僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

ウダウダ会、舞鶴へ

2013年12月05日 | ウォーク・自転車

本年最後のウダウダ会の例会が、12月3日、盛大(?)にとり行われた。出席者は13名(男性11名、女性2名)だった。この13という数字は、イエス・キリストの13人目の使徒ユダの裏切りによって不吉な数字とされているが、ウダウダ会はキリスト教よりも、ビール教、清酒教、焼酎教、ワイン教などの信者がいっぱいいるので、そんなことはいっこうに意に介しない。それよりギリシャ神話に出てくる酒の神・バッカスの信者ばかりなのだ(笑)。 

 
今回の行く先は京都府の舞鶴だった。大阪とは反対側の日本海に面しているが、便利な高速道路の発達で、マイクロバスに乗せてもらって2時間少し経ったらもう到着である。舞鶴湾に臨むこの街は、東舞鶴と西舞鶴とに分れている。(行政区域としては今は舞鶴市である)。地図をご覧になればおわかりのように、舞鶴湾は東湾と西湾とに、二股のようになって分かれている。東湾はかつては軍港、西湾は商港だったそうだ。僕らがバスから降りたのは東湾のほうで、地図で大きく「現在地」と書かれている場所で、そこには引揚記念館というのがあった。 

 

    
  バスは「現在地」と書かれている引揚記念館の前に止まった。


 

舞鶴といえば第二次世界大戦後の「引揚げ」で有名である。ソ連などに抑留されていた人々を乗せた引揚船が着く港だった。船が着くたびに、岸壁に立ってわが子の帰還を待ちわびていたという「岸壁の母」の舞台でもある。バスを降りたところがその引揚記念館の駐車場で、周辺には菊池章子や二葉百合子が歌った「岸壁の母」の曲が、ずっと流れ続けていた。

 

  
    引揚記念館

 

その記念館の下の方が、苦難に耐えて国外から戻った人たちが、祖国への第一歩をしるした引揚桟橋があったところだ。ウダウダ会一行は、見晴らしのいい場所に出て、その引揚船が到着したであろう場所をじっと見つめていた。

 

  

  

 
 

 

  
舞鶴といえば大阪が好天に恵まれていても、雨や強風や雪が降り、同じ近畿地方でもかなり天候の違う場所のイメージが強い。今回も、みんな寒さに備えて重装備をし、むろん傘や合羽もリュックに詰めてきた。しかし、空一面に青空が広がり、柔らかな日差しの中、風もなく絶好のウオーキング日和となった。澄み切った空気が、舞鶴湾一帯の風景を見事なものにしてくれていた。


この東湾は、かつては軍関係の諸施設がおかれ、軍都として栄えた名残りで、今でも遠くに軍艦のような船も見えたし、海上自衛隊もあり、「海軍ゆかりのみなとめぐり遊覧船」というのも出ていた。今は軍関係施設は民間の工場に転用されて、造船、車両、板ガラス、繊維などの工場が並んでいたが、かつての「軍都」などといわれても、昭和24年生まれの団塊世代の自分にはわからないはずだが、でも、何となくそういう雰囲気が漂っているような気はした。それにしても美しい海の風景だった。

 

 

 


途中、待機していたマイクロバスに乗り、次は西舞鶴の方向へ行き、道の駅で降ろしてもらい、そこから今度は城下町として栄えた西舞鶴の街並みを散策した。先ほどの広々とした元軍港の光景から一転して、古都の街並みのような風情のある道を歩いた。赤れんが博物館へ行き(庭で休憩しただけで入っていません)、そのあと、田辺城址まで歩いた。お城はないが、面影は残っていた。


敷地に立っていた説明パネルによると、田辺城は舞鶴城とも称され、16世紀、織田信長から丹後国をあてがわれた細川幽斎とその子・忠興によって築城された。その後、細川氏の後を受け、京極氏、牧野氏が城の拡張、改修をおこなったとのことである。


小さな資料館の中に入ると、細川幽斎の坐像があり、諸々の資料が展示されていた。細川幽斎といえば、その子・忠興は明智光秀の娘の玉を妻にした戦国武将である。本能寺の変のあと、明智光秀から味方についてくれと頼まれたが、忠興は父とともにきっぱりと断り、妻の玉(洗礼名・細川ガラシャ)の悲劇はそこから始まった。その細川親子が、この舞鶴に築城したのが田辺城だったという。


田辺城址の周囲はきれいに整備された公園になっており、母子連れが数組、ブランコや滑り台で遊んでいた。今は平和な世の中で本当によかったです。



  
     田辺城址

 


時計を見ると間もなく午後1時になろうとしていた。
「あぁ、腹が減ったなぁ」
「早くビール飲みたいなぁ」
という声がチラホラと聞こえ始める。


「では、皆さん。これから料亭へ案内します。すでにそこへ下見に来ていますが、素敵なおかみさんがおられる料亭です。お楽しみに!」


しかし会長のその言葉を信用するものは誰もいなかった。前回、比叡山を歩いた帰り、坂本駅の「料亭」を予約しているという触れ込みだったが、行ってみると小さなお好み焼き屋さんであった。だいたい、この会はそういう会なのである。場末の小さな食堂で手を叩くのが慣例なのだ。またそれが、このメンバーによく似合っているしね~


JR西舞鶴駅に近い商店街の一角に「料亭」はあった。「ごめん!」と暖簾をくぐって入ると、狭いスペースに細長いテーブルが並べられてあり、そこへ向かい合わせでぎっしりと椅子が並べられている。入り口に近いところから、奥の壁まで、いっぱいいっぱいである。そこへ鍋が4つ置かれていた。店にはあとはカウンタがあるだけで、そこで一人、ご老人がビールを飲みながらテレビを見ておられた。10人ちょっとのお客が入れる程度のお店である。


「とりあえず、ビールちょ~だい」と世話役が叫ぶ。は~い、とビンビールをどんどん運んできたのは、とても美人のお姉さんであった。う~ん、会長が口走っていた「素敵なおかみさん」と言ったのも、まんざらウソではなかったようだ。そのお姉さんの言葉遣いがまたよかった。「4つの鍋は、みんな違う味付けになっとるで、よろしく~」。それを受けてみんなが、「これは何の鍋?」「こっちは~?」などと言うと、お姉さんはてきぱきと、「これはポンズになっとるし、こっちは塩鍋になっとるで、間違わんように」と説明をされたのである。


若くてきれいな女性が「なっとるで(なっていますので…の意)」と歯切れよく応えてくれ、動作もてきぱきしていたので、場の雰囲気は一層盛り上がる。ではでは乾杯~! の声とともに、グイっと飲み干すビールの味は、もう、これは、いつものことながら、たまりませんでしたね~。


そこで約2時間、酒の神バッカスの信者たちの宴会が続いた。例によってタガが外れたようにくつろぎ、笑い転げ、飲んでしゃべって食べて、ダジャレを連発し、それをまた突っ込んで…と、それぞれの得意分野の能力を遺憾なく発揮し、早朝から今まで溜まっていたものをウダウダと晴らしたのである。もっとも…何が溜まっていたのか、よくわかりませんけど…

 

 


 

コメント (2)
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