2007/1/26(金)
★ブラームスは、数は多くありませんが、生涯にわたって、
ピアノ独奏曲を作曲しました。
「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ 作品24」は、1861年、28歳の作品です。
ブラームスは、この曲を「大好きな作品」と、自ら語っています。
それ以前のものより、格段に優れた曲と考えていたようです。
ブラームスは、バッハの作品では、特に「ゴールドベルク変奏曲」を愛していました。
ヘンデル・ヴァリエーションを勉強していきますと、背後にゴールドベルク変奏曲が
透けて現れます。
ブラームスの弟子ホイベルガーが「先生の曲には、習作のようなものはありませんね」といいますと、
「そう思う人間は、何も分かっていないんだ。僕の初期作品を見てごらん。
次から次へと勉強していることが、はっきり分かるから。」とブラームス。
そういう意味で、ヘンデル・ヴァリエーションは、ブラームスの初期の集大成といえそうです。
★ブラームスは、1865年、32歳で、母クリスティーナを亡くしましたが、
「母臨終」の知らせを受けると、涙を頬に垂らしながら、ゴールドベルク変奏曲を弾いた、といわれます。
バッハが、貴族の不眠症を解消するために作った曲は、
ブラームスにとっては、お母さんが天国で、安らかに眠るための曲になったのです。
その前年1864年、31歳の時、ヴィーン・ジングアカデミーの合唱指揮者を辞任しています。
「バッハばかりを演奏する」と、批判を受けたからのようです。
いつの時代でも、単調で甘ったるい「分かりやすい」音楽を、
迎合して演奏するほうが喜ばれる、というのが永遠の真理のようです。
ブラームスも、「すべての人に、分かってもらおうとは思わない」と語っています。
★ブラームスは、ハンブルグ生まれで、30歳前後でウィーンに移り、そこでの初めての仕事が、
「シューベルト交響曲全集」を全部「手で書き写す」ことだったそうです。
現在は、コンピューター万能で、手で書くことが大変に、おろそかにされています。
楽譜もパソコンやコピー機を使うと、簡単に写すことができますが、
自分の手で書くことによってのみ、覚えられることは、確かにあるのです。
★「鉛筆で写す奥の細道」が、静かに流行しているそうですが、写経に始まり、
読みたい人が「源氏物語」を、自分の手で写していたという日本の歴史。
文学、音楽、絵画という領域の違いがあっても、
「手で写す」ことは、芸術を学ぶ際の大原則でありましょう。
バッハにも、兄に隠れて夜遅く、楽譜を書き写した、という有名な逸話があります。
★私の恩師・池内友次郎先生は晩年、一年の半分をフランスで過ごされていました。
帰国されるたびに、学生だった私にお電話があり、池内先生が審査員をされていた
パリ・コンセルバトワールで、受験者が書いたコンクール課題のフーガや、
和声の答案を「清書してください」とのご依頼でした。
コンクールは、「プルミエール・プリ」(一等)、「ドゥージエム・プリ」(二等)
それに「不合格」の評価です。
プルミエール・プリを取りますと、≪首席で卒業≫と訳す方が、日本では多いようです。
演奏会のパンフレットで、よく目にするお馴染みの表現です。
日本の「優」、「良」、「不可」のようなものでしょう。
★乱雑に書かれた、分厚い束の答案を、短期間で清書する作業は、大変でした。
いまにして思えば、そのように手で写すことで、「覚えさせてやろう」という、
先生の有難いご配慮だったことが、いまやっと、分かりました。
話を戻しますと、ブラームスは、バッハ、シューベルト、シューマンに負うこと大でした。
★モーツァルトについてのブラームスの逸話は、つぎのようなことが残されています。
彼は、数少ないピアノの弟子に、モーツァルトのピアノソナタを、熱心に教え、
弟子が「すごく新鮮でした」と、驚きをもらすと、
「全部、ここに入っているんだよ」と、モーツァルトの楽譜を指差したそうです。
▼▲▽△▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲▽△▼▲
★ブラームスは、数は多くありませんが、生涯にわたって、
ピアノ独奏曲を作曲しました。
「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ 作品24」は、1861年、28歳の作品です。
ブラームスは、この曲を「大好きな作品」と、自ら語っています。
それ以前のものより、格段に優れた曲と考えていたようです。
ブラームスは、バッハの作品では、特に「ゴールドベルク変奏曲」を愛していました。
ヘンデル・ヴァリエーションを勉強していきますと、背後にゴールドベルク変奏曲が
透けて現れます。
ブラームスの弟子ホイベルガーが「先生の曲には、習作のようなものはありませんね」といいますと、
「そう思う人間は、何も分かっていないんだ。僕の初期作品を見てごらん。
次から次へと勉強していることが、はっきり分かるから。」とブラームス。
そういう意味で、ヘンデル・ヴァリエーションは、ブラームスの初期の集大成といえそうです。
★ブラームスは、1865年、32歳で、母クリスティーナを亡くしましたが、
「母臨終」の知らせを受けると、涙を頬に垂らしながら、ゴールドベルク変奏曲を弾いた、といわれます。
バッハが、貴族の不眠症を解消するために作った曲は、
ブラームスにとっては、お母さんが天国で、安らかに眠るための曲になったのです。
その前年1864年、31歳の時、ヴィーン・ジングアカデミーの合唱指揮者を辞任しています。
「バッハばかりを演奏する」と、批判を受けたからのようです。
いつの時代でも、単調で甘ったるい「分かりやすい」音楽を、
迎合して演奏するほうが喜ばれる、というのが永遠の真理のようです。
ブラームスも、「すべての人に、分かってもらおうとは思わない」と語っています。
★ブラームスは、ハンブルグ生まれで、30歳前後でウィーンに移り、そこでの初めての仕事が、
「シューベルト交響曲全集」を全部「手で書き写す」ことだったそうです。
現在は、コンピューター万能で、手で書くことが大変に、おろそかにされています。
楽譜もパソコンやコピー機を使うと、簡単に写すことができますが、
自分の手で書くことによってのみ、覚えられることは、確かにあるのです。
★「鉛筆で写す奥の細道」が、静かに流行しているそうですが、写経に始まり、
読みたい人が「源氏物語」を、自分の手で写していたという日本の歴史。
文学、音楽、絵画という領域の違いがあっても、
「手で写す」ことは、芸術を学ぶ際の大原則でありましょう。
バッハにも、兄に隠れて夜遅く、楽譜を書き写した、という有名な逸話があります。
★私の恩師・池内友次郎先生は晩年、一年の半分をフランスで過ごされていました。
帰国されるたびに、学生だった私にお電話があり、池内先生が審査員をされていた
パリ・コンセルバトワールで、受験者が書いたコンクール課題のフーガや、
和声の答案を「清書してください」とのご依頼でした。
コンクールは、「プルミエール・プリ」(一等)、「ドゥージエム・プリ」(二等)
それに「不合格」の評価です。
プルミエール・プリを取りますと、≪首席で卒業≫と訳す方が、日本では多いようです。
演奏会のパンフレットで、よく目にするお馴染みの表現です。
日本の「優」、「良」、「不可」のようなものでしょう。
★乱雑に書かれた、分厚い束の答案を、短期間で清書する作業は、大変でした。
いまにして思えば、そのように手で写すことで、「覚えさせてやろう」という、
先生の有難いご配慮だったことが、いまやっと、分かりました。
話を戻しますと、ブラームスは、バッハ、シューベルト、シューマンに負うこと大でした。
★モーツァルトについてのブラームスの逸話は、つぎのようなことが残されています。
彼は、数少ないピアノの弟子に、モーツァルトのピアノソナタを、熱心に教え、
弟子が「すごく新鮮でした」と、驚きをもらすと、
「全部、ここに入っているんだよ」と、モーツァルトの楽譜を指差したそうです。
▼▲▽△▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲▽△▼▲