音楽の大福帳

Yoko Nakamura, 作曲家・中村洋子から、音楽を愛する皆さまへ

■「Bach自筆譜」を解読する際の注意点について■~名古屋アナリーゼ講座最終回のお知らせ~

2018-06-19 19:40:51 | ■私のアナリーゼ講座■

■「Bach自筆譜」を解読する際の注意点について■
~Bach時代のルールを覚えれば、容易に読み取れます~
   ~名古屋アナリーゼ講座最終回のお知らせ~
           2018.6.19   中村洋子

 

 

★大阪での地震、かなり被害が出ています。

被害に遭われた皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。


6月21日は「夏至」です。

夏至の頃の、暮れそうで暮れない夕方、

一日が長く感じられ、好きな季節です。

日が長いということは、それだけ夜が短いのですね。

≪短夜のあけゆく水の匂かな≫
              久保田万太郎(1889-1963)


★万太郎の時代なら、まだ井戸が主流でしたでしょう。

井戸の水の匂い、川の水の匂い、

朝顔市の植木鉢にかかった水の匂い、

水替えを怠った花瓶の水の臭さ・・・。

寒い冬には気付かなかった水の匂いを、

感じられるのがこの季節。


★≪へうへうとして水を味ふ≫
         種田山頭火(1882-1940)

山頭火の行乞行脚の日記を読み進みますと、

行く先々で、その土地その土地のお水を味わっています。

 

 


6月27日(水)の、名古屋カワイ最終講座の勉強をしております。

http://shop.kawai.jp/nagoya/lecture/pdf/lecture20180627_nakamura.pdf

「平均律第1巻8番 Prelude es-Moll 変ホ短調
                   Fuga dis-Moll 嬰二短調」です。

この8番は、「平均律第1巻」全24曲のちょうど3分の1に位置します。

曲の構造は、羅針盤の矢印が真っ直ぐに24番を指し示しています。


★先月5月26日、東京で開催しましたアナリーゼ講座は、

「平均律第1巻3番 Cis-Dur 嬰ハ長調」でした。

私が翻訳しました

「Bärenreiterベーレンライター平均律第1巻楽譜」添付解説書の

10ページに、平均律1巻における、Bachの推敲過程の記述があります。

A1からA4まで4段階に進化しており、「3番 Cis-Dur」は、

A2段階といえるでしょう、1732年ごろです。

Bachは、10年前の1722年の稿から、

3番 Cis-Dur 嬰ハ長調と、24番h-Moll ロ短調との関連性を深め、

緊密にするための「推敲、加筆」を加え続けたことを、

ご説明しました。


★「3番 Cis-Dur 嬰ハ長調」の伏線が、どのように

「8番 Prelude es-Moll 変ホ短調 Fuga dis-Moll 嬰二短調」に、

受け継がれていくのでしょうか。

Bachは平均律第1巻を20年以上にわたって、磨きに磨いています。


全24曲は、6曲1セットの計4セットであり、また、

8曲1セットの計3セットでもあるのです。

今回の講座の「8番」は、8曲1セットの最初の8曲の頂点となる、

「8番」です。

この8番の、大きな方向指示器も「24番」を示しています。

このことをご理解されますと、演奏がより美しく、容易になり、

鑑賞も一層深まります。

この点が、「平均律第1巻」を読み解くカギとなっていきます。

講座で、詳しくお話いたします。

 

 


★名古屋での最終講座となりますので、皆さまがBachの音楽を、

より深く理解できますよう、

Bachの 「Manuscript Autograph  自筆譜 」facsimile を、

どのように読み解いていくべきか、具体的にご説明いたします。

Bachの「自筆譜」こそが、Bach理解への最善にして、

一番の近道です。


★「平均律第1巻」は、ほぼ上声を「ソプラノ譜表」で、

下声を「バス譜表で(ヘ音記号)」で、記譜しています。

しかし、Bachはいつも独奏鍵盤楽器の作品を、

このように記譜していた訳ではありません。

 

 


★例えば、「クラヴィーアユーブング第4巻 Vierter Teil der Klavierübung」

通称≪Goldberg-Variationen ゴルトベルク変奏曲≫初版譜

(自筆譜は行方不明)は、基本的には、上声(右手)は「ト音記号」、

下声(左手)は「バス記号(ヘ音記号)」を、使っています。

下声が高い音域の場合、「アルト記号」や「ト音記号」を使います。

現代の大譜表と同じです。

 

 


★「クラヴィーアユーブング第2巻 Zweiter Teil der Klavierübung」

通称≪Italienisches Konzert イタリア協奏曲≫も、

下声は音域により、「バス記号」と「アルト記号」を使い分け、

上声はいつも、≪ト音記号≫です。

 

 

★「平均律第1巻」も上声(右手)部分の記譜が、

「ト音記号」でも、十分に可能であったはずですが、

Bachは何故、≪ソプラノ記号≫の記譜にしたのでしょうか?

 

 


★前述「8番」の 「Manuscript Autograph  自筆譜 」facsimileを、

ご覧になって、調号が「9つ」も付いているのに、驚かれた方も

いらっしゃることでしょう。

「es-Moll 変ホ短調」は通常、「6つ」の調号のはずです。

 

 

9つもありますのは、「es des ces」が、

各々「es¹ es² des¹ des² ces¹ ces²」の位置に、

調号内で、2つづつ記入されているからです。

 

 

有名なイタリア協奏曲も、初版譜(自筆譜は行方不明)を、

「F-Dur」ですから、調号は「♭一つ」のはずです。

しかし、よく見ますと、左手バス声部に、「♭が二つ」付いています。

 

 

これは、五線の範囲内 +「上第1間」と「下第1間」の範囲内に、

調号を書き込むという、当時の習慣に則っているのです。

 



★それを知り、そのルールに慣れてしまえば、

何も驚くことはありません。

 

 

★例えば、「13番 Fis-Dur 嬰へ短調」の調号は、

「♯6つ」のはずですが、「♯が9つ」も書かれています。

この場合、ヘ音記号の調号は、下第1間まで書き込まれています。

 

 


★Bachの 「Manuscript Autograph自筆譜 」facsimile を見た時の、

調号の違和感は、これで解決です。


★次に、慣れていただきたいのは、

Bachの時代、「ダブルシャープ」はまだ一般化されていなかったことです。

例えば、 8番 Fuga の5小節最後の音は、現代の記譜では、

「gisis¹ 1点嬰ト音」ですが、

 

 

Bachはこのように記譜しています。

 

 

★下声最後の音には、ダブルシャープでなく、

「♯」が付されています。

これは、調号により既に「♯」が付されている「gis¹」音に、

更に臨時記号の「♯」が付き、その結果、

「ソ」のダブルシャープ、即ち、「1点嬰ト音、gisis¹」を

意味することとなるからです。

 

 


★更に、6、7小節目の「Manuscript Autograph自筆譜 」facsimile を

見てみましょう。

 

 

当該音に①、②、③・・・と番号を付けて説明します。

この2小節を、現代の記譜法で写譜しますとこうなります。

 

 

①の「gis¹」に付いた「♮」は、5小節目の「gisis¹」を、

元の調号の音「gis」に戻します、という意味の「♮」です。

ですから、①の音は「gis¹ 1点嬰ト音」になります。


★②は、自筆譜では「♯」が付いていますが、

これは、5小節目の「gisis¹」と同じく、調号の音「fis¹」に、

更に「♯」が付きますので、「fisisi¹ 1点嬰ヘ音」と、なります。

③は、自筆譜では「♮」が付いていますが、

これは、6小節目の②で、「fisis¹」のダブルシャープであったのを、

元々の調号音「fis¹」に戻すという意味です。

現代の記譜に書きましたように、「fis¹ 1点嬰へ音」です。


★④も同様に、「cicis² 2点重嬰ハ音」です。

これらのルールを、呑み込んでしまえば、

Bachの 「Manuscript Autograph  自筆譜 」facsimile は、

容易に読譜できるようになるだけでなく、

その作品に対する、理解を促す膨大な情報を与えてくれます。


★もう一つ、重要な現代譜との相違点です。

臨時記号は、現代譜では「1小節間、その効力を失わず、有効」

ですが、 Bach時代は「その音のみ有効」です。

これにも、ご注意ください。


★なお、8番 Fuga 3小節目冒頭の「付点」につきまして、

私の著作「クラシックの真実は大作曲家の自筆譜にあり!」
http://diskunion.net/dubooks/ct/detail/1006948955


25ページ「音楽的で、イマジネーションをかきたてる自筆譜」

是非、お読み下さい。

 

 


★これらに慣れてしまいますと、「Bachの自筆譜」を通して、

Bach先生自らが、約300年後のいま、皆さまの家のドアを"トントン"と

ノックして、直接、訪ねて来てくださいます

誤謬や偏見、虚栄心に満ちた校訂者、学者先生の手を借りることなく、

Bach先生から直接、親切で暖かいレッスンを受けることが出来るのです。

こんな幸せはございませんね。

 

 


※copyright © Yoko Nakamura    
             All Rights Reserved
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲

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■"権力"がもつ負の多面体を浮き彫りに、山本東次郎の狂言「禰宜山伏」■

2018-06-06 22:54:08 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■

■"権力"がもつ負の多面体を浮き彫りに、山本東次郎の狂言「禰宜山伏」■
 ~カワイ名古屋「「平均律第1巻8番」アナリーゼ講座のご案内~

                  2018.6.6  中村洋子

 

 


★新緑から梅雨の季節へと、音もなく移ってきました。

ノカンゾウ(野萱草)の蜜柑色が、どんよりとした曇天に、

輝くように映えています。


6月27日(水)は、名古屋 KAWAI で、

「平均律第1巻8番」のアナリーゼ講座です。

http://www.kawai.jp/event/detail/1133/

Preludeは「es-Moll 変ホ短調」、Fuga は「dis-Moll 嬰二短調」という、

異名同音調(enharmonic-key)です。

この異名同音調については、前回のブログもご参照ください。


★2009年9月21日の「第1回インヴェンション講座」から、

9年ほど続けて参りました「名古屋 KAWAI 講座」は、

暫く、お休みをいただくことになりました。

今回が最終ですので、この素晴らしい8番 Prelude & Fugaの

お話のほかに、

「Bärenreiterベーレンライター平均律第1巻」楽譜に添付されています
https://www.academia-music.com/products/detail/159893

私の著作≪Bach「序文」の解説と分析≫で書きました、

平均律クラヴィーア曲集の「正体」についても、

お話する予定です。

なお、ご出席希望の方は、ご予約を必ずお願いいたします。

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■平均律第1巻の構想を明確に示す「第8番」
 悲嘆に暮れるプレリュード、
 瞑想にふけるフーガは、明るく生命に満ちた「1番 C-Dur」から生まれ出る。
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・日時:2018年6月27日(水) 10.00 ~ 12.30
・会場:カワイ名古屋2Fコンサートサロン「ブーレ」
・予約:Tel  052-962-3939 Fax  052-972-6427
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★1巻第8番プレリュードはes-Moll 変ホ短調、フーガは dis-Moll 嬰二短調です。
 異名同音調とはいえ、調性が異なるプレリュードとフーガは、平均律1、2巻を通して
 この8番のみです。なぜそうなっているか、分かりやすくご説明いたします。

★バッハが平均律第1巻で追求した「調性とはなにか」につきましては、私が解説を
 書きました「ベーレンライター原典版・日本語解説付き平均律第1巻楽譜」を是非
 お読みください。

★尽きることのない嘆きを歌う8番プレリュードは、日の出のように明るい「1番 C-Dur
   プレリュード」から、生まれ出ました。1番から渾身の力と技と心をもって、この8番に
 辿り着いたのです。それを詳しくご説明いたします。

★静かに密やかに始まる8番フーガの主題は、反行、拡大を経て大河のように
   成長します。そして、その眼差しは、まっすぐ24番プレリュード&フーガへと
   向かっていきます。その理由を考えますと、平均律第1巻は「全24曲」ではなく、
   24曲が集まった宇宙のように「巨大な1曲」であることが分かってきます。
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★前回ブログでお約束しました、

山本東次郎先生の狂言「禰宜山伏」です。

2018年5月25日 国立能楽堂
大蔵流「禰宜山伏」
シテ/山伏 山本東次郎
アド/禰宜 茂山千五郎
アド/茶屋 松本薫
アド/大黒天 山本則重


★さて、こんなお話です。

伊勢神宮の禰宜(ねぎ)が、壇那廻り(支援者を廻る)の旅の途中、

馴染の茶屋に立ち寄り、一服しております。

そこへ、羽黒山の山伏が通りかかります。

額に「頭襟」と呼ばれる黒い宝珠を結い付け、手には金剛杖、

偉そうな雰囲気を漂わせています。

山伏も「一服所望する」。


★茶屋の主人がお茶を差し出しますと、

山伏は「熱すぎる!」と、大声でいきなり文句を。

主人は、慌てて冷ました茶を差し出しますが、

今度は「ぬるすぎるぞ!」と山伏は怒鳴ります。

「自分は、苔を布団に深山で難行苦行の修行を重ねてきた、

いまや、飛ぶ鳥さえも念力で落とすことができる」と、威張り散らします

言いたい放題。

やれやれ、とんだ客です。


★さんざん難癖をつけた後、山伏は出ていきます。

"やっと出てってくれた"と、ほっとしている禰宜と主人。

しかし、けったいなことに、また山伏は戻ってきました。

どうも、柳に風と山伏の話を受け流していた禰宜の態度が、

気に入らなかったようです。

禰宜の大人の態度を思い出し、沸々と腹が立ったのでしょうか、

背負っていた肩箱(経文や仏具が入った箱)で

禰宜を押し倒します。

今度は暴力。

しかも「この肩箱を、自分が今晩泊まる宿まで持って行け」と、命令。

見ず知らずの他人を、まるで目下、自分の丁稚のように扱います。

理不尽な強要です。

 

 


★困り抜いた主人は、一計を案じます。

「祈り比べをして、大黒天に判断してもらいましょう。

勝った方のいう通りにしましょう」。

はて、どちらの念力が通じるか、

主人は、大黒天の像を持ち出してきました。


★まずは、禰宜が祈ります。

幣を振り、滔々と流れるように祝詞読み上げます。

すると、大黒天はこれに合わせ、なんと足をピョンと上げます。


★次は山伏です。

肩を怒らせ、数珠を大袈裟に揉みしだき、ガサツな声で祈りだします。

大黒天は、プイとそっぽを向いてしまいます。

焦った山伏は、強引にも大黒天の体をむんずとつかみ、

力任せに、自分の方に向かせようとします。

しかし、大黒天はそのたびに、プイと横を向きます。

何度も強引に、自分の方に向きをねじ曲げようとする山伏。

なんと、遂に大黒天は小槌を振り上げて、

山伏に打ってかかろうとする仕草。


★それにも懲りず、悔しい山伏は「合い祈りで決着をつけよう」。

往生際が悪いのです。

二人で、同時に祈り始めます。

驚いたことに、大黒天様はやにわ立ち上がり、

遂に、山伏の額に小槌を振り下ろしてしまいます。

寛容な大黒天、いつも微笑みをたたえる大黒天も遂に、

堪忍袋の緒が切れたのでしょうか。

山伏は、ほうほうのていで逃げ出します。


★横暴極まりない山伏の言動に、禰宜や茶屋の主人だけでなく、

観客も実は「なんと野蛮で無礼な」と、一緒に腹を立てていました。

大黒天の振り下ろす小槌、つまり"鉄槌"に観客は、

溜飲を下げます。

 

 


★山伏は本来、急峻な深山を巡り歩き、

足を踏み外すと、即死するような断崖絶壁をよじ登ったり、

滝で、身を切るような冷水に打たれたり、

そうした厳しい行を、日々の生活とすることで、

世俗の雑念や煩悩、穢れを振り払い、

感覚を研ぎ澄まし、

生きながら仏になる「即身成仏」に、近づこうとする修行者です。


★「サーンゲ、サンゲ、ロッコンショウジョウ」を唱え、

夜明けから日が暮れるまで、道なき道の山を歩き通します。

「サンゲ」は懺悔。

世俗界で犯してきた罪や過ち、穢れを懺悔し、

"膿"を落とすという意です。


★「ロッコンショウジョウ」は、「六根清浄」、

「視」「聴」「嗅」「味」「触」の五感覚、そして「心」です。

心と五感を清らに浄化し、

生まれ変わり、

欲望を捨て、生きながら仏に近づこうとします。


★しかしながら、狂言の世界では、山伏はそのような

清らかな修行者とは対極的な、

"権力欲に満ちた人間の象徴"として、

姿を現すことがあるようです。

建前は、最も仏さまに近いはずの人が、実は権力欲、物欲、

あるいは差別意識に満ち満ちた人、俗物である、という設定。

文字通り"狂言"です。

これが、「狂言」の狂言たる所以かもしれません。

 

 


★これは実社会でも、大いにあり得る話です。

表向きの立派な肩書、温厚な顔付き、

高名な組織の名刺とは別に、

正反対の醜い、恐ろしい側面をもっている、

普段は隠しているということは、大いにあり得、

むしろ、その方が人間の真実かもしれません。


★現代と異なり、権力者を登場させ、直接批判することは、

昔は命に関わり、不可能だったでしょう。

見る人は阿吽の呼吸で、山伏を権力の象徴と、

とらえていたのではないでしょうか。

そのような暗黙の了解の上で山伏の言動を見ますと、

納得がいきます。


★山本東次郎さんが、山伏の姿で現れますと、

体全体から、俗物臭がプンプン漂ってきます

見事です。


★東次郎さんの山伏は、権力というものがもつ、

負の多面体を、浮き上がらせます。

・権力を笠に着て無理難題をゴリ押し、強要する。

・詭弁で白を黒と言いくるめようとする。

・都合の悪い事実を認めようとしない。

・往生際がとことん悪い。

・責任を絶対にとろうとしない。


★これらは、いつの時代にも通用する、

驕った権力の本質かもしれません。

山本東次郎先生が、今回、この演目を選んだのも、

このところの世情を反映してのことだった、

かもしれませんね。

 

 

 

※copyright © Yoko Nakamura    
             All Rights Reserved
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲

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