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 僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

鳥取・倉吉のこと

2016年10月24日 | 思い出すこと

鳥取県で最大震度6弱の大きな地震が起きてから数日が経つ。
その後も震度1以上の揺れを観測した地震は、
今朝のニュースでは200回前後に及ぶという。
被災地の皆さんの不安はまだ続きそうである。

地震が起きた時、僕のスマホでも警報がけたたましく鳴った。
テレビでは「ミヤネ屋」がかかっていたが、
「あ、今揺れました!」と司会の宮根が声を上げた。

僕たちの場所は震度2で済んだけれど…

最も大きな揺れが観測されたのが鳥取県の倉吉だった。

倉吉…といえば、この夏休みに家族旅行したばかりである。
行ったのは7月下旬だったけれど、旅行へ行くその前日に、
お隣の島根県で地震が発生して、少し怖かったのを思い出す。
そのころから、今回の地震の予兆があったのだろうか?

あの時は、倉吉駅へホテルのバスに迎えに来てもらい、
羽合温泉というところで2泊し、モミィも海水浴を楽しんだりした。
3日目には鳥取市内や砂丘を見物して、楽しい思い出となった。

その鳥取も、昨日の朝日新聞の1面に、
「鳥取 観光に打撃」と大きく書かれてあった。
地元の三朝温泉などのホテルはキャンセルが相次ぎ、
ホテルの人は、
「これからのカニの季節に打撃が大きい」と嘆く。

特産のナシの農家も大きな被害を受けたという。

復旧作業も大変なことだと思いますが、
一日も早く元に戻ることを祈るばかりです。

 

 

  

 
倉吉駅北側の「お倉」と「お吉」の像の前で(7月29日)

 

 

 

 

 

 


 

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韓国人もびっくり ワサビ寿司騒動

2016年10月06日 | 思い出すこと

つい半月ほど前に、なんばの道頓堀周辺のことについて書きましたが、
そのなんばの「市場ずし」という店で「ワサビ騒動」が起きましたね。
ネット上のみならず、新聞・テレビ等でもこの騒動が報じられました。

この寿司店では、外国人観光客(特に韓国人)に対して、
わざと大量のワサビを寿司にはさんで出していたという話です。

もともと韓国人観光客らはワサビを多く要求するので、
それに応えての「ワサビ増量サービス」をしたつもり…
…と市場ずし側は弁解しているようだけど、
あの寿司の写真を見たら「増量」というより、
「ええい! これでも喰らえ!」
みたいなほど、ワサビの量がめちゃくちゃに多すぎる。
新聞などが言う「2倍の量」どころではない量に見える。

どうせ店員の1人か2人の個人的な仕業だと思うけれど、
これがネットで拡散して、韓国ではかなりの問題となり、
あるニュースサイトでは「韓国人にワサビテロ」との見出しで、

韓国人観光客を対象にした反韓の動きがわかり、
韓国国内の反日感情が高まっている。

…と大きく伝えられているそうだ。

こんな出来事があると、大阪人として恥ずかしいですが、
だからといって、まるで日本人全体が反韓である…とか、

これよって韓国国内の反日感情が高まっている…な~んて、
まるで外交問題のように取り上げるのもどうかと思いますけどね。

で、市場ずしとしては、今後はワサビを別に添えます、とのこと。

だいたい、くら寿司などの回転寿司では、子供たちも多いことから、
どれもワサビは入っておらず、別添のワサビを自分でつけるのである。
外国人がそれだけワサビの量にうるさいのだったら、
好きなだけ自分でつけるよう添えておけばいいわけで、
もっと早くからそうしておけばよかったのにね、と思う。

それにしても、韓国人は本当に辛いのが好きなようだ。

僕自身は別に辛い物が好きなわけではないけれど、
今回の「ワサビ騒動」のいきさつを見ていると、
わが人生で最も辛い物を食べさせられた韓国旅行を思い出す。

40歳前後の頃、韓国語を勉強して「語学修行」に行った時のこと。
往復の飛行機の切符だけを持ち、宿の予約も何もせずに出かけた。
釜山に1泊し、慶州へ行って2泊。さらにソウルへ行き3泊した。

そのうちの、慶州(キョンジュ)での出来事だった。
天馬塚(チョンマチョン)という古墳公園を見物した後、
1軒の小さな食堂へ入った。そして冷麺を注文した。
冷麺は韓国語でネンミョンという。
店のおばさんに「ネンミョン・ジュセヨ」と注文する。
しばらくして、それが運ばれてきた。
冷たいスープに麺が入っている水冷麺だ。

これが、後にも先にも、「こんな辛いもん食べたことない」
という、すさまじい辛さであった。それでもなんとか食べた。
顔や頭から汗が噴き出たし、口の中が焼けつくようだった。
25年以上たつ今でも、まだ、その辛さが忘れられない。
いや~、ホントに辛かったのなんのって。

ひょっとして「日本人よ、これでも喰らえ!」
と、店の職人がわざと辛くしたのだろうか…
…と、今回の騒動をみて、ふと思ったりした。
むろん、そんなことはないでしょうけど(笑)。

ま、それだけ韓国人は辛いモノが好きだということでしょう。
でも、今回、写真で見たあのワサビの量はねぇ。
あまりにもえげつない量でしたね。

 


  

 
いくら辛いのが好きだと言ってもね~

さすがの韓国人もびっくり…?

 

 

 

 

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1着2着はどうでもいい!

2016年08月10日 | 思い出すこと

連日オリンピックで生活リズムが狂う…という人も多いだろう。
夜の競技を見ようと思ったら、午後10時頃から真夜中まで続き、
柔道などの決勝は、朝の3時か4時ぐらいから始まるんだから。

朝まで起き続けているわけにもいかないしねぇ。

僕も昨夜は女子卓球の福原を見てから寝たので、
今朝は5時過ぎまで寝てしまったけれど、
朝一番に見たのは、男女とも決勝に進めなかった柔道だった。
「なんやこれは。早起きすることもなかったなぁ…」
な~んて、ぶつぶつ独り言を言ったりしてました。


世間はそんなオリンピック一色の毎日なので、
このブログで観戦記や結果の感想などを書いても、
他の人たちと同じような話ばかりになるので、
そういうことは、この際、書きません。

ただ、一つだけ、たぶん誰も書かない話があります。
それについて、今日は、ふれてみたいと思います。
(ナンだか、もったいぶっていますけど…)


今日、日本が競泳男子800メートルリレーで3位に入り、
52年ぶりに銅メダルを獲得したことはご承知のとおりです。

この52年ぶり…というのは、これもご承知のとおり、
1964年の東京オリンピック以来…ということである。
東京大会以来の800mリレーのメダルということだ。

その52年前の東京五輪は、僕が高校1年生の秋に開催された。

この時、日本は金メダル16という素晴しい成績をおさめた。
もっとも、銀は5で銅は8。メダル総数は29個だった。
前回のロンドン五輪はメダル総数が38だったので、
メダルの数だけ言えばロンドンのほうが多い。

しかし、ロンドンは金が7、銀が14で、銅が17である。
金メダル数は東京の半分にも達しない。やはり金がいい。

今回のリオも、「メダルラッシュ」とは言うが、
ほとんどが銅メダルで、金は現時点では3つである。

今後、やはり日本選手が金メダルを獲るシーンを見たい。


…さて、話は52年前の東京五輪に戻る。

この時、日本は柔道や体操などで金メダルを量産したものの、
水泳は、まったく振るわず、最終日まで一つのメダルもなかった。
(銅メダルひとつも、獲れていなかったのです)

そんなことで…
陸上に次いで人気競技だった水泳の不振に、僕たちは不満だった。

そして、水泳の最終日、最後の最後に行なわれたのが、
男子の800メートルリレーだった。

ここで、日本は奇跡の銅メダルを獲得したのである。

その時のテレビ中継を、僕は今でもはっきり覚えている。

第1泳者から第2泳者、第3泳者とつなぎ、
先頭はアメリカとどこか(国は忘れた)の国だった。
この2チームが、3位以下を大きく引き離していた。

しかし、3位争いは、まことに激烈であった。

最終の第4泳者につないだとき、
日本はわずかに3位をキープしていた。

会場は日本の応援団で割れんばかりの声援に沸きかえり、
NHKのアナウンサーは「ニッポン、初のメダルなるか!」
と絶叫する。見ているほうも、手に汗を握る。

いよいよ最後の50mになった。
そのとき、アナウンサーがこう叫んだ。
「もう1着2着はどうでもいい!」
そして、ひたすら「ニッポン、ニッポン」と叫び続けた。

それを見ていた僕の両親も、

「そや、よその国はどうでもええねん!」と叫び、日本を応援した。

そしてついに日本が逃げ切って、銅メダルを獲得したのである。

それ以来、水泳の800メートルリレーと言えば、
「1着2着はどうでもいい!」
というアナの絶叫を思い出していた僕である。

そして今日の800mリレー。
アメリカがダントツにリードする中、
日本は最終泳者まで2位をキープしていた。
強豪のイギリスとオーストラリアが迫ってくる。

両者に抜かれたら、日本は4位に落ちる。頑張れ~!

このレースの実況を、スポーツジムのテレビで見ていた僕は、
胸を震わせながら、心の中でメダル獲得を祈った。

そして、日本は最終泳者の松田が踏ん張り、
イギリスには抜かれたものの、オーストラリアを制し、
見事に3位に入って、銅メダルを獲得したのである。

「52年ぶりです! この種目、52年ぶりのメダルです!」

と、アナウンサーが叫ぶのを聞いて、
僕の心の中にあった52年の歳月が溶けるような感覚だった。

まさに今回も、1着2着はどうでもいい…の心境だった。
日本が3着にさえ入ってくれたら、という思いしかなかった。

ジムのテレビを眺めながら、「よしよし」
と、一人うなづいていた僕でした。

…という話でした。

それにしても…

52年前のことを、今でも鮮明に覚えているわりには、
最近は、昨日の出来事もすぐに忘れてしまいます(トホホ)。

「そんな話は、どうでもいい!」

…と、言われそうですけどね。

 

 

 

 

 

 

 

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「日本最北端」はどこ?

2016年05月08日 | 思い出すこと

2、3日前のテレビのクイズ番組で、
日本の南端から北端までタクシーで行けば100万円を超えるか?
…という問題が出ていた。「そら、超えるやろ」と僕は思った。

島を除く日本の本土最南端の鹿児島県佐多岬から、
最北端の宗谷岬までタクシーでいくらかかるか?
…という問題で、そのあと、実際にスタッフが
佐多岬からタクシーに乗り、最北端まで行った。
(テレビ局というのはメッチャ金を使うんだ

最初の料金メーターは570円と表示されていた。
そこから…

高速道路を利用して、6時間後には関門海峡に着いた。
意外と早い。この時点で料金は、11万7千円だった。
そして山陽道を行き、兵庫県から日本海側の福井へ出て、
北陸、東北と走り、青森から青函フェリーに乗った。
最北端の宗谷岬に着いた時は、出発してから数日が経っていた。

その代金は…
総距離 2,700キロ。高速代やフェリー代も含めて、

77万1,650円だった。

う~ん。100万円は超えるだろうと思ったけどなぁ。

それにしても宗谷岬の映像はなつかしかった。
「日本最北端の地」の碑がテレビに映る。
さらに出発地点の佐多岬も思い出の地だ。

佐多岬にも、宗谷岬にも、自転車旅行で行った。

 

 

    

   
       30歳の時でした。

    
      そしてその10年前

 

    


最北端の碑は、現在は新しくなっています(ネットから)。

  

 


ところで、宗谷岬の碑には、今も昔も、
「日本最北端の地」
と記されているけれど…。
モミィの社会科の教科書には、日本の最北端は
「択捉(エトロフ)島」と書かれている。
子供たちは皆、そう教えられているのだ。

折しも安倍首相がロシアを訪問した直後でもあり、
北方領土問題は僕たちにも関心の深い問題である。

北方四島はあくまでも日本に領有権があるのだから、
正確に言えば、宗谷岬は「本土最北端」だろう。

ロシアがこの碑を見ると、
「ほら見ろ、自分たちもここが日本最北端と認めてるじゃないか」
…と言われる材料になりそうだよね(もう言われているのかな?)

僕は宗谷岬のこの碑の文を、
思い切って「本土最北端の地」に
変えた方がいいんじゃないかなぁ
…と、思ったりするんですけどね~

「日本最北端」と言ったほうが、
言葉の響きはいいですけどね。


ちなみに、そのクイズ番組ですが、
宗谷岬までタクシーで行ったスタッフは、
またそのタクシーに乗って佐多岬まで戻るそうです。
まあ、そこで乗り捨て、というわけにはいきませんしね。

ホント、テレビ局ってお金があるんだなぁ…と、つくづく。

 

 

 

 

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歌声喫茶「ともしび」

2016年03月31日 | 思い出すこと

いま、3月31日の夜です。

テレビ大阪で、
「あなたの想い出が蘇る昭和のヒット曲」
という歌謡番組が流れています。

そこで、出演者たちの間で、突然…

「当時は歌声喫茶というのが全盛で、特に『ともしび』」は有名でしたね」
…という話が飛び出しました。

番組に出ている尾木ママが、
「懐かしいです。私もどれだけ通ったことでしょう」と言っていました。

そして当時(昭和40年代)の新宿のその歌声喫茶の様子が映ったのです。

昨日のブログで「灯(ともしび)」のことを書いたばかりだったので、
わっ、すご~い偶然! と…
びっくりしたので、ちょっと書き加えました。

それがどうしたん? 
…と言われそうですけどね。
本当に、びっくりしたので…。


       


さて、明日から4月。新年度ですね。
かつては、人事異動の内示を受けたりして、格別の思いが詰まる日…
…でしたが、そんな日も、僕にとっては、今は昔の物語になりました。

みなさま、どうぞ“よい新年度”をお迎えください。 

 

 

 

 

 

 

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フランシーヌの場合

2016年03月30日 | 思い出すこと

3月30日といえば…
「フランシーヌの場合」という歌を思い出す。

フランシーヌの場合は
あまりにもおばかさん
フランシーヌの場合は
あまりにもさびしい
三月三十日の日曜日
パリの朝に燃えたいのちひとつ
フランシーヌ~


1969年(昭和44年)の3月30日。
パリで1人の若い女性が亡くなった。
シンナーをかぶって焼身自殺したのだった。

自殺した場所が、ベトナム戦争をめぐって開催中の
「拡大パリ会談」会場近くの路上だったことと、
ビアフラ飢饉で死んでゆく子供たちの写真を
身につけていたことから、抗議の自殺と思われた。

これが、ある新聞にベタ記事として載った。




そんな、ごく小さな記事に目にとめた作曲家の郷五郎と、
作詞家のいまいずみ・あきらが、「フランシーヌの場合」
という曲を作ったのである。歌手は新谷のり子。

事件からわずか3ヶ月後(同年6月15日)に発売され、
その後、80万枚という大ヒットとなった…。

…ということは、すべて、あとから知ったことだった。


僕はこの年、20歳で、この曲が発売された6月に、
自転車での北海道往復旅行へ出発した。

もちろん、フランシーヌの事件のことは知らなかった。

そして、その約2ヵ月後、旅行も終盤となった8月の中旬、
僕は東京で、旅行中知り合った人の寮で数日間滞在していた。

ある夜、新宿の街の中を一人でブラブラしていた僕は、
ガイドブックを見ながら、歌声喫茶に行くことにした。
「灯」という店に入って、2階席に座り、飲物と軽食を注文した。
(驚いたことに、ネットで見ると今もその『灯』はありました)

   http://www.tomoshibi.co.jp/sinjyuku/


中央にステージがあり、ギターを片手に歌っていたのは、

本物の歌手なのか歌手の卵なのか素人なのか知らないけれど、
客席から、曲に合わせて大合唱が起こったりしていた。
こんな場所に来たのは、生まれて初めてのことだった。

そして…何曲かのあと、
ひとりの女性がステージに出てきて、
「フランシーヌの場合」を歌ったのだ。

その歌を聴いたとき、胸がジーンと熱くなった。

これまで聴いたことのなかった歌なのに、
涙が出るほど、心を揺り動かされたのだった。


 

今でもこの歌は、頭から離れない。

3月30日になると、
「さんが~つ さんじゅうにちの~ にちようび~」
という歌が、自然に口をついて出てくるのである。


今日は、その3月30日である。

フランシーヌのことがあってから、47年が経った。
今ではもう、誰もこの歌を歌わないけれど、
僕の心の中では、永遠に響き続けている。
自転車旅行の、思い出とともに。

 

 

 

 

~ フランシーヌの場合~   新谷のり子

https://www.youtube.com/embed/2dah_5_6gPs?feature=player_embedded

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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N からの電話

2015年11月18日 | 思い出すこと

昨晩、学生時代からの友人のNから電話がかかってきた。
最近は長い間会っていないし、電話も1年ぶりぐらいである。

Nは「今日、喪中のはがきが届いたけど…」と切り出し、
「お母さん、亡くなられたんやね。…それはどうも」
…と、弔意を表してくれた。


Nとは大学入学時にオリエンテーションを受けているとき、
たまたま僕の前に座っており、それがきっかけで交友が始まった。
よくわが家に遊びに来ていたので、うちの母もNをよく知っていた。

僕が結婚しても、Nはわが新婚家庭へ邪魔をしに来た(笑)。
お酒を飲んでわいわい騒ぎ、そのまま泊まっていく時もあった。
(酒飲み2人の相手をしてくれた妻には苦労をかけました)

僕が結婚した時、Nは披露宴で友人代表スピーチをしてくれた。
その数年後、今度は彼の結婚披露宴の時に、僕は司会をした。

それから、今度は家族ぐるみの付き合いが始まり、
定期的にお互いの家を訪問し合い、お酒を交わし合った。
Nも、彼の奥さんも、うちの息子たちを可愛がってくれた。
やがてN夫妻にも女の子が誕生し、遊びに行くと喜んでくれた。

それから20数年が経ち、その女の子(A子ちゃん)が結婚した。
その結婚披露宴の席で、僕は来賓の祝辞を仰せつかった。

Nの結婚披露宴の司会をしたのがついこの間のことのようで、
20数年の年月の流れる早さには、驚くばかりだった。

そのA子ちゃんから、今でも毎年年賀状が来るのだけれど、
今年は息子さんたちの、柔道着姿の勇ましい姿が写っていた。
(来年のお正月、年賀状をもらえないのは寂しいなぁ)


「A子ちゃんや、孫さんたちも、元気そうやねえ」と、
Nとの久しぶりの電話での会話で、まずその話をした。

それから、お互いの日常生活について近況報告をし合った。
そして、Nは「そろそろ身辺整理もしなければなぁ」と言った。

なるほど、身辺整理かぁ…。
実は僕も、それが今かかえている課題なのだ。

僕自身も、山ほどある写真や、ずっと書いてきた日記類や、
読書ノート、昔々の自転車旅行記やマラソン日記、
それに、妻との海外旅行を写真と文章でまとめた旅行記など…

中には、僕が北海道自転車旅行中に妻に出した手紙などもある。
20歳の時に、今の妻に当てた手紙をざっと読み返すと、
顔から火が出るほど恥ずかしい。

大阪へ帰り、結婚するまでの間も、僕は妻に手紙を書き続けた。
それを妻がファイルに綴じていて、結婚後、僕に見せた。
だから、そういうものもわが家にあるわけだ。


そういう思い出深い物が、人にはいろいろとあるんですよね。
でもそれらは、いつかは整理しなければならない。

Nが「身辺整理をしなければなぁ」というのも、よくわかる話だ。

ただ、僕は何でも書くことが好きなので手紙や日記が多くある。
でも、Nはそれほど日記を書いたりしていた様子はない。

「身辺整理って、どんなものがあるの?」と僕は尋ねた。
「そうやなぁ、写真とか…他にもいろいろとねぇ…」
…とNは何やら考えながら話を続けるのだが、
突然、こんなことを言ったのである。

「あんたからの手紙も、沢山あるねん」

はぁ? 僕がNに送った手紙が沢山あるって…?
またそれを、今の今まで手元に置いていたわけ…?

「ホンマかいな。いつそんな沢山の手紙を送ったんや」と僕。
「何言うてるねん? 大学の時からず~っとや」と彼は続ける。
「旅行先からの手紙やら海外からのハガキやら、
 その外も何やらかんやらと…いっぱいあるで」

僕はそれを受けて、
「あのなぁ、なんでそんなもん、残してるねん。
 さっさと捨てたらええがな。もっと大事なもんのこと考えや」
と、伝えたことは言うまでもない。

「捨てるのもなぁ…」とまだNはブツブツつぶやくように、
「なんか悪いような気がして」と言いながら、
「これ、全部あんたに返そか?」なんて言い出した。

「いらんわ」

もちろん、断った。いらんいらん。そんなもん。
「身辺整理」の話が、とんでもない話に発展した。


…まあ、昨晩は、そんな会話を交わしながらの長電話だった。

Nよ。改めて言います。僕の手紙など、さっさと捨ててください。

と言っても…

パソコン嫌いのNは、このブログの存在も知らないしなぁ。

 

 

 

 

 

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今いくよさん のこと

2015年06月01日 | 思い出すこと

20代の半ばから後半にかけてのころ、
数人の飲み友達と一緒によく飲み歩いた。

幼い息子が2人いたが、子育ては妻に任せっきりで、
仕事が終わってまっすぐ帰るということは少なかった。
(ただ、息子たちや自分の弁当だけは僕が作っていたが)

今から思えば、家事と育児で妻も大変だっただろう。

仕事を離れてから、家事の大変さがよくわかったし、
子育ても、モミィがいるので、これまた大変だと知った。

わかるのが遅すぎましたけど、まあ、遅まきながら、
今は日々の料理や洗濯やゴミ出しなどは僕が“担当”して、
モミィの世話をする妻の負担を少しでも減らすよう努力してます。

罪滅ぼし…というやつですよね(笑)。


さて、その20代半ばから後半の頃のことです。

ある日、飲み仲間とミナミへ行ってワイワイ飲んでいた。
2軒目か3軒目か忘れたが、ラウンジ風の店に入った。
僕には初めての店だったが、仲間の誰かが知っていた店だった。

店の女性がひとり、僕らの中に入って話し相手をしてくれた。
細身でやや厚化粧だったが、美人系で、声がハスキーで、
言動がハキハキ・堂々としていて、楽しい女性だった。

僕は、飲んだらおしゃべりで人を笑わせるのが得意で、
その時も、その面白い女性と漫才みたいな掛け合いをした。

大阪や京都では、相手のことを「自分」と呼ぶ風習があり、
「あんた、昨日どうしてたん?」を、大阪・京都では、
「自分、昨日どうしてたん?」というふうに言う。

そこで、その女性は、僕の話にゲラゲラとお腹を抱えて笑い、

「ちょっとぉ、自分、なんでそんな面白いの!」

と言って、僕の肩をポンポンとたたいた。

その仕草や物言いが、漫才師のような雰囲気だった。
そのあとも、彼女との他愛のない話で盛り上がった。


その女性が「今いくよ・くるよ」のいくよさんだと知ったのは、
それからしばらく経って、テレビで彼女を見た時だった。

びっくりした。

忘れもしない…ハスキーボイスで細い体、厚化粧…
何より、しゃべり方で、同じ人だとわかった。

「ちょっとぉ、自分、なんでそんな面白いの!」

舞台でくるよさんを相手にしゃべるいくよさんは、
まさに、それと同じしゃべり方であった。

ラウンジで会った頃は、まだ売れていなかった頃だった。
だから、まさかプロの漫才の人だとは…誰も知らなかった。

いくよさんがなぜラウンジにいたのかも、よくわからない。

漫才だけでは生活ができないということで、
アルバイトのようなことをしていたのかも知れない。

あるいは、店の経営者のような人と知り合いで、
遊びに来たついでに店を手伝っていたのかも…。


…もう40年近く前の話である。

先月28日、そのいくよさんが亡くなられた。
67歳。 僕よりひとつ年上である。

昨日の夕方、NHK総合テレビで、
「いくよくるよ漫才 傑作選りすぐり3本」というのを見た。

見て、笑いながらも、すこし涙ぐんでしまった。

「ちょっとぉ、自分、なんでそんな面白いの!」

…と彼女に肩をたたかれたことが、ついこの間だったような気がする。
いくよさんに「面白い」とほめてもらったことは、僕の自慢でもある。


僕があの世へ行ったら、また、いくよさんにほめてもらえるよう、
修業を積んでおきますので、またその時はよろしくお願いします。


心よりご冥福をお祈りします。

 

 

 

 

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大好きだった歌と映画と ♪

2015年05月24日 | 思い出すこと

昨日の記事に関連しまして…

「魅せられて」

この歌は、ほんと、大好きなのです。

 

 

 


今から36年前の1979(昭和54)年に流行った歌ですが、
この年には、ほかにも好きな歌が2曲ありました。

ひとつは、八代亜紀の「舟唄」。いいですねぇ~、あの歌も。

お酒はぬるめの燗がいい
肴はあぶったイカでいい
女は無口のひとがいい
灯りはぼんやり灯りゃいい~

八代亜紀の歌の中で、最も好きな歌です。

日本酒を飲んでいるときには、ふとこの歌が口をついて出ます。
モミィが聞いたら、「ぬるめのカンて何やのん?」と言われそうですが。

もうひとつは小林幸子の「おもいで酒」

無理してぇ飲んじゃ いけないと~
肩をやさしく 抱きよせた~

これもいい歌でしたね~
(なんだか…お酒の歌ばかりですけど)

去年のことですが…
仲間たちとある居酒屋へ飲みに行ったところ、
注文を聞きに来た女性が小林幸子そっくりだったので、
「おネエさん、よく似ていますねぇ」と言ったら、

その女性は「おもいで酒」の節回しで、
「うふっ。♪ 無理してぇ~……飲んでねぇ」

…と口ずさんだので、みんなで大ウケしたことがありました。


ところで、僕の好きなこの3曲は、前述したように、
すべて1979(昭和54)年に流行した歌でした。

その年の紅白歌合戦はその3曲が入っていたので特に楽しめました。

ジュディ・オングは元々歌手じゃなかったので、これが紅白初出場。

小林幸子も、後に「豪華衣装」で紅白の顔とまで言われましたが、
この「おもいで酒」が、紅白の初出場でした。
もちろん衣装もシンプルで、あの頃の彼女が一番よかったですね~

そして紅組のトリ、それも大トリで八代亜紀が「舟歌」を歌いました。
とても印象に残ったこの年の紅白歌合戦でした。


さて、話は映画のことになりますが…

高倉健さんの「駅」という映画で、忘れられないシーンがありました。
居酒屋の女将の倍賞千恵子と2人で、テレビの紅白歌合戦を見る場面。
まったく一言のセリフもなく、テレビの音声だけが流れるシーンです。

そこで流れてくるのが「魅せられて」と、
「おもいで酒」と「舟唄」の3曲でした。

僕の好きな歌ばっかりやん…と初めてこの映画を見た時、驚きました。

「魅せられて」と「おもいで酒」が流れているときは、
健さんも倍賞さんも、じっと黙ってテレビを見ているだけ。

最後に「舟唄」が流れた時、健さんが倍賞さんの肩にそっと手を回し、
少し間を置いたあと、倍賞さんが切なさそうにその手を握り返します。
テレビでは「舟唄」が流れ続ける…。

まさに胸が熱くなるシーンでした ↓

  
この時、2人の視線はテレビの紅白「舟唄」に向いています。


昨年、高倉健さんが亡くなった時、このブログで、
健さんの映画の中で一番好きなのは「駅」だと書きました。

中でもこの、黙って2人で紅白を見るシーンが最高でした。

あぁ、よかったなぁ…

 「魅せられて」から、話がだいぶ曲がりくねってしまいましたが…。

 

 

 

 

 

 

 

 

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国際基督(きとく)教大学??

2015年04月05日 | 思い出すこと

   佳子さま 可愛いですね~

   

 

佳子さまがICU(国際基督教大学)の入学式に
出席された時のニュースを見たほとんどの人は、
その清楚な美しさに目を細められたことと思います。

なかなか皇室からこれほどの容姿の女性は現れにくいですね。
(ご無礼を!)

今、芸能界はアイドルグループ全盛ですが、
数が多いだけで、どれもこれも似たような顔ばかり。
これぞ美少女…というのは見当たらない(こりゃまた失礼!)。


佳子さまは、容姿だけでなく、一挙一動も優雅ですよね。
人に対する気配りも行き届いているように見えます。
入学式の折のインタビューも素敵でした。
「気品に満ちた」という形容がぴったり。
まさに日本のプリンセス!

今、最も好感度の高い女性!
というふうに言ってもいいと思います。


…そこで今日の話題なのですが、ほとんど余談みたいなもので、
佳子さまが入学されたICUという大学に関することです。

ICUと言えばなんだか病院の「集中治療室」みたいですけど。

集中治療室は英語では Intensive Care Unit で、
それを略して「ICU」と呼ばれるのですが…

国際基督教大学は、International Christian Universityで、
これも頭文字を並べると「ICU」ということになります。

ちなみに、わが家の近くに「IBU」という大学がありますが、
これは、International Buddhist University。
キリスト教ではなく仏教で、四天王寺大学です。
まあ、この話とは何の関係ありませんけど。


どんどん話が逸れていき、すみません。
何しろ、全部余談みたいなものですので…


元に戻して、国際基督(キリスト)教大学のことです。


以前、東京平河町の砂防会館で、
著名人たちの講演を聴いたことがあります。
そのときのことです。

最初の講演が終わり、次は評論家の大宅映子さんでした。

大宅さんが登場する前に、司会者から、
大宅さんのプロフィールの紹介がありました。

司会の女性は、服装のセンスといい、落ち着きといい、
端正な顔立ちといい、言葉の歯切れのよさといい、
いかにもプロ中のプロ、という雰囲気を漂わせ、
僕もその姿に見とれながら聞いていたのですが…

司会女性は資料を手にしながら、
「大宅先生は、国際キトク教大学を卒業され…」
と言ったのです。

ん…? キトク教大学…?

すぐに手元のレジュメを確かめたら、
「国際基督教大学卒業」と書いてある。

まあ、そのまま読めば確かに「キトク」ですけどね~

集中治療室と同じICUを「キトク」と言うのは、
「危篤」を連想させ、いくら何でも、怖すぎまっせ~

いかにも教養に満ち溢れていそうな司会者が、
「基督」をそのまま「キトク」と読むとは…

間違ったのも気づかぬようで、司会者は舞台から姿を消し、
入れ替わりに大宅女史が出てこられて講演が始まりました。

大宅女史は、厳しい表情で壇上に立ち、
キリッとした鋭い目つきで聴衆を見回しました。

そしてひとこと、
「あたしの卒業したのはキトクではなく、キリスト教大学です!」
って言うかな…? と、思ったんですけど、ノーコメントでした。


講演の終了後、再び登場した美貌の司会者は、
笑顔を浮かべ、ゆったりとした動作で資料を広げ、

「ではもう一度、大宅先生のプロフィールをご紹介いたします」

と、さっきと同じように資料を読み、
そして「その部分」にさしかかると、
「大宅先生は国際キリスト教大学を卒業され…」
と、今度はちゃんと正しい読み方をし、
どこまでもなめらかに、さわやかに、
再度のプロフィール紹介をしたあと、
悠然と舞台から姿を消しました。


てっきり「お詫びと訂正」をするのかと思った僕は、
彼女が何食わぬ顔で二度目の紹介をしたことに対し、
改めてプロ根性を見せつけられた思いでした。

もっとも、お詫びと訂正を告げたら、
気がついていない人にまで、知られてしまいますからね。

まあ、さすがに、これぐらいの神経がなければ、
プロの司会者なんて務まりませんよね。


佳子さまのニュースで「国際基督教大学」と聞き、
ずいぶん以前の、そのことを思い出した次第です。


では皆様、良い日曜日をお過ごしください。

と言いましても、大阪は今(午前7時現在)、雨ですけど…

 

 

 

 

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写真を付け加えます

2015年03月15日 | 思い出すこと

被災地の名取市を歩いたとき、多くの写真を撮りました。
11日のブログでは、その一部を掲載させていただきました。

被災地から遠く離れた所にお住まいの方々に、
少しでも当時の惨状を知ってもらえたらと。

いただいたコメントを拝見しまして、やはり、
このことは決して忘れてはならないと、改めて肝に銘じました。


今日は、少し角度を変えた写真を付け加えておきたいと思います。

 

  
   仙台空港アクセス鉄道は、内部がほぼ壊滅状態に。
   全線が開通したのは10月1日でした。

 

 
  がんばっぺ! 北釜!! アルバム等集積所』の看板。
   名取市に北釜という地区があることは、後から知った。
  

 

 
  

   見渡す限り、人影はない。これも異様な光景だった 

 

 

 

 
   これは仮設住宅か。

 

  
  閖上大橋が近づいてきたところ。
  看板を見て「進入禁止」は車だけだと思っていたが、
  ずんずん歩いて行くと、閖上大橋の手前で、
  歩行者も「通行禁止です」と警官に
言われた。
  今から考えてみれば、当然のことだったが…

 

 

 

 

 

 

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結婚記念日と「1年半待て」の不思議な関係

2015年03月07日 | 思い出すこと

いきなりで恐縮ですが、今日は僕たちの結婚記念日です。

ちょっと恥ずかしいですけど、
昔のことを振り返ってみます。


20歳の時の70日間大阪⇔北海道自転車旅行の出発の日、
雨の中を見送ってくれた彼女と離れるのがつらかった。

彼女とは速記学校で知り合い、ま、今ふうに言えば、
「友だち以上、恋人未満」というような間柄だった。


旅を終え、大阪に帰ればまた彼女に会える…
そんなことを考えながらペダルを踏んでいた。

行く先々から、その日の出来事を手紙に書いて出した。


8月末に無事大阪に帰り着き、彼女と会った。

僕はその時、まだ大学3年生だった。
彼女の方は兄の病院で事務を執る社会人だった。

数日後2人で、僕の生まれ故郷の京都へ遊びに行った。


京都の知恩院のベンチに腰掛けて、
僕は彼女に、心の中を打ち明けた。

自転車旅行中に、すでに彼女と結婚したいと考えていた。

それを伝えたら、旅先からの僕の手紙の様子で、
そのことは何となく感じていた…と彼女は言った。

「じゃぁ…」と、僕はちょっと緊張して、
「1年半、待ってくれますか?」と言った。

大学卒業まで、あと1年半残っていた。
卒業したら結婚してください…という
いわゆるプロポーズである(あぁ、恥ずかし)。

彼女は微笑んで、うなづいてくれた。


それだけのやりとりだった。

あとは、知恩院のベンチに座ったまま、景色を眺めていた。


僕がまだ世間を知らない20歳の学生ということで、
当然、僕や彼女の両親・親戚らに反対されたけれど、
その反対も、それほど強いものでなかった。


そして1年半が経ち、卒業式の直前に結婚式を挙げた。

ただでさえ若く見られていたので、式場で、
新郎の控え室にいたら、係の女性が来て、
「まあ、可愛いらしい新郎さんですこと」
と言われたことを、今も思い出してしまう。


…そういうことで、「1年半待ってくれますか?」
という言葉が、僕たち夫婦の出発点となりました。


ところで、去年だったか、テレビのBSで、
「松本清張特別企画ドラマ」という再放送があって、
たまたま番組欄を見ていて目に付いたそのタイトルが…


「1年半待て」


というものだったのだ。

 http://www.bs-tbs.co.jp/genre/detail/?mid=DRT1006100


いやまあ、これには驚いた。
松本清張は、大昔にそういう題の短編を書いていたのだ。

もちろん、録画をして、そのドラマを2人で見た。
卒業まで1年半待て…というストーリーではなかった。
(当たり前やがな)

でも、なかなか面白いドラマだった。


…さて、結婚してから今日で44年になります。
22歳で結婚したので、ちょうど人生の3分の2です。


知恩院で「1年半待ってくれますか?」
と言って待った1年半はとても長かったですが、

その後の44年間は、あっという間に過ぎました。

 

 

 

 

                                  ファンキーノン気~  もよろしく!

 

 

 

 

 

 

 

 

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奇跡の年賀状 

2015年01月22日 | 思い出すこと

  

    やわらかに 柳あをめる  
    北上の  岸辺目に見ゆ  
    泣けとごとくに   啄木

  (岩手県渋民村・石川啄木の歌碑。1969年撮影)

  

今年いただいた年賀状の中に、
1通だけ、見知らぬ方からのものがあった。

差出人住所は青森県十和田市。お名前は女性名。
そのお名前には、まったく心当たりはなかった。

「え…誰だろ?」と差出人のところをよ~く見ると、
(旧姓・羽入)と小さく書かれていた。

「あっ、あの…?」と思いながら裏返して文面を見たら、
あ~、間違いない、…あの「羽入さん」だった。
いや、ご本人ではなく、ご家族の方だったが…。

…懐かしい思い出が、よみがえってきた。


 ………………………………………………………………


もう46年も昔、1969年(昭和44年)の話である。

20歳だった僕は、大阪から北海道の最北端まで行き、
大阪に戻る…という70日間の自転車旅行をした。
そのことは、これまでも何度も書いてきたし、
その自転車旅行だけを綴ったブログも掲載した。

僕にとってこの旅行は青春そのものであり、思い出は尽きない。
その中のひとつに、こんなエピソードがあった。


北海道からの帰途。本州に戻り、やがて岩手県へ。
時期は8月の初旬だった。

岩手県・渋民村の啄木の歌碑の前でのことだ。

僕が歌碑の前の屋根つきベンチで野宿の準備をしていたら、
年配のおじさんが自転車でやって来た。
その前に、道路で僕はこのおじさんを追い越している。

「あ、先ほどはどうも」と挨拶を交わした。
ごく普通の自転車に乗っておられたが、
東北一周しているところだと言われたので驚いた。

おじさんは周りを見て、悲しそうな表情を浮かべ、
「今日も、写真屋さんはいないのですね」と言われた。
「私がここを訪れるのはこの30年間で今日が4度目です。
でも、いつも写真屋さんはいないので、写真がありません」

あまりに残念そうな様子だったので、
「僕のカメラで撮りましょう。カラーじゃありませんけど」
そう言ってカメラを取り出した。
おじさんは「いやぁ、有難いです」と目を輝かせた。
「ではそこに立ってください。行きますよ~ パチッ」
何枚か撮り終え、おじさんと住所を交換し合った。
青森県の十和田市に住まれている、とのことだった。

「大阪に帰ったら、写真は必ずお送りしますので」
「ははっ。よろしくお願いいたします」
…と、羽入さんは深々とお辞儀をされた。

「では、気をつけて行ってくださいね」と僕は見送った。
「はい。あなたも、ご無事で故郷へ帰られますように」


    
     歌碑の前で。羽入さん。


大阪に帰り、数枚の写真を羽入さんのご自宅に郵送した。

すると、折り返し、礼状が届いた。
筆で書かれた、まるで時代劇で見るような手紙である。

以前、ブログにも書いたけれど、もう一度掲載します。

 

 


拝啓 いつの間にか秋がやって参りました。
去る十六日急用のため夕方から夜にかけて、
十和田の実家に帰りましたところ、
○○さんからの写真が届いておりました。
三十年前から夢にまで見ていたあの場所での写真は
全く偶然に知り合った大兄から頂くことになりました。
厳に謹んでお礼を申し上げます。
カラーでなくても、あの山、あの川、あの場所が好きなのです。
本当に有難うございました。
(後略)


そして冬には青森のリンゴを、
ダンボール箱いっぱいに送ってくださった。


それから10年以上経ったある日…
突然、自宅に羽入さんがやって来られたのには驚いた。
「兵庫県の壮年マラソンに出場してきました。
大阪に知人がいますので、今夜はそこに泊まるのですが、
ぜひお目にかかりたく…」と、訪ねてくださったのだった。
兵庫までマラソンに来られるとは…本当にお元気な方である。

2人で当時の話を中心に、1時間ほど歓談した後、
羽入さんは、御丁寧なご挨拶とともに、わが家を辞された。


自転車旅行のブログで、このことを書いたら…

八戸市にお住まいのTさんという学校の先生をされている方が、
たまたま僕のそのブログを熱心に読んでくださっていて、
当時僕が自転車で走った青森、岩手などの現在の様子を、
僕のところに、メールで写真を送ってくださったり、
いろいろと興味深い情報を送っていただいたりした。

そして、そのT先生が、わざわざ羽入さん宅をお訪ねになり、
娘さんに会われて、僕のそのブログを印刷したものを渡された…
とお聞きし、びっくりすると共に、T
先生に恐縮する一方だった。

その後、羽入さんの娘さんから、僕の住所が知りたいとのことで、
T先生へ問い合わせがあり、先生からその旨のメールを受けた僕は、
むろん異存はなく、先生に、自宅の住所をお伝えしたのである。

そうしてこのお正月に「旧姓羽入」様からの年賀状が届いたのだった。


 ………………………………………………………………


46年前、石川啄木の歌碑の前で羽入さんとお会いしてから、
長い長い年月を経て、娘さんからの年賀状をいただいた…。
不思議な感覚である。

文面は…

明けましておめでとうございます。
お元気でしょうか。
T先生より自転車旅行記のコピーをいただき、
家族全員で拝見させていただきました。
父は3年前に空へ向かいましたが、
〇〇様と絆を深めることができ、
今でもうれしく思っていることでしょう。
ありがとうございました。
機会がありましたら、大阪へ行ってみたいと思っております。


羽入さんは、3年前に亡くなられていた…。

その娘さんから、心温まる年賀状をいただいた。

46年の歳月が、まるで一瞬の夢のように感じられた。

「ぜひ一度、お会いしたいです」
お会いして、父上・羽入さんのお話を聞かせていただきたい…。

返礼の年賀状で、僕は、心からの思いを伝えた。

 

青森県八戸市のTさんへ。

 思いも寄らぬ「自転車旅行・
後日談」を数多く生み出していただき、
 本当にありがとうございます。いつも、心から感謝しています。

   
  
   

      
  
 


 

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小さい体は得か損か…?

2014年11月10日 | 思い出すこと

僕は生まれたときから小さかった。母によると出生時は2,000グラムに満たず、いわゆる未熟児だったそうである。


それ以来、小さいままである(笑)。小学校でも中学校でも、朝礼や運動会をはじめ何でも身長順に並ばされるのだが、いつも1番前か、あるいは2番目か3番目だった。目の前に教師が立っていて、前にいる僕のほうを見て「ちゃんと並びなさい」と注意する。僕らは私語もせず、大人しく並んでいるのだが、うしろに並んでいる連中ほどきちんと整列せず、ガヤガヤと騒いでいるのだ。うしろに行って注意してくれっちゅうの(ま、昔の学校ってそんなものだった)。


クラスメイトから「おちびちゃん」などとからかわれ、自分の小柄な体型がイヤで仕方なかった。小学生低学年の時は幼稚園児と間違えられ、中学生時は小学生に間違われる。何とかならないか…と必死に思案し、中学の時、少年雑誌の通信販売で「これで身長が伸びる!」という首を吊るような器具の宣伝が載っていたので、親に内緒で小遣で買った。「これ、なんやのん?」と母が聞くので「これでアゴを吊ったら背のびるねん」と僕が答えると「首だけ伸びるんちがう? ろくろ首やがな」と意味のわからんことを言った。子の心親知らず…である。


また衣服ひとつにしても、年齢に応じた服は寸法が合わない。ダブダブである。情けなかったわ~。いいことなんかひとつもないやないか…と、こんな体に生んだ両親を恨んだりもした。外面は友だちと普通に遊ぶ子供だったけれど、どうしても体が小さいことが劣等感となって、今思ってみても、小中学校時代は、心の底から楽しかったことなんて、あまりなかったのではないかと思う。


それでも、高校に入学し、最初に実施された試験の合計点がクラスで一番良かったらしく、先生から学級委員に指名されたら、まわりの僕に対する接し方が微妙に変わった。「おちびちゃん」なんて言う者はいなくなった。「マスター」というのが僕のあだ名になった。なんでマスターなのかわからないが、まぁ、やはりこの時代の子供も、高校生ぐらいになると、いろいろな自覚も芽生えてくるので、あまり人の身体的なことをからかうことはしなくなるのだろう。ある友だちは「のんは競馬の騎手になるべきや。その身長と体重やったら、騎手にピッタリやで」と、真顔で言ったことがあった。でも僕は怖がりだから「馬から落ちたら怪我するやん。それが怖い」と答えたことを覚えている。


まあ、これくらいの時期から、僕の子供なりの劣等感や情緒不安が、少しずつ消えていったように思う。

 

   
  高校生の頃。僕は小さいので写真ではいつも前列に出る。
  (前列真ん中が僕です。左のシマサクは大の親友でした)

 

高校生の頃は読書に夢中になって「世界文学全集」や「日本文学全集」を1年間で100冊以上読み、大学では3年生の時、6月から8月末までの70日間をかけて自転車で大阪から北海道を往復した。その頃から、人生に対する興味や自信が湧いてきた。やればどんなことだってできる…と思い始め、体の小さいことをハンデに感じなくなっていた。


その後、30代から40代にかけてランニングに熱中し、40代からは毎年のように妻と海外旅行へ出かけた。このとき、僕は小柄であることがよかった…とつくづく思ったことがある。それは飛行機である。


欧米諸国へ行くには、10時間以上飛行機に乗らなければならない。むろん庶民である僕たちはエコノミークラスである。それでも僕は小柄なので、普通の人には狭い座席も自分にとっては狭くない。ゆったりと座れて快適である。しかし大柄な、あるいはかなり太った人にとっては、エコノミークラスの座席は狭すぎる。見ていて気の毒なほど窮屈そうに座っている。辛いだろうな、10時間以上も。


それを見て、自分が小さな体だったことが、今になって非常に便利であることを悟ったのである。嫌なことばかりじゃない…というわけだ。海外旅行の往復の飛行機に乗るたびに、小柄で細身の自分の体型に感謝することになった。


それと、もうひとつ。


以前の職場で、福祉を専門とする女性の職員と親しくなり、他の人たちも交えて一緒にスキーへ行ったり飲み会に行ったりした。その女性は介護のことにも詳しく、老人施設の介護現場にも頻繁に出入りしていた。その彼女と一緒にハイキングに行った時、うしろから僕を見て、「のんさんは…」と言ったのだ。


「はぁ?」と僕が振りかえると、僕の体つきを見ながら「体重は50キロぐらい?」と尋ねたので「うん」と答えた。すると彼女はこんなことを言った。


「のんさんみたいな人なら、とても介護がしやすいわ。大きくて体重の重い男性は介護するのも一苦労なのよ。その点、のんさんならね~」


う~む。言われてみればねぇ…。誰にでもひょいと抱き上げられそうだ。


ということは、年を取ると小さい体のほうがいい…と言えるのかなぁ。
でも僕は介護される身には絶対なりたくない、と念じているのですが…

 

 


 

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撃墜事件

2014年07月25日 | 思い出すこと

1週間前、ウクライナ上空でマレーシア航空機が撃墜された事件は衝撃的だった。飛行機が墜落したのではなく、撃墜…つまり撃ち落されたというのだから、なんとも恐るべき事件である。


事件発生当時、フジテレビの「とくダネ!」で、司会の小倉智昭が「民間の航空機が撃墜されたという前代未聞の事件が起きました」と言った。実際は、これまでも何度か撃墜事件は起きており「前代未聞」ではないのだけれど、思わずそういう言葉を使ってしまった気持ちはわかる。それほど驚くべきニュースだった。


「撃墜」という言葉を聞けば、大韓航空機のことを思い出す人も多いだろう。


今から31年前の1983(昭和58)年9月1日に起きた事件である。ニューヨークからアンカレッジ経由で韓国のソウルに向かっていた旅客機が、サハリン付近で、飛行ミスから当時のソ連の領空へ入ってしまい、それをソ連軍機が発見、米偵察機と勘違いしてこれを撃墜した。旅客機の乗務員・乗客全員が死亡、日本人乗客も30人近くいた。全く信じがたいニュースだった。 
         
         

http://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E9%9F%93%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%E6%92%83%E5%A2%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6


これを題材にした柳田邦夫の「撃墜」というドキュメント本も出て評判になった。僕も買って読んだ。この撃墜事件には、ことのほか関心が深かったからだ。


この事件が起きたのが、前述したように、1983年の9月1日だった。実はその20日後、つまり9月21日に、僕は初めての海外旅行でニューヨークへ行くことになっていた。


そのニューヨークへの行程が、大阪からソウルに行き、ソウルから大韓航空でアンカレッジ経由のニューヨーク行きの飛行機に乗る、というものだった。帰途も同様、大韓航空でニューヨークからアンカレッジ経由でソウルまで、である。だから「撃墜」のニュースを聞いて、僕は腰を抜かさんばかりに驚いた。自分が乗る飛行機と、全く同じ便なのだった。


もしかして便が変わるのでは…と思ったけれど、予定通りの飛行ということだった。往路、大阪からソウルに行って大韓航空に乗り換え、サハリン付近を通過したときは、イヤでも「撃墜事件」のことが頭に浮かんだ。そして帰りはさらに事件そのままのルートで、ニューヨークを発ち、アラスカのアンカレッジで給油したあと、ソウルに向かった。その途中でまたサハリン付近を通過したのだが、深夜だったにも関わらず、あちらこちらの席から「この辺で航路から外れて撃墜されたんだよね」という小声の会話が耳に入ってきた。


今回の撃墜事件で、改めて31年前のことを思い出した。そして、当時は、こんな特殊な出来事は二度と起きないだろうと思っていた。小倉キャスターの「前代未聞」ではないけれど「空前絶後」の事件のはずだった。それが今回また起きたことで、まだそういう時代は終わっていないんだ、とも思い知らされた(折りしもパレスチナ・ガザ地区で戦争も起きていますし…)。


身近なところでは中国が、日本の領空や領海をやりたい放題に侵犯して「ここは自分たちのもの」などと主張している。ひょっとしてあの国も、何かするかも…と、あらぬ想像をめぐらすと、背筋がぞ~っとしてくる。


中国もねぇ…。何をするかわからない国だし…。今回の期限切れの肉を使っていたという悪質な手口も、やっぱり中国かという感じ。そういえば「毒入りギョーザ事件」というのもあったっけ。今日の話とは何の関係もありませんけど。


ではでは、暑い毎日ですが、皆さま、熱中症には十分お気をつけください。
あ、それと、中国製の食べ物にも、十分お気をつけください。

 

 

 

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