僕が初めてパリの地を踏んだのは1994(平成6)年の10月16日だった。19年前のちょうど今日のことである。なぜ日まで細かく覚えているのかというと…
このとき僕は、ある組織団体の海外研修グループの一員として旅行に参加していた。僕にとっては初めて訪れるヨーロッパで、アムステルダム、ウィーン、ベルンを訪れたあと、最後にパリに入ったのである。
バスに乗ってホテルへ行く途中、コンコルド広場にさしかかった。バスが止まり、そこでガイドさんがひとこと説明したことが、今でも心に残っている。このコンコルド広場は、あの王妃マリー・アントワネットがギロチンで処刑された場所であり、その処刑日が、1793年の10月16日だったというのである。「そうです、みなさん。今日と同じ日にマリー・アントワネットはここで亡くなったのです。しかも去年がちょうど没後200年でした。今日は201年目ということになります」。それから毎年、10月16日という日が来ると、この悲運の王妃のことを思うのだ。
パリ中心部にあるコンコルド広場。ここでマリー・アントワネットは処刑された。
左側の向こうの方に、かすかにエッフェル塔が見えている。
昔、僕は遠藤周作が好きで、「沈黙」や「海と毒薬」のようなシリアスな小説から抱腹絶倒のユーモア小説やエッセイまで、ほとんどの作品を読んだ。もう一人好きな作家に北杜夫がいたが、遠藤さんと北さんは無二の親友で、テレビで2人が対談に出たときは、漫才を見ているよりおもしろいやり取りを交わしていた。
その遠藤周作が、もう30年以上も前だが、朝日新聞の日曜版(だったと思う…)に、「王妃マリー・アントワネット」という長編小説を連載していた。僕はそれを毎週楽しみにして読んだ。連載が終り、単行本になるとそれを買い、また読み直した。その頃からマリー・アントワネットには惹かれるものがあった。
それが、初めてパリに行き、最初に説明を受けた場所が王妃の処刑されたコンコルド広場であり、しかもその日が処刑日と同じ10月16日だったとは、何とも強烈な洗礼を浴びたような気がした。
マリー・アントワネットはオーストリアの女帝マリア・テレジアの末娘で、本来ならそこでお姫様として一生幸せに暮らしていたはずなのに「政略結婚」でフランスのルイ・16世のもとに嫁がされ、フランス革命の渦に巻き込まれてわずか38歳の若さでその命を絶たれてしまったのである。
彼女が住んでいたパリ郊外のベルサイユ宮殿の見学コースの中でも、人気の場所は、「鏡の回廊」と「アントワネットの寝室」だ。寝室のベッドは水平ではなく、やや上半身が起きた形になっている。ガイドさんは「この当時はまっすぐ寝ると死んだ人と見なされるので、みんな上半身を少し起こし気味にして寝ていたのです」と言っていた。へえぇ~~。
ベルサイユ宮殿の入り口。 観光客で賑わう。
宮殿内の礼拝堂。ここでアントワネットは結婚式を挙げた。
宮殿に飾られていた肖像画。
こよなくバラを愛したアントワネット。
まさに「ベルサイユのばら」ですね。
その後、僕は妻とウィーンへ旅行した。アントワネットが生まれ育ったシェーンブルン宮殿にも行った。そこには12歳の時のアントワネットの肖像があった。そのわずか数年後に、彼女はこの宮殿を去り、夫となるルイ・16世の待つパリへと向かったのである。ウィーンからパリまで、23泊24日だったというから、まあ、たいへんな時代だったんだ。
ウィーンのシェーンブルン宮殿前で。
マリー・アントワネットはここで生まれ育った。
シェーンブルン宮殿には、
彼女が12歳の時の肖像画もあった。
ウィーンを出発したアントワネットの一行が最初に泊まったのがドナウ河畔にあるメルク修道院というところだった。実は僕たちは、ウィーンから列車に乗ってこのメルク修道院にも行ったのだ。ところがその時は、アントワネットが泊まった場所とは知らずに行った。「薔薇の名前」という、ショーン・コネリーとクリスチャン・スレーターが主演し、中世の修道院で発生した連続殺人事件を修道士のショーンコネリーが謎を解いていくという映画があって、そのロケ地がメルク修道院ということで興味をそそられたのだった。マリー・アントワネットが最初に泊まったところだとは後から知った。その時に知っていれば何か発見があったかも知れないのに。残念でした~
メルク修道院は、ウィーン西駅から列車で1時間少し。
同修道院前で。
数年前、何かの映画で、マリー・アントワネットが処刑される時のシーンを見たけれど、何の映画だったかどうしても思い出せない。でも、ラストシーン、冷静で、淡々と処刑に臨む彼女の目の表情や一挙一動を、胸が張り裂けるような思いで見たことはよく覚えている。(映画といえば、ヒラリー・スワンクがアントワネットを陥れるラ・モット伯爵夫人を演じた「マリー・アントワネットの首飾り」というのも見応えがあった)。
世間知らずのお姫様ゆえに贅沢の限りを尽くし、民衆から強い反発を買った「愚かな女」のイメージを植えつけられたフシもあるけれど、彼女の生涯をたどってみると、やはり「悲運」という言葉以外に浮かんでくる言葉はない。…と、僕は思う。
ともあれ今日は2013年の10月16日。マリー・アントワネットが断頭台の露に消えた日から、ちょうど220年が経った日…ということになります。
*掲載写真について → コンコルド広場とベルサイユ宮殿関係は2008年のパリ旅行の時に撮影したもので、ウィーンとメルクの写真は2000年に撮影したものです(13年前! 懐かしいなぁ)。なお2つの肖像画は資料写真です。