僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

 御堂筋とイチョウと芭蕉と

2007年12月04日 | ウォーク・自転車

「僕のほそ道」というブログで、芭蕉のことを何度か書きました。
それどころか、「あたしゃ、芭蕉の子孫のほそ道でごぜ~ます」
などとふざけていた僕ですが、芭蕉の「おくのほそ道」には、学生時代からさまざまな影響を受けていたことは事実です。

今日はその芭蕉に関連したお話です。

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先日、仕事の関係で三重県の伊賀市役所へ行った。

伊賀と言えば、ご承知のように芭蕉の生誕の地である。「芭蕉翁生家」も「芭蕉翁記念館」も伊賀市役所のすぐ近くにある。僕はそこへ行ったことがなく、まさに絶好の機会だったのだが、あいにくその日は他の人たちといっしょだったので寄り道もしていられず、用務が終わると、そのままみんなと一緒に帰途についた。

くやしい~。

仕方なく、駅前の芭蕉の像を携帯電話で撮影して、せめてもの名残を惜しむ「旧名ほそ道」クンなのでした。


              
              伊賀の駅前の芭蕉像(11月20日・携帯で撮影)

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芭蕉は伊賀で生まれたのだが、亡くなったのは大阪の地だった。

つい先ごろ、大阪の御堂筋の名物、イチョウ並木が1年で一番美しい季節を迎えていた。御堂筋のイチョウのピークはほんの数日しかないと言われているので、僕は12月1日(土)に、ウオーキングを兼ねて大阪市内へ出かけた。イチョウを見ることのほかに、もう一つ目的があった。

穏やかな小春日和で、歩くには申し分ないコンディションだった。

葉はかなり散り始め、最も美しいとされる時期からは、ちょっと遅れたかも知れないが、それでも、視界の先の先まで黄色の連なり広がって行く鮮やかなイチョウに、御堂筋はいつもより一段と映えて見えた。

陽光に透ける黄金色のイチョウの葉はキラキラと眩しいほどに輝き、大阪の街をいつも以上に華やげていた。風に舞い、道路に降り注ぐ黄色い葉を見ると、しみじみと冬の訪れを感じるのだった。




御堂筋のイチョウ並木 (12月1日撮影・以下同じ)



このイチョウ並木の下に、芭蕉終焉地の碑が建っている。

この写真を撮ることが、今日のもうひとつの目的だった。

場所は、地下鉄本町駅のそば。南御堂(みなみみどう)の前だ。

芭蕉はこの場所で亡くなったと伝えられている。

伊賀に帰郷していた芭蕉は、門人同士のモメごとを仲裁するために大阪を訪れる。1694年(元禄7年)9月のことだ。そこで体調を崩し、10月が近くなると容態が悪化しはじめ、10月12日、花屋仁左衛門という人の屋敷で、この偉大なる俳聖は、51歳の生涯を終えた。

…とまあ、知ったかぶりをする僕であるが、正直に言うと、南御堂の真ん前の御堂筋の真ん中にこんな石柱が建っていたとは…、最近まで知らなかった。「芭蕉の子孫」が聞いてあきれる~(苦笑)。

渋滞している車の間を縫って、車線の分離帯に建てられている碑のところへ走る。しゃがみこんで写真を撮っていると、ずらりと並ぶ車の中から、じろじろと見られているような気がして、ちょっと恥ずかしかった。
 

 

御堂筋の緑地帯に、石柱がひっそりと立っている。
「此附近芭蕉翁終焉ノ地ト伝フ」とある。

 

御堂筋は、大阪の梅田から難波までの南北を貫く約4キロの幹線道路であるが、「御堂筋」という名称は、東西両本願寺別院の南御堂・北御堂がこの道路沿いに建っていることから名付けられた。

その南御堂(東本願寺難波別院)の附近に花屋仁左衛門の屋敷があり、ここが芭蕉の終焉の地となったということである。

僕はカメラを手にしたまま信号を渡り、南御堂の境内に入って行った。
ここに、芭蕉の句碑がある。

本堂の南側にこじんまりとした庭園があった。
そこに、芭蕉の最後の句となった
「旅に病で ゆめは枯野をかけまはる ばせを」
の大きな句碑が建っていた。

 *一般には「…枯野をかけめぐる」と伝えられているが、
  
ここの句碑には「…枯野をかけまはる」(芭蕉翁行状記)
  と刻まれていた。

 

南御堂の庭園。
「旅に病で ゆめは枯野をかけまはる ばせを」の碑

 

南御堂の庭園。
写真右側が「旅に病で…」の碑。

句碑の手前(写真左側)の立て札には、こう書かれていた。


  芭蕉句碑

  旅に病で ゆめは枯野をかけまはる ばせを

   この句は芭蕉の臨終の句の一つで、この大阪の地で吟ぜら
  れたものである。
   芭蕉は元禄七年(1694)秋 伊賀から門人達に迎えられて
  大阪に着いたが 滞在中に病気になり 養生のかいもなく10
  月12日この南御堂前で花を商う花屋仁左衛門の屋敷で51歳を
  一期として旅の生涯を閉じた。
   この句碑は後世 天保の俳人達によって建てられたもので
  ある。
   当南御堂では 芭蕉を偲んで毎年芭蕉忌勤修され 法要の
  後盛大に句会が催されている。
                      南御堂
                        難波別院

 

南御堂の本堂のラックに並べてあった「南御堂と芭蕉」という冊子をもらって、南御堂を出た。御堂筋のイチョウを眺めながら歩き始めると、右足の指に痛みを感じた。どうやらマメができたようだった。

時計を見ると午後1時半。
朝8時から歩き始め、食事や休憩時間を除くと4時間ちょっと歩いただけで、もう足にマメができるとは…半年余り運動不足が続いていたツケが回ってきた感じである。

う~ん。
今年は何だかんだと心身のトラブルで、ずいぶん脚力が落ちた。
芭蕉の「強さ」を見習わなければ…。

当時としてはかなり高齢の46歳で「おくのほそ道」の旅に出た芭蕉は、5年後にこの大阪で客死するのだが、このときも、当然ながら伊賀から大阪まで歩いて来ているのである。途中「暗がり峠」という奈良と大阪を遮る峻険な峠があるが、芭蕉はそこを越えて大阪に入っている。最後まで強靭な脚力は衰えていなかったものと思われる。

何をするにしても「歩く力」は重要である。

その驚異的な歩行力から「伊賀の忍者だった」…との説もある芭蕉にあやかって、僕も強い脚力を身につけたい。

「イチから鍛え直さなきゃな~」

イチョウ並木の木漏れ日を浴びながら、足のマメの痛みで今年の長かったブランクを肌で感じたけれど、よ~しガンバローと、気を入れなおして再び御堂筋を歩き出す「旧名ほそ道」クンでした。 
 

 

 

 

 

 

コメント (6)
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