、石油ボイラーを使いますが、

「自然耕房」は、木を燃やすボイラーを使います。


★周辺の山には、いくらでも棄てられた樹木があり、

腐るに、任せています。

それらを、このボイラーで、有効利用します。

遠く中近東から運ばれた石油を、使う必要はないのです。

地球温暖化防止にも、寄与します。

そのほか、工場の屋根には太陽光発電の、

パネルが、たくさん並べられています。

また、太陽光を工場内部に、

取り入れる装置も、付いています。

太陽の自然な光を、舞茸に浴びさせることが、

ここの舞茸のおいしさの秘密の一つのようです。


★見学してなにより、驚き、感動したことは、

工場で、障害をもった方や、高齢者がたくさん、

働いていらっしゃり、その方々が、

心から喜びをもって、無駄な動き一つなく、

キビキビと、動いているのを、見たことです。


★働くことが、こんなにうれしいことである、

という顔を、本当に、久しぶりに見ました。

東京では、見られない顔です。

障害をもった方々は、「自然耕房」に来て初めて、

健常者と、同等に評価され、

同じ待遇で、扱われたそうです。

それまで、いろいろと虐げられてきた方にとって、

どんなに、うれしいことか、想像するにあまりあります。

社長の佐藤さんを、“お父さん”のように慕っていました。

働きながら、自然にこぼれるその明るい笑顔が、

いつまでも、忘れられません。


■自然耕房(じねんこうぼう)
http://www.jinen.co.jp/index.html
http://www.jinen.co.jp/kigyou/nakamen.pdf
◎住所
 〒371-0247 群馬県前橋市三夜沢町21-7
 TEL 027-283-0531 FAX 027-283-0532
◎事業
 舞茸を中心にいろいろな「きのこ」と「土」を作っています。
 直営店 風の駅 やげんじ   前橋市鼻毛石町2490
     風の広場 おおまえだ 前橋市鼻毛石町1170-11


 (直径30㎝ほどのボール状に育った舞茸、佐川泰正さんの漆盆)
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