■ベートーヴェンPianoSonata1番、バックハウスの極めつけ名演奏■
~バックハウスの演奏はこの曲の規範です~
2024.8.27 中村洋子
薄(すすき)
★今年は、Wilhelm Backhaus ヴィルヘルム・バックハウス
(1884-1969)の、生誕140年&没後55年の年です。
https://tower.jp/article/feature_item/2024/05/30/1111
久しぶりに Backhaus バックハウスのベートーヴェン
ピアノソナタ第1番の演奏を聴き、驚愕しました。
https://tower.jp/item/6352929/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%EF%BC%9A%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%82%BF%E7%AC%AC1%E7%95%AA%E3%83%BB%E7%AC%AC2%E7%95%AA%E3%83%BB%E7%AC%AC3%E7%95%AA
★今まで、謎のように思っていた彼の解釈が、魔法の扉が開かれた
かのように、スッーと、心と耳に届きました。
クラシック音楽では、演奏家にとって「分析→解釈→演奏」、
鑑賞する場合は、「分析→解釈→鑑賞」という過程が、必要です。
現代は手っ取り早く、いきなり「演奏」いきなり「鑑賞」の時代です。
Backhausの演奏に、サーカス的要素は全く、ありません。
彼のBeethovenが、人口に膾炙しないのは、当然かもしれません。
それでも「生誕140年&没後55年」を記念するCDが、発売された
ことは、大いなる喜びです。
★若い頃、バックハウスの演奏を聴くたびに、感動しましたが、
彼は、なぜこのように演奏するのか、よく分からない点もありました。
勉強を重ねてきた現在、彼の「分析→解釈→演奏」が、霧が晴れた
ように理解できました。
勉強熱心な知人たちに、このCDを薦めましたところ、皆さん
私と同様の感想をお持ちになりました。
向日葵(ヒマワリ)
★人間は「考える葦」です。
情動や一時の感情を刺激し、麻痺させる音の塊も「音楽」かも
しれませんが、コツコツ過去の大芸術家(作曲家や演奏家)の世界を
学び、感嘆し、己が人生を明るくするのも、「音楽」です。
★6、7月の当ブログで、このピアノソナタ1番について書きました。
そこでは「 Klaviersonate op.2 Nr.1 f-Moll」の1楽章を例にとり、
ソナタ形式のご説明と、このピアノソナタ1番は、古代ギリシャの
アポロン神の彫像のように、完璧なプロポーションのフォルムを
持っていることにも言及しました。
そして、その均衡の取れた形態の細部を為す最小の単位
≪要素 motif≫が、まるで植物の葉の葉脈のように、美しく有機的に
形成され、絡み合っているかを、ベートーヴェンの生前出版である
「初版譜」を基に、分析しました。
★それでは、バックハウスはこのソナタ1番をどう「分析、解釈」した
のかについて、お話いたします。
皆様はバックハウスに限らず、偉大なマエストロの演奏を聴く時、
「普段あまり気に留めていなかった≪要素 motif≫を、愛おしむ様に
くっきり演奏している、これはなぜだろう?」と、思われたご経験が
あることでしょう。
★1963年10月、ジュネーヴで録音した第1番の1楽章を聴きますと、
31~33小節1拍目までの、バス声部「G-As-B-c ソ-ラ♭-シ♭-ド」
が、満月の輪郭線の様に、くっきりはっきりと浮かび上がります。
80歳のバックハウスの名演です。
★この第1楽章提示部(全48小節)の中で、2小節にわたる大きな
「Crecsendoクレッシェンド」が記入されているのは、
31~33小節冒頭の、この部分だけです。
そのために、バス声部「G-As-B-c ソ-ラ♭-シ♭-ド」を
クッキリと際立たせて弾くのは当たり前、と思われるかもしれません。
しかし、バックハウスは何故ソプラノ声部(右手の部分)ではなく、
この左手で弾く「バス声部」を、これ程はっきり弾いたのでしょうか。
これがマエストロの「分析→解釈→演奏」です。
槿(むくげ)
★理由は、複数あります。
まず、この提示部は全48小節です。
48小節×2/3=32小節です。
ここで、ベートーヴェンの「アポロ的均衡」の形式感が、光ります。
提示部全体の2/3の部分に、提示部の頂点(Höhepunkt
ヘーエプンクト)を配置するのは、実に合理的で、美しいのです。
前回ブログで指摘しましたように、この提示部全体の頂点
「31~33小節」冒頭に達するまでに、いくつかの頂点を経ています。
その最初の頂点は、1段目7小節の「フォルティッシモ f f」です。
★「2番目のHöhepunkt」は、「18~20小節」です。
このHöhepunktは、今までの水の流れのような快調な流れを、
堰き止め、聴く人をハッとさせます。
その後20小節の最後の拍から始まる第2テーマで、堰が外され、
今まで以上に勢いよく、第2テーマの奔流が流れ出します。
★そして「3番目のHöhepunkt」、「31~33小節」冒頭は、
第1楽章提示部の、最大の頂点となります。
バックハウスはこの部分を、「ここが頂点です」と意識的に
弾いているのです。
それでは何故、「バス声部」を際立たせたのでしょうか。
百日紅(サルスベリ)
★「初版譜」を、見てみましょう。
第1楽章の提示部が、初版譜1ページに丁度ぴったりと
収まっています。
この「レイアウト」を見るだけで、作品の構成が非常によく分かる、
とも言えます。
その1段目1~9小節をご覧ください。
6月の当ブログの譜例を、再掲載します。
★3小節目上声、符尾が下向きのmotif「ソ-ド-ミ-ソ
g¹-c²-e-²g²」は、第2ヴァイオリンを暗示します。
8~9小節目にかけての下声のmotif「ソ-ド-ミ♭-ソ G-c-es-g」は、
チェロを、彷彿とさせます。
二つの、実に重要なmotifの根幹は、完全4度「ソ-ド」の
跳躍音程です。この「ソ-ド」の完全4度の跳躍音程を、順次進行で
埋めますと「ソ-ラ-シ-ド」になります。
31~33小節のバス声部「ソ-ラ-シ-ド G-As-B-c」です。
★提示部の3番目、そして最大頂点(Höhepunkt ヘーエプンクト)の
「31~33小節」は、初版譜1段目から周到に用意され、
31~33小節の雄渾な「ソ-ラ-シ-ド G-As-B-c」へと成長します。
これが、バックハウスの「分析→解釈→演奏」でした。
★彼の素晴らしい演奏を聴いて、この31~33小節の「ソ-ラ-シ-ド
G-As-B-c」を、その部分だけ真似して、際立たせてみても、
アンバランスな「継ぎはぎ」な演奏になります。
この部分はバックハウス、この部分は他のマエストロの解釈、
この部分はまた違うピアニストの弾き方・・・というように、
パッチワークしても、ベートーヴェンの演奏にはなりません。
★この部分はピカソ、ここはモネ、ここはシャガール・・・と、
1枚の絵画の部分部分を、大画家の技法で描き分けても、
絵画の芸術作品にはなりません。
滑稽なモンタージュ風の作品になるだけです
柘榴(ザクロ)の実
★それでは「31~33小節」の、上声右手部分はどうなっている
のでしょうか。
八分休符の後、三つの「八分音符の塊」が、4回続きます。
各塊の冒頭音を列記すると、「ソ-ラ-シ-ド g²-a²-h²-c³」です。
下声「ソ-ラ-シ-ド G-As-B-c」の≪カノン≫です。
しかし、この上声は、1拍と2拍目(2分の2拍子)の拍頭が、
八分休符ですので、下声に比べ、このカノンのイニシアティブを
とるほどではありません。
朗々としたバスの「ソ-ラ-シ-ド G-As-B-c」に従っていくカノン声部
としてとらえるべきでしょう。
★その後、頂点(Höhepunkt )は、どうなっていくでしょうか。
33~34小節のフォルテf、35~36小節のピアノp、
37~38小節のフォルテf、39~40小節のピアノp、
寄せては返し、返しては寄せる、大きくうねる波の様に、
音楽は進行していきます。
★33~36小節、37~39小節の、各小節のバス声部「冒頭音」を
拾ってみましょう。
33~36小節は「ド-レ♭-ミ♭ c-des-es」、37~39小節は
その1オクターブ下の「ド-レ♭-ミ♭ C-Des-Es」です。
33~36小節「ド-レ♭-ミ♭ c-des-es」を、31~32小節の下声と
繋げてみますと、「ソ-ラ-シ-ド-レ-ミ G-As-B-c-des-es」という
見事な音階になります。
ただし、この音階は、「ファf」の音のみ欠如しています。
★何故でしょう。
この第1楽章の主調は「ヘ短調 f-Moll」です。
ですから提示部は、「ヘ短調 f-Moll」で始まります。
しかし、この第1楽章の展開部は、主調の平行調(平行調とは
調号の数が同じ調、ヘ短調は♭4つですから、♭4つの長調の
事です)の、「変イ長調 As-Dur」に転調していくのです。
栗
★なるべく、主調の「ヘ短調 f-Moll」から遁走したい、と
ベートーヴェンは考えたのでしょう。
巧妙に「ヘ短調 f-Moll」の主音「ファf」を、隠しているのですね。
さて、41小節からは、第1楽章のコーダ(結尾)部分が始まります。
「con espressione(表情豊かに)」の表示と共に、ベートーヴェンの
抒情性に富んだ p で、41~46小節は進んでいきます。
ここで大事なmotifは「ミ♭-ラ♭ es-as」、
「変イ長調 As-Dur」の「属音→主音」です。
アポロンの小舟は、静々と主調「ヘ短調 f-Moll」の港からから離れ、
平行調の「変イ長調 As-Dur」の海原を、目指します。
しかし、静かなまま、船は出港しません。
47小節で、いかにもベートーヴェンらしい一撃があったのち、
48小節の静寂に、戻るのです。
★今回は、バックハウスの名演を聴いて考えたことを少し書きました。
Wilhelm Kempff ヴィルヘルム・ケンプ(1895-1991)の
Beethoven ピアノソナタ1番の演奏は、詩的で、ドイツリートが
聴こえてくるような演奏です。
拙著《クラシックの真実は大作曲家の「自筆譜」にあり》297ぺージ
に書きましたように、ケンプは「私のスタイルを真似ることなく、
自分自身の方法を見つけてください」、「どこでペダルを踏むか、
踏まないかは、その人その人の演奏によるものであって、
一般的な規則はないのです」と、発言しています。
★この言葉は、バックハウスにもそのまま当てはまるでしょう。
まず「分析」、そして自らの「解釈」を地道に行っていくことが、
Beethoven ベートーヴェンの頂きに近づいていく途である、
と思います。
まだ尻尾のついているモリアオガエル
※copyright © Yoko Nakamura
All Rights Reserved
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲