僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

1969年・二十歳の原点

2009年11月19日 | 思い出すこと

前回のブログで書いた1969年という年に関して、もう少し続けたいと思います。

サザエさんも1969年に誕生した、とのコメントもいただきました。
そうそう、そうでしたねぇ (40周年記念ドラマを見なかったのが残念)。

サザエさんが始まったこの年に、映画「男はつらいよ」シリーズも始まりました。
う~ん。 1969年のことについて書き出すと、止まらない僕なのです。

6月から8月まで自転車で放浪の旅をしていたので、余計に思い入れが強いわけで…。
以前別のブログで書いたことを、またここでも書いてしまうわけで…。

  …………………………………………………………………………

このころは、若者も、社会全体も、エネルギーに満ちていたように思う。

僕の同世代の学生の多くは、このころ盛んだった大学紛争に傾倒していた。
全学共闘会議(全共闘)の学生らが1月に東大安田講堂に立てこもり、
警視庁は機動隊を導入、凄まじい攻防の果てに、学生らは排除された。

僕の大学も含めて、全国各地で大学紛争が繰り広げられていた。

また、若者の間では、ベトナム反戦運動と連動して反戦の歌が流行した。
特に東京の新宿西口広場は、フォークソング集会の若者たちで埋め尽くされ、
ここにも機動隊が導入されて、僕の旅行中の6月~7月が騒動のピークだった。

自転車で東京へ着いて新宿に泊まったのが8月だった。
西口広場は、反戦を掲げる若者のメッカとして、怒涛のように賑わっていた。

しかし、僕はそんな世の中の騒ぎなどはどこ吹く風で、
学園紛争にも参加せず、大学の講義もほどほどにサボり、
せっせとアルバイトに精を出し、お金を貯めて自転車旅行に出発したのである。

この年の最大のニュースは、アポロ11号が人類初の月面着陸に成功したことだった。
69年7月21日。 
僕は北海道・網走で、泊めてもらったお家のテレビで、その生中継を見た。

沖縄が、3年後の72年に日本に返還されることが決まったのも、この年だった。
まだ、沖縄旅行にパスポートが必要とされる時代であった。

翌年は、大阪で、わが国初の万国博覧会が開かれることになっていた。
自転車旅行中に出会った人たちも、来年は大阪へ万博を見に行きたい…
そう言って、何人もの人たちが、大阪に住んでいる僕を羨ましがった。

CMでは丸善石油の 「オー・モーレツ」 が流行した。
小川ローザのスカートが、猛スピードで通り過ぎる車の風にあおられるポスターは、
僕がこの自転車旅行中に、何十回、何百回と目にした光景であった。
仕事のため全てを犠牲にするモーレツ社員が、もてはやされていた時代であった。

流行語といえば、「アッと驚くタメゴロー」 などという言葉が大流行した。
万年筆の宣伝で 「はっぱふみふみ」 というのもあった。

電話のプッシュホンというのが、初めて登場したのもこの年だ。

そして前述のとおり、映画では「男はつらいよ」シリーズの第1回作品が上映され、
テレビでは、「サザエさん」 の放映が始まったのである。

出版界では、庄司薫の 「赤頭巾ちゃん気をつけて」 が飛ぶように売れ、
僕の好きな北杜夫の作品では 「さびしい王様」 がベストセラーになった。

歌は、シューベルツの「風」がヒットし、その歌詞は僕の旅のテーマと重なった。
また、19歳の新人、和田アキ子の 「どしゃぶりの雨の中で」 がヒットしていた。
僕は、北海道襟裳岬付近で、それこそどしゃぶりの中で自転車を走らせていたが、
そのとき、イヤホーンで聴いていたラジオでこの歌が流れたので苦笑いしてしまった。

「フランシーヌの場合」 は、新宿の 「歌声喫茶」 で聴き、思わず落涙した。

ビートルズは来日から3年経ち、グループの求心力は弱まりつつあった。
この年は「イエロー・サブマリン」ぐらいしか印象がない。
ジョン・レノンとオノ・ヨーコが結婚式を挙げ、翌70年にビートルズは解散した。

そんな世相の中で、僕は20歳の夏を、自転車の旅の中で過ごしていたのだった。

「二十歳の原点」 という言葉がある。
僕たちの世代では、知らない人はいないほど人口に膾炙した言葉であるが、
これは、高野悦子さんという女性が書いた日記の題名であり、
1970年代の始めに出版されて、超ベストセラーとなった。
「二十歳の原点」という言葉は、それ以降、普通名詞になった。

成人した人たちは、誰でも自分の二十歳の原点を持っている。
青春の真っ只中にあって、大人としてのスタートでもある二十歳。

皆さんは、二十歳の頃を、どのように過ごされたのだろうか?
僕の二十歳の原点は、この自転車旅行そのものであった。
混沌、無計画、成り行き任せの青春グラフィティ…といえば聞こえが良すぎる?

「二十歳の原点」 を書いた高野悦子さんは、1949年1月2日生まれだった。
僕が1月9日生まれなので、ちょうど1週間前に彼女が生まれたことになる。

栃木県那須の人だったが、京都の立命館大学に入学した。
69年に全共闘の運動に参加し、その中で大きな挫折を味わう。
アルバイトで生活費を捻出するが、アルバイト先で失恋をして、
深い疲労感とともに、絶望の淵に沈んでゆく…。 

そして彼女は、69年6月24日、列車に身を投げて20歳の生涯を閉じるのだ。

6月24日…。 この日は、僕は自転車旅行で新潟にたどり着いた日である。

その後、彼女の下宿から10数冊にも及ぶ大学ノートに綴られた「日記」が発見された。
それらは父親によって整理され、栃木県の同人誌に掲載されて大きな反響を呼び、
1971年に大手出版社から 「二十歳の原点」 と題して刊行された。

これが大ベストセラーとなったのである。

この本の中で、彼女の1月15日の成人の日の日記に、
「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」
…そう書かれていた。

 ~ 独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である ~

同じ年の同じ月に生まれ、1969年・20歳の夏、僕が自転車旅行をしている時に、
貨物列車に身を投じた彼女が、その年の1月の成人式の日に記したこの言葉…。

40年後の今でも、忘れられない言葉である。

 

 

 

 


 

コメント (10)
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