■Wolfgang Boettcher ヴォルフガング・ベッチャー先生が急逝されました、悲しい■
2021.2.28 中村洋子
★チェロのマエストロ、Wolfgang Boettcher
ヴォルフガング・ベッチャー先生が、急逝されました。
何と悲しいことでしょう、寂しいです。
1935年生まれ、まだ86歳でした。
https://www.thestrad.com/news/wolfgang-boettcher-principal-cellist-of-the-berlin-philharmonic-under-herbert-von-karajan-has-died/11877.article
★ドイツはいま、コロナで厳しいロックダウン中ですが、
先生は、先月1月30日に86歳のお誕生日を迎えられた
ばかりでした。
毎年ご家族一堂が集まり、賑やかなお祝いの会をなさいますが、
今年はどうなるのか?、と案じておりましたが、
2月1日、先生から次のようなメールが届きました。
「Wolfgang 19:51
Dear Yoko!
Thank you for your nice birthday-wishes.
We have a lot of snow this moment and we celebrated
my birthday in the woods outside with hot drinks and cake.
I was happy with children+grandchildren.
How nice to know that our Mozart recordings are
now availebal. Clarinet quintet:what a piece!!!
All my best wishes for you and your husband
herzlichst Wolfgang」
ベルリンは大雪で、私の誕生日は戸外の森で、
暖かい飲み物とケーキで、子供たちと孫たちと祝い、
とても幸せでした。・・・」
★私がその前に差し上げた誕生祝いのメールで、
先生が昔、「ブランディス四重奏団」として録音された
≪Mozartの木管楽器のための室内楽作品集:
ローター・コッホ 、 ゲルト・ザイフェルト 、 カール・ライスター 、
ブランディス弦楽四重奏団≫が、
日本でリマスタリングされ、この3月に発売されるという
嬉しいニュースを、お知らせしました。
マエストロたちによる、名曲の極めつけ名演の再発売を、
とても喜んでいらっしゃいました。
https://tower.jp/item/3728319?utm_source=google&utm_medium=cpc&utm_campaign=gss&utm_term=s2&_adp_c=wa&_adp_e=c&_adp_u=p&_adp_p_md=5724&_adp_p_cp=47672&_adp_p_agr=8690871&_adp_p_ad=13867718
★心臓に持病がおありですが、お元気でお過ごしと安心していました。
しかし先生は24日、歩行中に路上で倒れ、家に運ばれましたが、
そこで安らかに、息を引き取られたということです。
心臓発作のようです。
チェリスト Hauke Hack ハウケハックさんから25日、
「Wolfgang Boettcher has gone. Very sad!!」と、第1報が入り、
先生のお弟子さんの Susanne Meves-Rößeler
ズザンネ・メーフェス=ルーセラーさんから、
≪I could not believe, but it’s true, he died. He had problems
with heart. By walking he broke down. They brought him to
his wonderful home, there he died peacefully.・・・Susanne≫と、
知らせていただきました。
★先生の思い出は尽きません。
春の柔らかい陽射しのように、とっても暖かく、寛い心。
相手を思いやり、決して傷つけない細心の言葉遣い、
人と接する際には、辛抱強く相手の可能性をとことん
引き出そうと、努力されます。
アルコール、コーヒーは摂りません、無類の蕎麦好きでした。
「soba」をドイツ語で発音しますと「ゾバ」です。
先生の「ゾバー!」と、子供のように嬉しそうに、
おっしゃる声が、無性に懐かしく感じられます。
★折に触れ、先生から音楽の解釈、勉強法のみならず、
たくさんの有名な演奏家への評価、クラシック音楽を取り巻く
状況についても、体験を踏まえ、具体的に詳しくお聴きしました。
あるスーパースターについて尋ねますと、横を向き、終止無言。
別のとても有名な方については、「彼は絵が上手い」等々、
厳しい評価の多かったのが、印象的でした。
演奏家などの公表されている経歴や宣伝を、鵜呑みにして、
信じては駄目、全身全霊を傾け、すべて自分の耳、
審美眼で判断すべき、という教えです。
★先生は、「コロナに感染のチャンスを与えないため、私たちは
注意深くしなければいけない Stay colona negative」と言いつつ、
昨年10月には毎年恒例の、お姉様のピアニスト
Ursula Trede-Boettcher ウルズラ・トレーデ ベッチャー先生との
リサイタルを、Mannheim マンハイムで、開催されました。
★この年1回のリサイタルでは、私の作品も度々、初演や再演を
して下さり、今年も“先生に演奏して頂ける曲を書こう”と、
思っていた矢先でした。
★先生のお父様の Hans Boettcher(1903-1945)は、音楽学者で
Paul Hindemith パウル・ヒンデミット (1895-1963)と親交が
深く、オペラ「Die Harmonie der Welt 世界の調和」を書くよう、
励ましたそうで、先生は後に、Hindemith協会の会長も
務められました。
お父様は、終戦前のベルリン大空襲で爆撃に遭遇され、
お亡くなりになりましたが、ご遺体は不明のままだそうです。
先生は田舎に疎開中で無事でしたが、「火の中を逃げ惑うお父様を
見た人がいる」と、後に聴かされたそうです。
★戦中、戦後のいろいろなお話も折に触れ、たくさんうかがいました。
「お父さんが車を買ったところ、なんと、1週間後に軍に取り上げ
られてしまった」、「戦後の食糧難は本当に酷かった。
母は大変でした。そのせいか、いまでもお皿に盛られた料理は、
多過ぎてももったいなくて残せない」、そのお母様は、90過ぎまで
自転車で先生のリサイタルに行かれるほどお元気で、
100歳の長寿を全うされました。
★ベルリンがまだ焼け野原だった1947年、残っていた大きな映画館で
フィッシャー・ディースカウの初リサイタルを、満員の中、
立ち見で聴いたこと、「帰り道、感激で涙を流しながら歩いた」。
先生より10歳年上のディースカウが、後年に指揮者デビューした際、
初演奏会は、 ベッチャー先生のチェロ独奏によるハイドンの
「チェロ協奏曲」でした、また、ディースカウの三男はチェリスト、
先生のお弟子さんだそうです。
★ベルリンフィルに23歳で入団、28歳で principal cellist
首席チェリスト。
その後、41歳でベルリン芸大教授に就任、ソロ演奏のみならず、
「ブランディス弦楽四重奏団」のチェリスト、
「ベルリンフィル12人のチェリスト」創立者として活躍されました。
世界各地でチェロのマスタークラスを開催され、現在の
ベルリンフィル・チェリストの内の6人が、先生の生徒さんです。
現在、ベルリンでチェロが大人気、優秀なチェロ奏者が集まっている
そうですが、先生のお人柄、努力によるものが大きいと思われます。
★また、1946年に創設された≪Sommerliche Musiktage
Hitzacker(Summerly music days Hitzacker
ヒッツァカー夏の音楽の日々≫という、室内楽に限定された音楽祭の
Artistic Director 芸術監督も務め、ナチ時代に演奏不可能だった曲や、
12世紀の女性作曲家 Hildegard von Bingen
ヒルデガルト・ビンゲン(1098-1178)など中世から現代に至る、
隠れた作曲家や、幅広いジャンルの音楽を取り上げてきました。
それを、とても誇りにされていました。
★先生とは20数年のお付き合いですが、2007年に私の
「無伴奏チェロ組曲第1番」を先生の演奏で録音していただき、
それ以来、交流が深まりました。
2009年、2011年と計3回の録音で、私の「無伴奏チェロ組曲」
全6曲を、CDとして発表することができました。
★また先生のおかげで、ベルリンの歴史ある出版社
「Musikverlag Ries& Erler Berlin リース&エアラー社」から、
私の「無伴奏チェロ組曲」などを、出版することも出来ました。
また、この楽譜に ≪Spieltechn. Einrichtung: Wolfgang Boettcher≫
日本語に訳しにくいのですが、ボーイングやフィンガリング、
エクスプレッションなど、演奏上で必要なテクニックの情報が
詳細に、書き添えられています。
演奏者にとって、このうえない大きな手助けとなるでしょう。
★私のチェロ独奏、チェロ二重奏、三重奏、四重奏、
チェロとピアノとの二重奏、ピアノトリオ、チェロアンサンブル
などを、先生はドイツだけでなく、世界各地で積極的に演奏して
下さり、その都度、コンサートのパンフレット、現地の新聞評を
几帳面に送っていただき、それを読むのが何よりの楽しみでした。
★2010年9月5日の当ブログ、
https://blog.goo.ne.jp/nybach-yoko/e/be6498c269d00431fa59abb8e3dbfb90
トルコのグムスリュク、エーゲ海に面したヘロドトスの生地近くでの
演奏会は、600年前の古い教会で行われ、
それを外の大きなスクリーンでも映し出したそうです。
曲は私の「無伴奏チェロ組曲1番」と
Bach「無伴奏チェロ組曲1、3番」。
「ホテルの部屋の前には、群青色の地中海が広がり、
島々が眺められます・・・」、
現地に行ったような思いが伝わります。
★先生は努力の人でした。
「Üben und Üben 練習、練習」が、先生の口癖でした。
楽曲を分析し勉強し、そして、倦まず弛まず毎日、毎日練習を続ける。
一方、無駄なことは一切なさらない。
それを完璧に実践された方でした。
★2回目のCD録音が終わった後、暑かったせいもありますが、
先生は、右腕のシャツを肩までまくり、
「This is maestoro muscle !!」と、一言。
普通、力こぶができるのは内側ですが、なんと外側にも筋肉が
こんもりと丸く、お握りのように盛り上がっています。
右手親指の関節にもタコ、弓が当たってできる固そうなタコ。
豊かで力強く、繊細でノーブル、官能的ともいえるビブラート、
変幻自在な音は、この修練あっての賜物だったのですね。
★曲に対する分析と思考を、徹底的に重ねた後、
弦が弓と接すると、大地の底から響きわたってくるような
深く豊かな音、切々と歌い上げます。
多彩な音色をもつ、無類のピッチカート、
先生のチェロは、チェロ演奏の極北とっても、過言ではありません。
楽器は、1722年製 Matteo Goffriller マッティオ・ゴフリラー、
Pablo Casals(1876-1973)も、1733年製 Goffriller 。
★私の「無伴奏チェロ組曲」全6曲は、SACDで聴くことができます。
今になって思いますのは、この無伴奏を録音で残せてよかった、
ということです。
その理由は、独奏チェロならではの「ピッチの美しさ」を
聴くことができるからです。
例えば、ピアノとの二重奏の場合、ピアノの調律は平均律で
なされます。
1オクターブを12の等分の間隔で、12の音に振り分けた調律です。
チェロが、ピアノと完全に一致する平均律のピッチで弾くので
あれば、聴いた瞬間、ピアノとチェロのピッチの差はなく、
機械的に音の高さがそろった、人工的な音楽となります。
しかし、この「平均律」は、実はあまり奇麗な音律ではないのです。
★今回、純正律から中全音律、ヴェルクマイスター、
キルンベルガーの調律法の変遷をご説明する余裕がありませんが、
ごく簡単に書きますと、純正調は、ドとソを同時に弾いた時、
澄み切った濁りの無い音です。
平均律では、ワーン、ワーンと唸りが聞こえます。
平均律の完全5度は、純正律の完全5度より、
半音の50分の1ほど、狭い音程だからです。
純正調は、ドとソの周波数の比率が2対3で、純粋な音程です。
★しかし、その純正調は、あらゆる音程が綺麗なのではなく、
聴くに堪えない、唸りの音程ができることもあります。
それがオオカミ(wolf)です。
そのため、ある調は演奏に適し、その他の調は汚れた響きがする。
あるいは、途中で転調ができない等の弊害が起きます。
★それゆえ、調律の改良が加えられ続けてきたのです。
しかし、前述のように、完全5度を、和音として同時に弾かなくても、
旋律の中で「ドーソ」と弾く場合でも、唸りのない音程による
音高の方が美しいのは、当然です。
★チェロをソロで弾くときは、実はその美しい音高による旋律を
秘かに忍び込ませることが、できるのです。
ベッチャー先生は、このことを「イントネーション」という語で
表現されていました。
このため、私の「無伴奏チェロ組曲」をベッチャー先生のCDで
聴かれた方は、耳慣れた平均律のピッチではなく、何とも心地よい
ピッチの音による旋律に、心が安らぐ思いをされた方も多いでしょう。
是非、皆さまでそこを探してみてください。
★しかし、そのようなデリケートな真の音楽の楽しみに対し、
「平均律」を杓子定規に当てはめ、”その音程は違っている”、
あるいは酷い時には “音痴である” などと、非難する方も多いのが
悲しい現実です。
鋭敏な耳と卓越した技術による、そうした演奏ができる奏者は、
残念なことに、本当にもう限られてきています。
★ベッチャー先生の思いは尽きませんが、
音楽家の類型についての含蓄深い分析が、頭に残っています。
「“ドンジョバンニ”、“シャイロック”、”アルコール”、
そして“勉強一途”、この4つに分けられますが、
“勉強一途”は本当に少ない」。
先生特有の、簡にして深い意味合いをもつ至言です。
いかに世俗的に有名であろうとも、真に努力する人は少ない、
また、そうした努力あってこそ真の芸術家として大成する、
ということでしょう。
音楽、芸術に限らず、あらゆる世界に通用する言葉でしょう。
https://en.wikipedia.org/wiki/Wolfgang_Boettcher
https://www.berliner-philharmoniker.de/en/news/detail/death-of-wolfgang-boettcher/
★2009年の録音が終わり、ほっとして、いろいろなお話を
している時、先生は「私の葬儀はね、スピーチは一切無し、
Mozart の C-Dur 弦楽五重奏曲をただ弾くだけ、
それだけにするよう伝えてあります」と、
静かにおっしゃいました。
★先生のお隣は、CDの録音とマスタリングを精魂込めて
なさってくださった JVC ビクターの Kazuie Sugimoto
杉本一家さんです。
超グルメだった ” 杉さん“も、一昨年秋に肺ガンで
お亡くなりになりました。
彼ほどクラシック音楽を愛し、精通し、卓越した技術を
もったマスタリングのプロは、もう日本にいらっしゃらない
かもしれません。
素晴らしい方が次々と、去っていかれます。
無常です。
★私の楽譜は、アカデミアミュージック
https://www.academia-music.com/products/list?name=Nakamura%2CY.
CDは、ディスクユニオン
https://diskunion.net/portal/ct/list/0/72362809
山野楽器銀座本店で、購入することができます。
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