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 僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

直木賞作家・新橋遊吉さんって知ってます? 

2018年05月03日 | 思い出すこと

ちょうど1ヵ月ぐらい前のことです。新聞の訃報欄に「あの人」の名前が載っていました。えっ?「あの人」が亡くなられたの?と、その人にまつわる自分の学生時代のことを思い起こしたのでした。忘れられない人だったんですよね。

あれは僕が大学4年生のとき。

梅田にあったサンケイスポーツ社の報道部で、夕方から深夜にかけてのアルバイトをしていました。プロ野球の関西の各球場で取材している記者たちが、社の報道部に電話をかけてくるのですが、その電話を、待機している僕たち学生アルバイトが受け、記者が試合経過や結果を伝えて来るのを電話で聞き取り、原稿用紙に書き込んでいくという仕事でした。受話器を持ちながら、かなり手早く書き取らなければならないし、字の間違いにも注意しなければならない。何度も聞き返したり、モタモタしていると記者から怒鳴られたりする。今は電子機器で送信されてくるので、電話で原稿を書き取るなんていう原始的なことはやりませんが、何しろ時代は今から48年前、1970(昭和45)年のことですからね~。メディアの世界も、まだ電子化されていない時代でした。

僕たちが電話で聞き取って書いた原稿は、主任さんが目を通して加筆修正し、それが印刷に回され、新聞記事になる。そうして出来上がったサンケイスポーツ紙を見て、僕たちアルバイト仲間は、野球記事のあちこちの部分を指さして「あ、これはオレが書き取った部分や」な~んて言い合ったものでした。

さて、そのサンケイスポーツの競馬欄には、競馬通で有名だったある作家がコラムを連載していました。ま、コラムというよりもレースの予想だったでしょうかね。そのタイトルが、

「遊吉の一発勝負!」

というものでした。毎週、競馬がある土・日曜日に記事が掲載されていました。

その作家というのは、新橋遊吉という人でした。少し前に「八百長」という競馬小説で直木賞を受賞した人で、僕も本好きだったので名前はよく知っていました。その新橋遊吉さんが、僕らのすぐそばに来て、主任や編集部の人たちと話している姿に「わっ、直木賞作家がすぐそこにいる」と、かなりコーフンしたものです。

ツノダさんという僕を可愛がってくれていた主任の方がいたのですが、僕が「あの人、新橋遊吉さんですよね。すご~い!」と憧れの念を漂わせていると、ツノダさんは「仕事が終わったあと時々2人で飲みに行くんだよ。次に行くときは一緒にどうや?」と言ってくれました。「ホントですか。やったぁ!」と、僕は直木賞作家という雲の上の人と飲みに行けることに有頂天になりました。

そしてそれが実現したのはそれからほんの数日後で、午後11時前後、仕事もほぼ終わったあと、ツノダさんと新橋遊吉さんが例によっておしゃべりをした後、「じゃ、帰りにイッパイやりましょか」ということになり、ツノダさんが「お~い、一緒に行くか?」と僕に声をかけてくれたのです。

タクシーでどこかの居酒屋まで行き、そこで2人に交じって一緒にお酒を飲み、ツノダさんが「この子はあんたに憧れてるそうやで」と僕を紹介してくれました。「へぇ~。それは、ありがとうね」と、遊吉さんは、極めて庶民的で、僕みたいな学生に対してもやさしく接してくれる人でした。

その店にどれくらいの時間いたのかわかりませんが、さて帰ろうという時、ツノダさんが僕に、「〇〇クン、もう真夜中やから遊吉さんのところに泊めてもらいなさい」と言ったのです。「はぁ?」と僕はビックリ。サンケイスポーツ社からタクシー券をもらっているので、そこから家まで自分で帰ることはできたのですが、横でほろ酔い機嫌の遊吉さんが「いいよ。うちに泊まりなさい。汚い所やけど」と言ってくれたご好意に甘え、ツノダさんと別れて遊吉さんが止めたタクシーに乗り込み、遊吉さんのマンションに行きました。

遊吉さんは独り暮らしで、部屋は、やっぱり散らかっていて汚かったです(笑)。遊吉さんは僕に気を配ってくれのか「何か、食べるものはないかなぁ」と、冷蔵庫を開けて何かを取り出したのですが、それは賞味期限がとっくに過ぎているひからびた豚肉だったり、その他、食べられるようなものは皆目ありませんでした。ま、僕もお腹はすいていなかったので、畳の部屋で座布団を枕にそのままゴロンと横になり、すぐに寝てしまいました。

そして朝、遊吉さんはまた、「何か食べるものはないかなぁ」と冷蔵庫を開けたので僕も「いいです、いいです。もう帰りますから」と笑ってしまいました。

「ふ~む」と、ブツブツと何ごとかをつぶやきながら、遊吉さんはまだ半分、居眠っているような様子でした。

「じゃ、帰ります。ありがとうございました」と僕。
「あ、帰るの? そう? 気をつけて。帰りの道、わかる?」
なんだか子供みたいに思われていたようです(笑)。

直木賞作家の方の家に泊めてもらった、というのは、後にも先にもその1回だけです。行って、眠っただけですが、今から思えば貴重な経験でした。

僕はそのあとすっかりファンになり、遊吉さんの本を何冊も読んだのですが、さすがに時が経つにつれ、徐々に遊吉さんのことは記憶の底のほうに沈んで行きました。

それからもう50年近い歳月が過ぎました。

4月初旬の新聞に、新橋遊吉さんの訃報が小さく載っていたのを発見して驚き、その昔の記憶がみるみるうちに蘇ってきました。

訃報が報じられたのは4月ですが、実際に亡くなられたのは2月ということでした。「腎不全で死去。84歳」とありました。遊吉さんは僕より15歳年上だったんですね。

冷蔵庫からひからびた肉を出して「あれ、これはもうダメやな」と、つぶやいておられた遊吉さんのことを懐かしく思い出しながら、ご冥福を祈った次第です。

 

 

新橋遊吉さんのことは、ここに詳しく出ています。
よくもまぁ、これだけ競馬に関する小説を書けたなぁ、と感心しますわん。

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%A9%8B%E9%81%8A%E5%90%89

 

 

 

 

 

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年度初め 緊張の時

2018年04月02日 | 思い出すこと

昨日からいよいよ4月に入りましたね。市役所で仕事をしていた頃は、やはり「年度初め」といえば、各職場にピンと張りつめた空気がありました。市役所というのは、部や課によって全く仕事内容が違うので、極端に言えば、別々の会社がひとつの屋根の下でそれぞれの仕事をしているみたいなところがあります。だから、人事異動は、まったく知らない仕事をする場所に行く感じで、職員にとっては最大の関心事なのでした。

4月1日付で人事異動があり、自分の職場に新しい上司や部下などが入ってきたり、それよりも何よりも、自分自身が新しい職場に配置されたりすることももちろんあるので、そんな時は僕も、さすがに何歳になっても緊張したものです。

僕は、採用されたときは秘書課の「市史編さん室」という、なんだか特殊な部署に配属されましたが、2年後の24歳の時に課税課に異動して多くの仲間ができました。その次はまた2年後の26歳の時に議会事務局という、これも少し変わった部署へ異動になりました。

ふむ。立て続けに2年ごとの異動なんて、僕は役立たずなのか? と少々ひがんだものでしたが、今度はその議会事務局に42歳までの16年間いました。なんだそれ? 短い時は短いし、長い時は長過ぎるほど長い(笑)。

その42歳の時、総務課の文書法規係というところへ配属されました。ここは市役所全体の法律や条例に関することを担当する部署で、これがまた難しい職場でした。僕はその時、各課からの法的な問題の問い合わせが集中してくるのに忙殺され、僕が法的にこうだからこうすべきと説明すると、各課の担当者は「法律だけでは物事は解決せえへんで! 硬いことばっかり言うな」と責められる始末。しかし立場上、硬いことを言わなければならない。それでストレスがたまり、ウツのような状態になり、思いあぐねた末、当時の助役さんに手紙を書き、正直に心情を述べました。「これ以上僕には務まりません」「どこでも結構ですので異動させてください」という意味のことを訴えると、有難いことに受け入れてもらいました。で、この部署も2年で終わりました。

そして44歳のその時に配属された部署は広報係で、ここはよかったです。少しでも市民の人に親しんでもらえる広報紙を作ろうと、見出しや写真を工夫したり、文章をなるべくわかりやすくしたりして、これは自分に向いている仕事でしたね~。ここでは6年間勤め、50歳の時に再び議会事務局へ異動しました。この職場は2度目ですから、まあ「出戻り」みたいなもんです。

ここで10年間勤めて、60歳で定年退職ということになったわけですが、この議会事務局は結局合わせて26年間務めたということになります。

市史編さん室 2年
課税課   2年
議会事務局 16年
文書法規係  2年
広報係    6年
議会事務局 10年

38年間のうちの26年間、議会事務局にいたことになります。

自分が新しい職場に配属されたのは、合計6回ということになり、それぞれの職場への初出勤だった4月の最初の日は、どんなだったろう、と思い出してみますと、細かいことは忘れましたが、それなりの緊張感を持っていたことは間違いありません。

今日は4月2日ですが、月曜日なので、新社会人を含め、今日から新しい職場での生活が始まる方が大勢いらっしゃると思います。自分の過去のことを思い出しながら、みなさん新しい職場で頑張ってください! と心の中でつぶやいています。

ちなみに僕自身は、伸びきったゴムのような、緊張のない毎日を送っています。
すみません。

 

 

 

 

 

 

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カーリング・そだね~・北海道弁の思い出

2018年02月25日 | 思い出すこと

昨日の夜は、日本の女子がカーリングで銅メダルを賭けてイギリスと戦っている最中に、別のチャンネルでスピードスケートのマススタートという競技がありましたね。2つが同時刻にダブっていました。10日ほど前にも、高木美帆選手が金メダル候補だったスピードスケートの1500m決勝と、ジャンプの高梨沙羅ちゃんが飛ぶ時間帯と重なって、なんで同じ時間帯やねん、とこのブログでもボヤきましたが、昨日も同じで、あちらをかけたりこちらを見たり、と忙しいこと。

ところで、マススタートというのはどんな競技なのかゼンゼン知らなかったのですが、昨日の新聞で解説されていました。「メダルの鍵はチームワーク」という見出しで、記事には「高木・佐藤が2人とも決勝に進出し、1人が風よけとなってもう1人の上位進出をアシストしたり、中盤で1人が飛び出して有力選手に体力を使わせたりと、作戦を練りたい」とありました。個人競技ではありますが、とにかくチームワークがメダル獲得への重要な要素だったわけで。しかし

佐藤選手が転倒のアクシデントで決勝に進めなくなった。決勝に出るのは高木選手1人。あぁ、これではチームワークも何もあったもんじゃない。もうダメかと思っていたところ、なんとまあ、その高木選手が見事なレースぶりで優勝を果たしたのでびっくりしました。

今大会の日本の金メダルも結局3つだったと思っていたのが、最後に4つ目の金メダルが転がり込んでくるとは思いもよらなかったですね~ すごい!

このレースをチラチラ見ながら、カーリングのほうももちろん見ていましたが、こちらもイギリスを相手にリードされながらも粘って終盤に逆転し、最終回に相手のミスを誘って銅メダルを獲得しましたね~ よかった!

今大会の日本は、女子選手の活躍が目立ちましたね~。素敵でした。

カーリングの試合を見ていると、ついつい引き込まれてしまいますが、選手同士の会話がはっきり聞こえたり、ヘルメットやゴーグルをしていないので選手の顏がわかりやすかったりと、競技の側面部分でいろいろと注目されていますよね。特に「そだね~」は早くも今年の「流行語大賞」候補だとか。

この「そだね~」は「北海道弁」というふうに言われていますが、東北弁とか九州弁とかはよく聞きますが北海道弁ってあまり聞きません。でもそう言われてみると、懐かしい思い出がよみがえってきます。

20歳の頃の自転車旅行の時のこと。大阪から、京都→滋賀→福井→石川→富山→新潟→山形→秋田と、日本海側を北へ北へと進んで行くたびに、だんだん方言が強くなってきた。そして青森に入り、津軽の金木駅というところで休憩していた時などは、そばにいた中学生くらいの男の子たちがしゃべり合っている東北弁が、いったい何を話しているのか全く理解できなかった。「う~ん、言葉がだんだんわからなくなってきたぞ。これでさらに北海道に入ったらどうなるんだろ?」と心配になりました。

ところが、北海道に渡ったとたんに、すっかり標準語に近い話し言葉になったので、これにも少し驚いたことを覚えています。

それから1ヵ月間をかけて自転車で北海道を1周し、いろんな人と会話を交わしましたが、その時に感じたのが、「〇〇だね~」という言葉が頻繁に使われていたことでした。「大阪から来たんだね~」とか「頑張っているんだね~」という感じなので「そだね~」もその「仲間」ですよね。

それと、「〇〇かい?」という言葉も耳に残っています。帯広駅前の中華料理屋さんでご飯を食べているとき、店の女の子が僕の背中をポンポンとたたき、僕がえっ?と振り向くと、その子が「おいしいかい? おいしいかい?」と何度も繰り返し聞くのでした。
(今から思えば「そだね~。おいしいね~」と答えればよかった)

また函館の郵便局でお金を引き出した時は、局のおじさんが僕が大阪から来たと言うと「元気だね~。函館山はもう登ったかい?」と聞いたりしました。

こういう話し方に北海道特有のニュアンスが含まれていることを、僕はこの自転車旅行の時に感じていたので、今回のカーリングの選手たちの会話をテレビで耳にすると、当時のことを懐かしく思い出すのでした。

昨日の新聞記事の中に、北海道弁には優しいイントネーションを感じる、という意味のことが書かれていました。僕もホントに「そだね~」と思います。

 

 

*いま話題の熊本県の道路電光掲示板に、こんなのも出ました。


  

 

 


 

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はしだのりひこさんと 「風」

2017年12月03日 | 思い出すこと

はしだのりひこさんが亡くなられたことを今朝の新聞で知りました。パーキンソン病をわずらっておられたとのこと。享年72歳。年は違うけど誕生日は僕と2日違い。さらに京都市生まれというのも一緒。おまけにこの人も僕と同様に体が小さかったことなどから、若い頃はとても親近感を持っていました。

ザ・フォーク・クルセイダーズのメンバーの一員として「帰って来たヨッパライ」というメチャ面白い歌が大流行したのは今から50年前、1967年(昭和42年)のことでした(そんなに大昔のことになっちゃったのか~)。その翌年にグループは解散し、新たに「はしだのりひことシューベルツ」というグループが出来て、1969年(昭和44年)に発表した「風」が大ヒットしました。僕はこの「風」という歌が今でも大好きです。

この歌が出た年の8月に、そのとき20歳だった僕は自転車で北海道往復一人旅をしました。来る日も来る日も一人寂しく黙々と自転車をこいでいる時、携帯ラジオからこの歌が聞えて来ると思わす涙が出てきたのです。とにかくあの歌詞というのがものすごく胸にしみましたね。ホント、何もない道路を延々と走りながら、振り返ってもそこにはただ風が吹いているだけ~でしたから(笑)。

その旅の中で、僕は山形県から秋田県に入り、「おばこ街道」と呼ばれていた道を走っているとき、それまで雨模様が多かったのが、めずらしく晴れ渡り、心地よい風に全身を包まれながら走っていました。その時、自転車をこぎながらこの歌を大きな声で口ずさんだのを今でも思い出します。

まあ言ってみれば、この歌は、僕の自転車旅行のテーマでもありました。歌詞にもありますように、「ただ一人旅に出て」とか「ちょっぴりさびしくて」とか「人生につまづいて」とかいう部分もその他の部分も、まったく自分のその時の状況や心情と重なるものだったのです。

その様子は自転車旅行ブログにも書いています。

http://d.hatena.ne.jp/domani07/20070611

♪♪
人は誰も ただ一人旅に出て
人は誰も ふるさとを振り返る
ちょっぴりさびしくて
振り返っても
そこにはただ風が
吹いているだけ

人は誰も 人生につまずいて
人は誰も 夢破れ 振り返る
何かを求めて
振り返っても
そこにはただ風が
吹いているだけ

振り返らず ただ一人一歩ずつ
振り返らず
泣かないで 歩くんだ ♪♪

それから2年経ち、僕は卒業とほぼ同時に結婚をして社会人になり、阿倍野近鉄百貨店の和楽器売り場の店員をしていました。目の前がレコード売り場です。時々、新曲の発表を兼ねて歌手がやって来ることがありましたが、ある時、はしだのりひこさんが新曲キャンペーンにやってきました。その時は「はしだのりひことクライマックス」とまた新しいグループ名になっていました。そのとき何の歌を歌われたのかは忘れましたが、歌い終わって、和楽器売り場で立っていた僕のすぐ前を通った時、はしだのりひこさんはチラッと僕の顔を見て、通り過ぎて行きました。一瞬ですが目が合いましたが、「あぁ、やっぱり背は僕と一緒ぐらいなんだな」という印象だけが残っています。相手も「こいつもチビやな」と思っていたのかも知れませんけど(笑)。

今朝、はしだのりひこさんが亡くなったとの記事を読み、自分の若い頃の思い出と関わっている人物がまた一人、消えちゃっていくんだなぁ、という寂しさを覚えました。

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

 

 

 

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横田めぐみさん 拉致から40年

2017年11月15日 | 思い出すこと

9年前の10月。出張で新潟へ行った時のことです。

仕事を全部終えて空港へ行こうとタクシーに乗ったものの、まだ時間に余裕があったので、新潟市内を適当にめぐってもらうことにしました。しばらくして、タクシーは海に近づいて行き、人通りのない細い坂道を上がって行くと、右手に学校のような建物が見えてきました。

「この、右に見えるのは中学校なのですが」とタクシーの運転手さん。
「二葉中学校と言います」
「えっ? フタバ中学校?」と僕は聞き返す。
この中学校にどんな由来があるのだろうと次の言葉を待ちました。すると運転手さんは驚くべきことを言ったのです。

「この二葉中学校は、北朝鮮に拉致された横田めぐみさんが通っていた中学校だったのです」

運転手さんの言葉に、思わず「えっ、何ですって?」と聞き返しました。
ここが? 横田めぐみさんが通っていた学校? ここが

いきなりのことだったので、本当に驚きました。

事件が起きたのが1977年(昭和52年)11月15日でした。そして今日、11月15日はその日からちょうど40年が経った日となるわけですが、これは9年前の話ですから、その時は事件後31年の時点だったことになります。

一人の少女が忽然と姿を消したのは、この中学校からの帰り道だったというのです。当時めぐみさんは13歳。中学1年生で、今のモミィより1歳だけ上という、まだあどけない年頃です。

「そうですか。ここがめぐみさんの通っていた中学校だったんですか
僕は身を乗り出して右手の窓から校舎を眺めながら、もう、それ以上の言葉は出なかったことを覚えています。

タクシーは海岸公園の横を走り始めましたが、整備の行き届いた道路と公園の木々の緑は美しかった。しばらく海岸沿いを走ったあと、比較的広い道に出たときに、運転手さんが再び口を開きました。

「このあたりでめぐみさんが拉致されたのであろう、と言われています」

ごく普通の道路と、ごく普通の歩道があり、海辺の方角には木々が瑞々しく生い茂っていました。何とも穏やかな風景でした。こんなところで

この辺のどこかに卑劣な悪魔が潜み、何の罪もない一人の純真無垢な少女を肉親から奪い、少女が育んできたすべてのものを引き裂いて連れ去ったのです。その時、めぐみさんがどんな思いだったかを想像しただけでも身震いがします。残酷すぎます。

車に揺られながらそんなことに思いを巡らしていると、だんだんと気が重くなってきました。

運転手さんは前方を見つめながら、淡々とこう言いました。
「めぐみさんは絶対に生きていますよ。でももうこちらには帰ってこないんじゃないかと、思いますよね。ご本人の意思としてでも、ですね」

そんなことを途切れ途切れに、噛み締めるような口調でつぶやいたのです。

そしてさらに運転手さんは、こう続けました。
「めぐみさんは結婚して、子どもさんもいるし。それに、あちら(北朝鮮)ではかなり優遇されているんだと思いますよ。もう30年以上もあちらで暮らしているんですからね。そりゃぁ、お父さんやお母さんに会いたいでしょうけど、今の自分の生活や家族も捨てられないのではないでしょうか

地元の人たちは、みんなそういうふうに思っているということでした。

もし運転手さんの話のとおりだと推察すれば
ご両親である横田さんご夫婦にとって、つらいことには変わりないだろうけど、めぐみさんが現地でそれなりに順応して穏やかな生活を送ってくれているとしたら、それは万分の一でも安堵の材料になるかも知れないと思ったことを今でも忘れません。運転手さんのこのお話も、一言一句しっかりと耳に残っています。

「では、お時間ですから、このまま新潟空港に向かわせてもらいます」
という運転手さんの言葉に「ええ、お願いします」と返事をしたあとは、あまり覚えていません。視界から遠ざかって行く海岸の景色だけが、今も強烈にこの目に焼き付いています。

今日、めぐみさんが拉致されてから40年経ったという報道に接して、9年前のこのことを、また鮮明に思い出した次第です。

横田さんご夫妻や有本さんご夫妻はじめ、ご家族の方々は年々お年を召されています。この拉致問題、何とか解決のきっかけでもつかめないものかと、改めて念じています。

 

 

 

 

 

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シンモエダケで思い出すこと

2017年10月13日 | 思い出すこと

いつも言いますが、このブログは話がバラバラです(笑)。

で、きょうは競馬の話です。これまで10年間綴って来たこのブログに競馬の話はほとんど書いていませんが、実は僕は若いころ、競馬に凝っていた一時期がありました。今日は改めてその時の話をします。

これは、僕が就職をして間もない頃のことです。

同じ課の先輩に競馬好きの人がいて、週末になれば競馬場へ行ってました。

「おい、競馬はおもろいで~。お前も馬券買うたろか」と言われて、僕はスポーツ新聞の予想などを見ながらその人に馬券を頼んでいました。まあ、頼んだのは大きなレースだけでしたけど。

そんな頃具体的には1972(昭和47)年頃の話ですが

その1972年の競馬界は、前代未聞のアクシデントに襲われた年でした。競走馬の間に「馬インフルエンザ」が流行し、クラッシックレースの桜花賞や皐月賞、日本ダービーなどがそのために日程が大幅に延期されたのです。

普通なら4月初旬に行われる桜花賞は5月21日に延期して開催されました。その桜花賞の話をこれからするわけですが、ついでに言うと、いつもは5月に行われる日本ダービーも、この年は7月に行われ、世間では「七夕ダービー」などと言われたものです。

さてその桜花賞ですが、僕はかなり馬券を当てる自信がありました。優勝するのはこの馬、という超人気実力馬がいたのです。僕はその馬を中心に、あと3頭ほどの馬を選んで「枠連」で馬券を先輩に頼みました。オッズは低かったですが、堅実にいかなければね~。しかし、実を言うと、それ以外にちょっとだけ気にかかっていた馬券があったのです。それは

このレースの少し前の4月27日に、長男が誕生しました。22歳で結婚をし、23歳の時に出来た男の子でした。その長男が生まれてから、最初に馬券を買ったのがこの桜花賞だったのです。

で、単なる数字合わせですが、長男が生まれたのが27日だから、これにちなみ、この桜花賞も「2-7」を1枚でも買ったらどうか?と思ったのです。でも出走馬の表を見ると、2枠と7枠の馬はどう見ても入りそうにない馬でした。そんなことで、僕は本命馬から流しただけという、まあ、堅実な馬券を買ったのです。

それが、結果はどうなったか?

驚くべき番狂わせが起きました。

アチーブスターという単勝8番人気の馬が優勝し、さらに2着にはハジメローズという13番人気の馬が食い込んだのです。あっと驚く結果でした。勝ったアチーブスターに騎乗していたのは、武豊の父である武邦彦騎手でした。僕が買った本命馬は7着と惨敗しました。

それで驚いたのですが、なんとまあ、馬券をみてもっと驚きました。

2-7と入ったのです。

2-7は19番人気で、払戻金としては当時としては破格の9,000円でした。もうちょっとで「万馬券」ですよね。

「ありゃりゃりゃ~!」
と、僕はこのとき、どれだけ地団太を踏んだことでしょうか。
やっぱり2-7だったんだ。買っておけばよかったぁ~

「2ー7も考えていたんやけどなぁ~」
と周辺の人たちに言ってまわったものでした。
「そんなん、後からやったらなんぼでも言えるやん」
と、周囲の目は、冷ややかでした(そらそうですわね)。

というようなことが、むかし、ありました。

そんな古いことを、なぜ今ごろ思い出したのか?

これにはわけがあります。

さきほどの桜花賞で、「優勝するのはこの馬、という人気馬がいたのです」と書き、僕もこの馬の優勝を疑わず、この馬を中心に馬券を買いました。強い強い牝馬で、この時の桜花賞でも断然一番人気でした。その馬は、
「シンモエダケ」
という名前の馬だったのです。

シンモエダケと言えば
あの新燃岳と同じ名ですよね。

ご存知のように、新燃岳は鹿児島と宮崎の県境にある霧島連山にある火山で、11日から噴火が続き、連日新聞・テレビなどで報じられていました

僕は今回のニュースで「シンモエダケ」という言葉が出たので、思わず当時の競馬の馬の名前を思い出したのです。あのレース。断然1番人気で僕も買っていたのに、着外に沈んでしまったシンモエダケ。

そして、そのレースの結果が2-7で、長男の誕生日と一緒だったことの思い出が、いまだに生々しく頭に残っているので、この名前は特に忘れられない名前だったのです。

何だか不謹慎な話だったかも知れませんが、忘れられない思い出なので、書きました。

なお、新燃岳は今日(13日)になって噴火が止まったと言われています。今のところ大きな被害は出ていないようですが、二次噴火の可能性もあるそうで、まだ安心はできないとのことです。

まあ、そんなこともあって、長男が生まれた頃のことはよく覚えているのですが、その長男の子がいま小学校6年生のモミィですからねぇ。月日の経つのは、おそろしく早いです。

 

 

 

~ 1972(昭和47)年桜花賞 ~

シンモエダケは7着でした。

http://jra.jp/datafile/seiseki/g1/ouka/result/ouka1972.html

 

 

 

 

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阪神「首一枚の皮」でつながる?

2017年09月14日 | 思い出すこと

昨日の夕方。
甲子園球場での阪神・巨人戦が始まる前のニュース番組で、野球解説者の吉田義男氏が出ていました。この時点では、首位の広島にはマジック4が点灯していたので、アナウンサーが、
「吉田さん。今シーズンはもう優勝は広島で決まりですね」
と同意を求めると、吉田さんは「いやいや…」と首を横に振り、
「野球は何が起きるかわかりませんから」と言ったのです。
「ほう? まだ望みはあるということでしょうか?」とアナ。
それに対して吉田さんは、
「そうです。まだ阪神は首一枚の皮でつながっていますから」

えっ?
首一枚の皮でつながる…? 
「首一枚の皮」とは?
なんか、違うなぁ。

そうだ。
首の皮一枚でつながる、でしょ。

「首一枚の皮」ではなく、「首の皮一枚」だよ。

吉田さんも、まだ広島の優勝が決定したわけじゃなく、阪神にもかすかな望みが残っているということを言っているのはわかります。そのたとえとして、首の皮一枚はつながっているんだから、と言ったつもりでしょう。でもそれが「首一枚の皮」と表現したのでおかしかったですね~。


この吉田義男さんは、言うまでもなく元阪神タイガースの内野手で、「牛若丸」と呼ばれるほどの華麗な守備で有名でした。僕は子供の頃から大の巨人ファンだったので彼はいわば「敵方」でしたけど、小柄で見た目が優しそうなので、好きな選手でした。

吉田さんは1969(昭和44)年、僕が20歳で北海道への自転車旅行をした年ですが、その年に現役を引退し、関西テレビ(フジテレビ系列)及びサンケイスポーツの野球解説者になりました。

その翌年、大学4年生の時、僕はそのサンケイスポーツ社で夜のアルバイトをしていました。何しろそんな時代のことですから、まだ今のような電子通信機器はなく、野球の記事も、甲子園・西ノ宮・日生・大阪球場など関西で行われるナイターへ新聞記者が行って、球場から社の報道部に電話をかけてくるというシステムでした。で、電話で記者が試合経過や結果の記事を読み上げる。その電話を受けてササ~ッと原稿用紙に書いていくのが僕たち学生アルバイトの仕事でした。かなり早く書かなければなりませんし、字の間違いにも注意しなければなりません。何度も聞き返したり、もたもたしていると記者から怒鳴られます。僕たちは記者が鬼のように見え、慣れるまでは、かなりしんどかったです。

僕たちが電話で聞き取って書いた原稿に主任が目を通し、加筆修正してそれが印刷に回され、新聞記事になるのでした。完成したサンケイスポーツを見て、アルバイトの僕たちは野球記事のあちこちの部分を指さして「あ、これは僕が書き取った部分だ」な~んて言い合ったものでした。

そして僕らのいる報道部に、解説者の吉田義男氏がちょこちょこ姿を現していました。初めてその姿を見た時「あ、吉田や!」と、興奮しましたね。また、記者と同じように球場から「観戦記」を僕らのいるところへ電話で送ってくることも多々ありました。僕も吉田さんからの電話を何度か受けたことがあります。

その中でひとつ、忘れられないのが、電話で、あるプレーをめぐってどこかの監督が激怒したということを言い表すのに、吉田さんが、
「毛髪天を衝(つ)く」
と言われたのでした。
「は?」と僕が聞き返すと、吉田さんは再び、
「〇〇監督は、毛髪天を衝く勢いで怒った」と繰り返されました。
「もうはつ、天をつく」? ちょっと変だ。うむ。…あ、そうか。
それって「怒髪天を衝く」ではないのか?

電話を終え、書き取った原稿を主任に渡しながらそのことを言うと、主任は「あははは」と大笑いをし、
「そやなぁ、怒髪天を衝くやなぁ」
と言ったのでした。

50年近く前のそんなことを、昨日の吉田さんの「首一枚の皮でつながっている」
という言葉を聞いて、また思い出した次第です。それにしても吉田さんは変わりませんね。その当時、すでに現役を引退していたんですよ。一体、いま何歳なんだろうかと調べてみたら、今年で84歳になられています。お元気だなぁ~

さて、プロ野球セ・リーグは、昨日、巨人が阪神に勝ち、広島がDeNAに勝ったので、巨人はDeNAを抜いて3位に浮上(よしよし)。そして広島はマジック4から2となりました。きょう広島が勝って阪神が負けると、見事「優勝!」ということになります。阪神もいよいよ断崖絶壁に立たされました。

吉田さんは「首一枚の皮」は残っている、と昨日の試合前には言われていましたけど、どうやら阪神タイガースの首一枚の皮じゃなく首の皮一枚も、こうなると、切れたも同然かもしれませんね~

 

 

 

 

 

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「山の日」 といえば 思い出すことは

2017年08月11日 | 思い出すこと

今日は「山の日」で祝日だそうですね。
「山の日」?
そんな祝日、あったっけ?

と、日曜・祝日とは縁のない生活を送る僕は、カレンダーを見て思うのです。いつも通っているスポーツクラブでは、僕は「平日会員」なので、土・日・祝の休日は行けません。でも、うっかり今日も行くところでした。もし行ったら受付のスタッフから「すみませ~ん。きょうは祝日なんですけど」と言われて、スゴスゴと引き返していたところです。

小学生のモミィも今は夏休み中なので、余計に「祝日感」というものが希薄になっていますが、今年の場合はたまたま金曜日に当たり、そのあと土・日と、そしてお盆休みが続き、働いている人たちにとっては嬉しい祝日となるのかも知れませんね。うちの長男も次男も、今日から16日まで6連休だと言っていました。その点、僕は市役所に勤めていたので「お盆休み」というのはなく、あまりピンときませんけど。

ところでこの「山の日」は、去年から始まったそうです。昔のことだったらよく覚えているのですが、去年や一昨年のことなどすぐに忘れてしまうので、こんな祝日が制定されていたことも全然記憶にありませんでした。

山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する

というのがこの祝日の趣旨だそうです。当初はお盆休みに直接つながる8月12日が予定されていたそうですが、その日は、1985年、日航機が群馬県の山岳地帯の一つである御巣鷹の尾根に墜落し、520名という史上最多の死者を出した日でもあったので11日にした、と言われています。

う~ん。あの悲惨な事故からも、もう32年経つんだなぁ。自分の長い人生の中でも、テレビニュースで心底から気が動転したのは、この事故の報を聞いた時と、東日本大震災の発生時の津波の映像を見た時の2回です。それほどの大きな衝撃を受けた日航機の事故でしたが、それでも4人の方が生存されていたというのは、まさに奇跡でした。


さて、僕は、山そのものは昔から大好きでした。中学生の頃、山好きの友だちに誘われて、近くにある生駒山や信貴山へよく行きました。もちろん登山というようなものではなく、ハイキングのレベルですけど、山中を流れる小さな川の横で、数人で飯盒炊さんをしたりすると、そんな時は、ふだん感じたことのない解放感に満ちた気分を満喫できたものです。

高校に入り、今度はクラブ活動で山岳部に入りました。いよいよ本格的な山登りに挑むんだ、という気合い十分でした。新入生歓迎会で、先輩たちから「おまえ、見かけによらず根性あるな!」と言われました。「見かけによらず」というのは、僕が小柄で童顔だったからだと思います。じゃ、なんで「根性あるな」と言われたのか?

たぶん、しゃべる声が誰よりも大きかったからでしょうね~

その歓迎会の席で、自己紹介や何か芸をするのですが、その時僕は、大好きだった舟木一夫の「あぁ、青春の胸の血は」を歌いました。自分で言うのもナンですけど、僕は昔から歌がうまいのです(あはは)。先輩たちも「おまえ、歌うまいなぁ」とほめてくれました。そして初めての山は神戸の六甲山への登山でした。そして、その六甲山からわずか数ヵ月後、僕はクラブを辞めたのです(なんや、それは?)。つまり、僕の山岳部での活動は「あぁ青春の胸の血は」を歌ったことと六甲山へ登ったことだけ、ということになります。

なぜそんなに早く山岳部を退部したかと言うと、授業が終わった後の部活の練習がとてもきつかったからです。一例を挙げると、体重が僕の倍近くもありそうな先輩を肩車して、長い距離を歩いたりするのです。もともと身長が低いのに、こんなことをしていたら、15歳の僕の身長はこれ以上伸びないんじゃないか、という懸念が芽生えてきたからです。それで仕方なくやめました。

その代わり、と言えるかどうかわかりませんが、毎週のように高校の同級生と、主に六甲山へ日帰りで登山したり、テントを張って一泊したりして、それが高校生活での一番の楽しみでした。

「山の日」というと、そんなことが懐かしく思い出されます。


で、最後に、前述した舟木一夫の歌のことですが

僕は舟木一夫の大ファンだったのですが、中でも「あぁ青春の胸の血は」は力強く、テンポもよく、勇気も与えてくれた大好きな歌でした。でも、近年は舟木一夫がテレビの懐メロ番組に出ても、歌うのは「高校三年生」や「学園広場」ばかりで、この歌をテレビで聴くことはまずありません。ところが

あの籠池のおっさんの森友学園が設立しようとしていた小学校「瑞穂の国記念小学院」の校歌が、なんと舟木一夫の「あぁ青春の胸の血は」だったのです。あれにはビックリしましたねぇ、ほんと。

テレビニュースで「この小学校の校歌は、こんな歌だったのです」とナレーションが入り、舟木一夫のこの歌が流れはじめたのです。その時は一瞬、ギクッとしたほどです。テレビ画面では、それを聴いた保護者のひとりが「これはどなたが作詞・作曲されたものですか?」と質問をしている音声が流れ、それに対して籠池側が「調べればわかります」という変な答えをしたところで画面は切り替わりました。おいおい。この歌を、こんな小学校の校歌に勝手に使うなよ!

ほんまに、森友学園は何を考えとんねん!
こんな学校の名誉校長になった安倍夫人も、おかし過ぎるわ。

そんなことを思いましたね。

「山の日」から話はどんどんズレていきました。
ま、いつものことですので、ご勘弁を。

 

「あぁ青春の胸の血は」

 

 

舟木一夫が「山」を歌った曲も添付します。
僕はこの歌も大好きです。
これを「山の日」のテーマソングにしてほしいですね。

「はるかなる山」

 

 

 

 

 

 

 

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出発の日

2017年06月17日 | 思い出すこと

梅雨に入ったというのに、雨どころか青天の日が続く。どうなっちゃってるの?

さて、きょう6月17日は思い出の日だ。毎年この日が来ると「あの時のこと」を思い出し、感慨に浸る。

1969(昭和44)年、20歳の学生時代。自転車で東日本一周の旅に出発したのが6月17日だった。大阪から福井~石川~秋田~青森と日本海側を走り、北海道を時計回りに1周して本州に戻り、今度は下北半島から岩手、宮城、茨城、千葉、東京、名古屋と太平洋側を走り、大阪に着いたのが8月25日。70日間の自転車一人旅だった。あれから48年の歳月が経った。改めて「早いなぁ」と驚きます。

「あの日」は朝から雨が降っていた。いざ出発という日に、いきなり雨とはなんだかなぁ、という暗い気分になった。後から知ったが、この日が梅雨入りした日だったそうだ。このころは、今よりも梅雨入りが遅かったようである。それにしても、何も出発の日から雨が降らなくてもいいじゃないか、と、僕は少し天を恨んだ。だけど、その後の旅では、当然ながら何度も雨に遭い、この程度の雨でへこたれてるようではだめだと思い知らされたわけですが。

特に帯広から襟裳岬へ向かって走った時はバケツをひっくり返したような大雨で、海岸沿いの道路は雨宿りする場所さえなく、ひどい目にあったものだった。

70日間の旅はほとんど野宿といういわゆる放浪の旅みたいなもので、そんな中、心温まる人々との出会いや、珍体験、爆笑体験、恐怖体験など、数え切れないほどのハプニングの連続で、その後の人生では決して体験できないことが沢山あった。誠に濃密な70日間だった。

いつか曽野綾子さんの本のこんな文章を読んだことがある。

若いうちから、楽しかったことをよく記憶しておいて、これだけ面白い人生を送ったのだから、もういつ死んでもいいと思うような心理的決済を常につけておく習慣をつけるといい。(中略)。やはり冒険はいいものだ。冒険は心の寿命を延ばす。若い日に冒険しておくと、たぶん死に易くなる。

いつまでも心に残る文章である。

しかしまあ、わが家には小学6年生のモミィがいるので「いつ死んでもいい」という心境になるのはちょっと早いかなと思うんですが、願わくばせめて彼女が成人するまで生きなければ、というところでしょうか。まだ8年ちょっとありますけど。

でも「心理的決済」をつけるのは、それとはまた別のことかも知れませんしね。とにかく、若い日に冒険しておくと「死に易くなる」そうなので、ちょっと楽な気分にもなります(笑)。

 

  
旅の2日目。京都から琵琶湖北上コースに向けて出発。
昨晩泊めてもらった京都の友人に撮ってもらいました。

 

   

 

 

 

 

 

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新大関高安と「法善寺」の関係

2017年06月02日 | 思い出すこと

大相撲でこのたび大関に昇進した高安について、僕はついこの間まで、この力士が大阪出身だとばかり思っていた。まあ勝手に思っていたわけですけど。

実際は茨城県出身だそうだが、思い込みというのは不思議なもので、なぜか高安大阪というイメージが頭から離れなかったのである。大相撲中継を生で見ることはあまりなかったのと、見ても最後の方だけだったので、まだ注目される前の高安は何だか毛深い人だなぁという印象ぐらいしかなかった。そして、大阪出身なんだなぁ、という印象とね。

ちなみに高安はお父さんが日本人でお母さんがフィリピン人だそうです。今場所2横綱を倒して殊勲賞に輝いた小結の御獄海も同じく父日本人、母フィリピン人ということで、何か偶然ですよね~。ま、それは別にいいんですけど。

さて、なぜ高安を大阪出身だと思い込んでいたのかと言うと、大阪府の南東部に高安という地名があり、そのそばに高安山という山もある。近鉄大阪線の路線図を見ると、こんな感じです。


  

上の段の真ん中あたりに「高安」という駅がありますよね。そこです。その高安の2文字が僕の頭にかなり深く刻まれているので、相撲の高安という名前も、そこと無関係とは思えなかったのです。

これには深~いわけがあります(って大げさかな)。

僕は京都の上京区で生まれ、幼稚園の時に母に連れられて大阪に出てきた。義父(つまり母の再婚相手ですが)と3人で大阪市の東住吉区加美という所に住み、中学卒業までそこにいた。で、高校に入ってすぐ、大阪府柏原市に引っ越した。柏原の法善寺というところである。そう、「法善寺」なのです。

年配の人ならここで、
♪ 包丁いっぽん、さらしに巻いてぇ~
と歌い出すところだろう。「月の法善寺横丁」という過去に大ヒットした流行歌だけど、「法善寺」といえば誰でも大阪ミナミにあるこの「法善寺横丁」を思い浮かべると思う。しかし、柏原市にも法善寺はあるのです。 そしてその法善寺と高安は、非常に近い距離です。

先ほどの路線図をもう一度出しますが、「高安」の次が「恩智」で、その次に「法善寺」とあります。

 

その法善寺に僕は高校1年生の時から住んでいたのです。そして法善寺駅から上本町行きの各停電車に乗って、7つ目の駅である長瀬で降りて近畿大学付属高校、さらに近畿大学へと、計7年間通いました。そんなことで、法善寺から2つめにあった高安駅はその頃から僕の頭の中に刷り込まれていたので、「高安」と聞くと反射的この地名が思い浮ぶ。だから相撲の高安も、この高安の出身だと思い込んでしまったようなのです。

ところで、思い起こせば高校時代、クラスメイトに「法善寺に住んでるねん」と言うと、みんな例外なく法善寺横丁か? と聞かれたものだった。「違う、違う」と否定するんだけど、相手はお構いなく「♪ 包丁いっぽん~さらしに巻いて~」と歌って僕を冷やかすのだ。今は懐かしい思い出だけど、その頃は嫌だったなぁ。

結局僕は15歳から25歳までの10年間、法善寺に住んだことになる。20歳の時、北海道へ自転車旅行に出かけた時も法善寺の家から出発したし、22歳で結婚した時も家は変わったけれどやはり法善寺に住み、23歳で長男が生まれ、24歳で次男が生まれ、25歳の時に今の藤井寺へ引っ越してきた。思えばこれまでの僕の人生の中で最も生活が激変した10年だった。高校生になったばかりの15歳から、10年後の25歳の時には2人の子持ちになっているんですからね。

それに比べて最近の10年というのは、モミィと暮らすようにはなったけれど、それ以外には大きな変化もなく、あっという間に過ぎてしまいます。まさに「十年一日の如し」という言葉通りの毎日です。もっとも、この年になると、ジェットコースターのような起伏の激しい人生なんて、送りたいとも思いませんけどね。変化のない普通の生活が一番幸せ、というのが、まあ今の僕の心境ですし。

今日は新大関高安の話から、こんな懐古談になってしまいました。
これも年のせいでしょうか?

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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京唄子さんで思い出すこと

2017年04月11日 | 思い出すこと

漫才師で女優の京唄子さんが89歳で亡くなられた。唄子さんは京都市の上京区西陣の出身だった。実は僕も同じく京都市の上京区西陣で生まれ、幼稚園までそこで暮らしていた。だから唄子さんはどこか身近な人、というイメージがあった。

その唄子さんと、過去一度だけ舞台の楽屋で一緒になったことがある。といっても、僕が漫才師だったわけじゃないですが(そりゃそうでしょ)。

僕が大学1年生の時だから、唄子さんは、計算してみると、その当時は40歳くらいで「唄子・啓助」の漫才コンビの全盛時代だったと思う。

その時、僕は「邦楽研究会」というクラブに入っていた。そこで尺八を習って、演奏会などに出ていたのである。 

 


  
  当時の演奏会の光景。右に立っているのが僕です。


で、その時も、大学が主催した文化祭のような催しだったと記憶している。僕たち「邦楽研究会」メンバーもそこに出演するため、出番を待っていた。その催しに、ゲストとして招かれていたのが、当時人気絶頂だった「唄子・啓助」だったのだ。お2人が出るのは、僕たちの演奏のひとつ前だった。そして…

舞台の袖で僕たちがスタンバイしている時、唄子さんが啓助さんとともに案内されてすぐそばにやって来た。薄暗い場所で、ベンチに腰掛けた2人を間近で見て「あ、これがテレビに出ている唄子・啓助や」と、僕も嬉しかった。

ところが、
いつも楽しい漫才を聞かせてくれるので、普段もさぞ面白いのだろう、と思っていたのだが、見ると2人とも苦虫を嚙みつぶしたような顔をして、ムッツリ黙り込んだまま、一言も物を言わない。唄子さんも啓助さんも、まったく会話もなく、不機嫌そのものの表情をして座っているのだ。これには意外だった。「唄子さ~ん」と声の一つもかけようと思っていた僕も、さすがにこの雰囲気では近寄り難かった。結局、スタンバイ中はずっと2人とも、ムツっとして黙り込んだままだった。

そしていよいよ2人の出番になった。舞台では司会者が、
「今日は、唄子・啓助さんをお招きしております」
と紹介を始め、「ではお2人、どうぞ~~」

すると、
それまでコワ~い顔をして黙って座っていた2人が、椅子から立ち上がるやいなや、急に満面に笑みをたたえ、駆け足で舞台に出て行ったのである。
「皆さん、ようこそ。唄子・啓助です~。ポテチン!」
などと、顔がクシャクシャになるほど顔をほころばせ、漫才を始めたのである。

舞台の横から2人を見ながら、人ってこれほど極端に変われるものなのか? と、不思議な思いがした。あれほど怖い顔をして座っていた2人が、舞台から声がかかると急に笑顔に変貌する。うむ。これがプロというものなのか。

と、京唄子さんと、わずかの間だけれど舞台の袖で一緒にいたこと、そして怖い顔から一瞬で笑顔に変わった時の様子を、今回の訃報を聞いて、改めて思い出した次第である。


    

 

ところで、
この「邦楽研究会」のクラブは、このあと自転車で北海道への旅に出たりしたこともあって長続きせず、途中で辞めました。だから尺八はもう、それ以来、吹いていません。

ホラは今でも、毎日吹いてますけど(何ですか、それ?)。

 

 

 

 

 

 

 

 

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年度末ですね~

2017年03月31日 | 思い出すこと

きょうは3月31日。

年度末ですね。

思い出します。

38年間、勤めた職場を去った日のことを。

あれから、8年が経ちました。

もう今は何の節目もない毎日ですけど(笑)

こちらは、8年前のきょうのブログ「仕事を終える日」です。

         

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/e/621a406566ad9ebed7a961a747af5645

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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高知・中村高校で思い出すこと

2017年03月21日 | 思い出すこと

きのうの高校野球に高知県代表の中村高校が登場した。結果は前橋育英に5対1で負けた。しかし負けてもこの学校は人気がある。愛称は「24の瞳」だ。

中村高校は、かつて12人のメンバーで甲子園に出場し、山沖という好投手を擁して決勝戦まで進み、優勝こそ逃したが、日本中を沸かせた。その時のことは今でもはっきりと記憶に残っているのだが、今回は、40年ぶりの甲子園出場ということだった。これには「げぇっ」と驚いた。
「えっ? もう、あれから40年も経ったのかぁ!」

 …………………………………………………………………………


高知県は、妻の両親(共に故人)の出身地である。
義父は佐川というところの出身だが、義母のほうは中村と縁が深い。今も中村には義母の親戚が多く住んでいるし、妻の兄は中村高校出身で、しかも野球部に属していたそうだ。

そんな縁で、僕も中村を2度訪れている。

最初に行ったのは、四国を自転車旅行をした時だ。

それは1978年のことである。ということは、中村高校が甲子園に出た翌年ですよね(つまり39年前です)。妻の兄が「高知へ行くんやったら、ぜひ中村の身内の家に寄ってほしい。電話しておくから」と言ったので、僕は自転車で高知を通った折にそこへ寄った。身内と言っても何軒もあったが、義兄から教えてもらっていた一番近い身内のおばさんの家に行き、お腹いっぱい土佐料理をよばれ、その日は泊めてもらった。


 
  当時の『国鉄』中村駅の前で。 
  手前が僕の自転車。1978年、29歳の夏でした。


2度目に中村に行ったのはそれから18年後の1996年。
四万十川100キロマラソンに出場した時だった。

この時は、妻と長男が同行した。3人で中村の街を歩いたりしたものだが、自転車旅行の時に泊めてもらったおばさんは、すでに亡くなっておられた。そして、この100キロマラソンのゴール地点が中村高校だった。100キロの距離を走り続け、ついにたどり着いたゴールが中村高校だったから、僕にとっては、この高校はその意味でも忘れがたい。

当時、ここは中村市だったけれど、今は市町村合併で四万十市という市名になり、中村市の名前は消えた。でも、中村高校ががんばっている限り「中村」の名は、これからも忘れられることはないだろう。

それにしても、前回の甲子園出場から40年とは!
ついこの間のことのように思っていたのに。…早いなぁ。

そりゃぁ、年も取りますよね~

 


つけたし

その時のウルトラマラソンの完走証です。 


  

僕のタイムは12時間37分01秒。
出場者783人中458位。
年代別順位は、男子40歳代 305人中184位。
…ということでした。

 

 

 
 
自転車旅行の時のコース。徳島から時計回りに走りましたが、
 左下の赤い丸をつけた「四万十」というのが、当時の中村です。
  

 

 

 

 

 

 

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京都府立医大病院事件とハヤシライス

2017年02月18日 | 思い出すこと

京都府立医大付属病院が、暴力団の組長の虚偽診断書を作成したという容疑事件の報道を毎日見ているうちに、ふと、遠い遠い記憶がよみがえってきた。もうすっかり記憶の奥底に埋もれていたような記憶ですが。

僕は京都市上京区で生まれ、幼稚園の途中までそこで過ごした。そのあと、母に連れられて大阪に出てきたわけですが、小学校の休み期間に入ると必ず、自分が生まれ育ち、祖父母もいる京都の家に遊びに行き、休み期間中のほとんどをそこで過ごした。そんな頃の思い出です。

京都の家は自転車屋だったので、祖父は1日中、店…つまり家にいた。そして、初孫でもあった僕をとても可愛がってくれて、自分の用事でどこかへ出かけるときは、よく僕も一緒に連れて行ってくれた。それはいいのだけれど、祖父は持病(たぶん糖尿病だったような…)があって、定期的に病院へ通っていた。その病院へ行くのも、僕を連れて行くのである。ジイちゃんも病院ぐらい一人で行けばいいのに…とは、小さかった僕は思わなかった。いや、むしろ僕はその日が楽しみだったのだ。なんで…?

それは、祖父が病院の診察を終えた後、帰りに食堂に連れて行ってくれるのが楽しみだったのだ。病院のそばの食堂で、必ずハヤシライスを注文してもらって食べた。その店のハヤシライスが、当時の僕にとっては、この世の中で一番おいしい食べ物だった。

祖父が「今日は病院の日やで。一緒に行くか?」と聞いたら、もちろん僕は「行く行く。ハヤシライスやろ」と返事をしていたに違いない。病院では、待合で座っているだけで面白くもなんともなかったと思うのだが、帰りのハヤシライスは決して逃してはならないのだ。そしてその病院の名前が「府立病院」だった。祖父がいつも「“ふりつびょういん”へ行くで」と言っていたのを思い出す。あれは正式には「府立医大付属病院」だったんだなぁと、いま初めて知ったのである。

そんな古い昔の話を、今回の同病院の偽診断書容疑事件が報じられたことで、思い出した。ハヤシライス→府立病院、という連想で思い出したわけである。それにしても、昔、祖父が通院していたあの「ハヤシライスの病院」が、これほど大きなニュースとして突然自分の目の前に登場してくるとは。…ホントに驚いた。

病院の近くにあったあのハヤシライスのおいしい店は、今もあるのだろうか? なくなっているだろうな、たぶん。

 

 

    
  祖父は僕が12歳の時に亡くなった。


   
このころの僕はハヤシライスが大好きだった!

 

 

 

 

 


 

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モミィとの珍問答

2017年02月10日 | 思い出すこと

昨日、このブログに「モミィちゃん、大きくなってますね~~」とのコメントをいただいた。僕が初めてブログというものをネットに載せたのが2005年の7月か8月だった。それから数ヵ月して、モミィが生まれた。そのあと、ブログはいくつか変えたけれど、時々モミィの写真を載せていたので、そういう写真をご覧いただいていた方は、やはり最近の写真を見ると「大きくなった~」と思っていただけるわけですよね。

先日、昔のモミィのことを書いた日記を読み返していたら、モミィの4歳の頃の話が出てきたので、懐かしかった。その頃のモミィは、何を見ても「なんで? なんで?」を連発する子だった。

ありますよね。子どもには、何でも疑問に思って手あたり次第「なんで?」って聞く時期が。

モミィが4歳の2009年(平成21年)の12月のことである。

僕は翌年の手帳を買おうと思って、駅前のジャスコへ行こうとした。部屋で遊んでいたモミィに「一緒に行く?」と声をかけると、「ええよ」と言って、ひょこひょことついて来た。

モミィを自転車に乗せ、ジャスコに到着し、手帳を買うために「本屋さんへ行くよ」と言った。書籍売り場は4階にある。そちらへ向かうと、「本やさんへ行くの?なんで本やさんに行くの?」と言う。4歳のモミィは、元々よくしゃべるけれど、最近やたら「なんで?」を連発する。たとえば、「なんで電信柱があるの…?」 とか、「なんで坂道って、あるの…?」 とか、次々と難問を発する。

この時も「なんで本やさんに行くの?」と聞くので、「手帳を買いたいねん。だから本やさんに行くわけ」と答えた。 

すると、「本…って、なんで本と言うのん?」とまた難しいことを聞く。
「本はね…、昔から、本て言うねん」…自分でも何を言っているのやら。

「そしたらね、本やさんの、やさん、って何のこと?」
「うぅ…。何かを売っているのを『や』と言うて、それに『さん』をつけるの」
「何かを売っているところが “やさん” なの?」
「そうや。お肉を売っていたら、お肉やさん。魚だったら、魚やさん」
と会話をしながら、洋服売り場の前を通ったら、
「そんならここは服やさんやねぇ」と言う。
「当たり~ わかっとるがな。えらい、えらい!」

次に、手相を見るコーナーの前を通った。
大きな手のひらの絵が描かれた看板がかかっている。
お客は誰もおらず、ひとり手相見らしきおばさんが、ちょこんと座っている。

モミィは、手の絵のある看板を眺めたあと、僕のほうを向いた。 
そして、大声で、
「ここは『おててやさん』やなぁ。おてて、売っているんや」

僕は思わず周囲を見まわした。そして、声を潜めてモミィに言った。
「おてて? 手…?  まさかぁ、手は売ってへんわ。手相やがな」
「手相…? 『てそう』って何…?」 
「え~っ? 手相か…? 手相言うたらなぁ…」
と、僕はしどろもどろになりながら、言葉を探す…。
「あぁ、誰か、かわって~!」と心の中で叫びながら。

この当時のモミィとは、ずっとこんな調子の会話が続いたものである。

ところが最近では…

去年から普通の新聞と併せて日刊の「朝日小学生新聞」というのを取っている。何でも文字があれば読みたがるモミィなので、妻が社会の学習の一環として取ってやった新聞だが…

あるとき、モミィはその新聞を読みながら、僕のほうを向き、
「ねぇ、『だんじょかくさ』(男女格差)って何?」
というような質問をしてきたのである。日本は、諸外国に比べてまだまだ男女格差が大きい、という記事を読んでのことだろうけど。

「おてて、売ってるの?」という質問から7年経った今、こんな「男女格差って何?」みたいな質問が飛び出すのです。

ホント、早いですね~ 子供の成長というのは。


 


   
     モミィ4歳の頃(2009年12月撮影)。

 

 

 

 

 


 

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