電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

担当者とサンプルデータ

2006年04月16日 12時05分09秒 | コンピュータ
朝日新聞の土曜版"be"には、ときどき興味深い記事が掲載されるので、楽しみにしている。昨年の12月3日付けでは、「あなたもうっかり漏らすかもしれない」というサブタイトルつきで、「個人情報取り扱い注意」という記事が掲載された。この中で、興味深かったのは、実は漏洩の原因となった理由のグラフだった。

2004年の情報漏洩について、日本ネットワークセキュリティ協会セキュリティ被害調査ワーキンググループが分析した、漏洩の原因と被害者の数がグラフ化されている。
漏洩件数としては、盗難やうっかりミスが多く、被害者数としては内部の不正や外部委託先などの不正が多い。不正アクセスなどは誤操作などと同様で、比率としてはごく少ない。

だいぶ昔の話になるが、ある発表会で立派な内容の発表を聞いた。ところが、そのシステムのサンプルデータの画面として、おそらく職場のスタッフであろうと思われる数名の女性を含む氏名やアドレスが読み取れた。私も若かったので、思わず挙手をして、サンプルとして個人の実データを用いることは不適切であり、各フィールドごとに想定される入力ミスの例を網羅し、堅牢性を確認できるものとすべきであり、プログラマはサンプルデータの質をもっと重視すべきだ、と意見を述べたことがある。専門的な教育を受けたわけではない一ユーザーの僭越な意見を、発表者は前向きに受け止めてくれた。(氏は、現在は重要なポストで活躍しているようだ。)

さまざまなシステムを外部委託する際に、サンプルデータとして生データを渡してしまい、それが流出して大きな問題になっている例が報道される。大規模システムでは話は別だが、実はサンプルデータとしてはデータの件数(レコード数)はあまり問題にならないことが多い。データの項目(フィールド)がどうなっているか、またその関連性がどうなっているかがわかれば、システムの外部委託は大丈夫なことが多い。

世の中では、専門的な知識を持たずに、たまたま業務の担当者となる場合も少なくない。決裁する上司はなおさらわからない例も多かろう。担当者となってしまった場合は、生データのコピーをサンプルとして渡してはならない。また委託を受ける場合には、生データをそのまま受け取ってしまうことは避けたい。少なくとも、どのようなサンプルデータを提供する(提供を受ける)ことが必要か、担当SEと十分に打ち合わせ、細心の注意を払う必要のあることだ、という認識を持つべきだろう。
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宮城谷昌光『孟嘗君』第3巻を読む

2006年04月15日 16時39分38秒 | -宮城谷昌光
講談社文庫で、宮城谷昌光『孟嘗君』を再び読み始めた。今日、第三巻を読了。このWEBLOGによれば、ちょうど1年前の4月に、第2巻の記事を投稿(*)し第3巻について書こうとしたら、サーバがこみ合って記事が消失したことがわかる。最近はゴールデンタイムを避けているので、記事の消失という事態は経験していない。これはシステムの強化あるいは表示の工夫などが効果をあげているためもあるのだろう。

「決闘の時」では、捕えられた妻・翡媛(ひえん)を救うべく、単身で花館に乗り込む養父の白圭を田文は尊敬する。花館においてクーデターを計画していたのは、趙を頼る公子緩を中心とする公孫頎と政商・恢蛍らの一味だった。孫子をかくまいぬいた白圭らは、恢蛍を討ち果たすため、国境へ向かう。
「東方の風」の章では、斉召と厳建、白圭、そして鄭両らが斉巨の仇である恢蛍を討ち果たす。斉に戻ることができない翡媛は、孫子の助言に従い翠媛(すいえん)と名を変え、田忌将軍のもとに身を寄せる。白圭が戻れば斉の貴族・田嬰の実子である田文と翠媛との別れが近づく。
「斉の軍師」の章では、孫子がいかにして斉王の信頼を得て軍師となるかを描く。競馬で王の駿馬に勝つ方策を献じた孫子は、田忌により王に推挙され、魏に攻められた趙を助けるために、田忌将軍に従い出発するが、その背後には宰相・鄒忌の悪意があった。
「桂陵の戦い」では、孫子の兵略により、田忌の率いる斉軍が四万の魏軍を打ち破る。田文は生母・青欄に会うが、実父・田嬰は鄒忌の悪意により壊滅の危機にあった盟友の田忌を救うため外交交渉にあたる。
「再会」の章では、田文が夏侯章らの友人を得て成長するが、田嬰を仇と誤信する隻信の娘として育った蘭と運命的に出会う。田嬰の毒殺は未然に防いだものの、田嬰は文が実の子であることを知る。田文の優れた資質を田嬰家の人々は知るようになるが、田文は暖かい家庭を知らず、白圭と翠媛を思いながら孤独な生活を送る。
「馬陵の戦い」の章では、秦に唆された韓が魏を攻める。孫子に師事し孫子の真価を知るがゆえに、他国に奪われるより孫子を殺そうとした龐涓(ほうけん)は、将軍として出撃し、韓軍を撃破する。斉の威王は韓を助けると決意し、孫子を陰の元帥とし、田忌・田肦の二将軍を急派する。これが多くの説客を率いた田文の初陣であった。孫子の兵略は冴え、龐涓(ほうけん)はハリネズミのように多くの矢を受けて死ぬ。

この巻から、白圭が次第に後景に退き、田文が主人公として登場してきます。このあたりの自然な展開が実にうまい。

ところで、田嬰がなぜ実子・田文を赤ん坊のうちに殺すことを命じたのか。それは五月五日生まれの子どもは不吉だからだというのですが、ではどうして日本では五月五日が子どもの日なんでしょうね。ちょっと理解できません。

(*):宮城谷昌光『孟嘗君』第2巻を読む
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メルカダンテ「フルート協奏曲 ホ短調」を聞く

2006年04月14日 20時37分26秒 | -協奏曲
通勤時間が短くなり、生活にはたいへんゆとりが生じたが、通勤の音楽を楽しむ時間は半減した。この一週間、ずっとサヴェリオ・メルカダンテの「フルート協奏曲集」を聞いてきたが、通勤時間にはこのくらい一曲の長さがちょうどよい位だ。

サヴェリオ・メルカダンテは、ベートーヴェンがピアノ協奏曲第1番を作曲した年である1795年に、イタリアの南東部に生まれた。少年時代にあたる15~6歳頃は、ベートーヴェンがピアノ協奏曲第5番を作曲し、弦楽四重奏曲第10番「ハープ」や第11番「セリオーソ」、あるいはピアノ三重奏曲「大公」などを完成している時期にあたる。
この「フルート協奏曲 ホ短調」は、作曲者24歳の1819年に、ナポリで作曲されたものだとか。ウィーンでは、ベートーヴェンが交響曲第9番や、弦楽四重奏曲第12番を作曲している。第1楽章は、ベートーヴェンと同時代であることを感じさせる、ホ短調のアレグロ・マエストーソ。劇的な表情を持った美しい弦楽合奏によるバックに、フルートの流麗な主題が流れる。第2楽章ラルゴは、ト長調の晴朗な旋律が魅力的だ。第3楽章ロンド・ルッソ、アレグロ・ヴィヴァーチェ・エ・スケルツァンドは、ト長調のはずむような音楽。ロシア風のはずむ主題によるロンドによるフィナーレ。これもとっても魅力的。

■ランパル(Fl)クラウディオ・シモーネ指揮イ・ソリスティ・ヴェネティ盤
I=9'02" II=4'03 III=6'21" total=19'26"

写真は、雪解けで増水した川の激流のクローズアップ。
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職場の歓迎会

2006年04月14日 06時40分08秒 | Weblog
昨夜、職場の歓迎会がありまして、楽しく過ごしました。会場は蔵の二階。フローリングの床に座蒲団で、なかなかおしゃれです。店内にはジャズヴォーカルが静かに流れ、たいへん雰囲気もよろしい。とても気に入りました。
酒量はあまり上がらず、しかしメンバーの気炎は上がり、爆笑です。ああ楽しかった。
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美しい夕焼け

2006年04月12日 20時50分16秒 | 散歩外出ドライブ
日が長くなり、帰宅時にもまだ明るい。今日は、美しい夕焼けを見ることができた。岩波新書で『詩の中に目ざめる日本』という詩集があったが、その中の「なんと美しい夕焼けだろう」という一節を思い出す。たしか、茨木のり子さんだったか。若い詩人の、孤独だがりんとした姿勢をうかがわせる作品だったと思う。現物はもうどこかに行ってしまい、発掘することも困難だけれど、若い頃に読んだ内容がなぜか忘れられない。
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シューベルト「ヴァイオリンのためのソナチネ第1番」を聞く

2006年04月11日 20時37分04秒 | -室内楽
今日聞いているのは、シューベルトのピアノとヴァイオリンのための「ソナチネ第1番ニ長調作品137-1」だ。CDは、ディアゴスティーニのCDつき雑誌の付録で、バンベルク・デュオとの表記がある。この表記がどこまで信用できるのかわからないが、冒頭、ピアノとヴァイオリンがユニゾンで歌いだす。第1楽章、アレグロ・モルト。第2楽章のアンダンテもまた、優しい情感のある音楽だ。第3楽章、アレグロ・ヴィヴァーチェでは、情熱の激しさをも感じさせる。
演奏時間は、
I=4'11" II=4'51" III=4'21" total=13'23"
となっている。

実は、1970年代に、クラシックのLPレコードで1000円盤ブームがあった。中でも、エラート1000シリーズというのがあり、当時日本コロムビアから発売されていたエラート・レーベルの録音が、白地に花環をあしらったお洒落な体裁で、多数リリースされた。私もだいぶこのシリーズのお世話になり、たくさんの音楽を知ることができた。
最初にこの曲を知ったのは、やはりエラート1000シリーズの中の、シューベルト・ヴァイオリン作品全集[2]というレコード(RE-1041-RE)だった。これは、ミシェル・オークレール(Vn)とジュヌヴィエーヴ・ジョワ(Pf)による演奏で、決して当時の最新録音ではないが、可憐なシューベルトのヴァイオリン音楽をかなり網羅的に知り、親しむことができる、ありがたいレコードだった。

大家による巨大な音楽と演奏ばかりをもてはやすのは、一種の事大主義なのだということを知るようになって、こういう身近で親しみ深い音楽と演奏の価値がわかるようになった。これは、廉価盤レコードの恩恵の一つだろう。ヴァイオリンやピアノを趣味にしている人は、家庭的な雰囲気の中で合奏する楽しみを感じることができる。

オークレール盤の同曲の演奏時間は、total=13'03" となっている。

なお、写真は東京旅行で撮影したスナップの中の一枚で、桜の花が満開の路地。当地でも早く桜の花のたよりが聞かれないものか。
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カスピ海ヨーグルトの冬越し

2006年04月10日 20時13分06秒 | 料理住居衣服
ようやく寒さもやわらぎ、日中は春らしい陽気に近付いてきた。ほぼ十年ちかく培養し続けている自家製ヨーグルト、今年もなんとか冬越しできて、ほっとしている。
常温で増殖する乳酸菌が主体の、いわゆる「カスピ海ヨーグルト」だが、さすがに真冬には増殖速度が低下してしまう。そのため、お手ふきタオル程度の大きさのタオルでくるみ、常時通電していてほのかに暖かい家電製品、たとえばビデオの上に置いたり、お湯をわかすポットのわきに置いたり、いろいろ工夫して冬越しをさせてきた。逆に、ブルガリア・ヨーグルトを作る、いわゆるヨーグルトメーカーのような電熱方式の機械のように温度が高過ぎると、乳酸菌が死滅してしまう。やはりカスピ海ヨーグルトは常温が一番いいようだ。こんな方法で、近年はまったく失敗もなくて、安定して培養できている。

春らしく、スーパーにいちごが出回ってきている。ヨーグルトといちごはよくマッチする。季節の果物とあわせて食べることで、ここ何年も便秘知らずだし、ビールを飲み過ぎてお腹をこわした時も、回復が早いように思う。先日の新聞に、各地で牛乳が生産過剰ぎみになっているとの報道があったが、我が家では、自家製ヨーグルトを作るために、牛乳の1リットルパックをずっと切らしたことがない。酪農の生産者団体の立場からは、たぶん表彰ものだろうと思う。

写真は、岩手県の小岩井農場の朝の絵。老父のお気に入りの絵だ。
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ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」を聞く

2006年04月09日 19時54分48秒 | -オーケストラ
夕べ遅くコーヒーを飲んだら、なんだか目が冴えて眠れず、寝不足気味です。おかげで今朝の道路清掃ボランティアも、早朝にもかかわらずしっかりと間に合いました。
今日は、道路にかかる樹木の枝を切り取る作業が中心でした。路地にかぶさる杉の木の上部から落雪があって危険なため、持ち主の了解を得て思い切って伐採します。軟弱な私などとは違い、田舎のご近所パワーはすごい。七十翁がするすると木に登り、ロープ一本を命綱に、チェーンソーでたちまちきれいに枝を払ってしまいました。それだけで終わらず、幹に切れ込みを入れたかと思うと、「そ~れ」という掛け声とともに丸坊主になった幹の先端にかけたロープを引き、あっという間に倒してしまいました。本来ならば、持ち主の家の人が往生する後片付けも、ご近所パワーでまもなく終了。見事です。

朝食後もすっかり気分が高揚していて、アンプのボリュームを上げてドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」を聞きました。ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団による演奏、ついでヴァーツラフ・ノイマン指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団による演奏です。

こういう超有名曲になると、逆にめったに聞かなくなる傾向があります。実際、最近では手に取る機会もそう多くありません。クラシック音楽を聞き始めた頃には、本当に大好きで、何度も何度も飽きずに聞いていたものでした。ナマの演奏会でも、山田一男指揮の日本フィルハーモニー交響楽団、村川千秋指揮山形交響楽団など、何度か力の入った演奏を聞いています。でも、今日はまた格別です。春とはいえ風は冷たく野外の作業はこたえますが、大きな樹木を切り倒し、近所の人と共同で運搬する労働のあとに聞くドヴォルザークは、なんだかやけに爽快です。

セルの演奏、リズムがとても正確で、感傷的な要素はみじんもありませんが、それでいて表情に人なつこいところもあり、第二楽章でぐっとテンポを落とすところなど、決して機能性重視で速いばかりの演奏・表現ではありません。第四楽章のスポーツ的な高揚感・速度感は、いかにもモダニスト・セルらしい演奏です。
ノイマン盤(CD)では、第一楽章の冒頭のあたりで派手に金管を鳴らしますが、全体にはゆるやかで柔らかなフレージングで、穏やかな「新世界」の印象。第二楽章では、思わず一緒に歌ってしまいます。なお、これは余談ですが、ノイマン盤は DENON の My Classic Gallery の中の1枚で、カバーがちょうど今朝切り倒した杉の木のような写真です(^_^)/

■ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団(CD:CBS MYK-37763, LP:CBS-SONY SONC-10142)
I=8'38" II=12'07" III=7'51" IV=10'54" total=39'30"
■ヴァーツラフ・ノイマン指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(DENON GES-9220)
I=9'34" II=11'31" III=8'14" IV=11'19" total=40'39"

参考までに、LP時代からやはり好んで聞いているクーベリックの演奏データも併記しておきます。こちらも高揚感のあるいい演奏です。
■ラファエル・クーベリック指揮ベルリン・フィルハーモニー(独グラモフォン 463 164-2)
I=9'24" II=13'00" III=8'05" IV=11'48" total=42'17"
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書棚を整理し、雑誌を処分する

2006年04月08日 22時14分23秒 | 手帳文具書斎
午前中、娘の嫁ぎ先の両親が訪ねて来ているとのことで、夫婦でご機嫌伺いに出かけ、お昼を御馳走になってきた。メニューは富山の鱒ずしと山梨の忍野のうどんで、鱒ずしのほうは出張や登山などの際に駅弁で食べたことがある。山梨のうどんは初めてで、細いけれどコシがあり、刻みネギとミョウガを薬味にして、たいへんおいしかった。孫のほにょリータは、もう「つかまり立ち」と「はいはい」をするようになっていた。子どもの成長は早いものだ。

午後、書棚の整理をする。雑誌を中心に整理をして、ブックオフに持っていった。付録もそろった雑誌ASCIIの2001~2002年頃の号はちゃんとお値段がついたが、1998年ごろの Windows DTP Press のほうは、全くお値段がつかなかった。それでも、書棚に若干の空きができたので、たいへん助かった。明日も引き続き、カセットテープ類の処分をする予定。生録音やエアチェックなど、テープしかないものは残し、CDと重複する音楽ものは処分する方針。
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部屋が片付かない!

2006年04月08日 07時59分49秒 | 手帳文具書斎
最近、本があふれてきました。書棚の中身は少しずつ入れ替えてはいるのですが、取り出すよりも増えるスピードが速く、追いつきません。これは、やはり抜本的な対策が必要なのでしょうか。しかし、本棚等を増やしてスペースを狭めたくはない。う~む、どうしようかなぁ。

■対策の案
(1)資料的価値のなくなった古い資料を処分する
(2)特に、古くなったコンピュータ関係書籍を一括処分する
(3)家族の減少にあわせてパソコンの台数を減らし、関連マニュアル類を処分する

The UNIX Super Text の旧版なんて、もういらないよなぁ。新版も買ってあるし。そんな観点で見ると、ずいぶん重複がありそう。ビル・ゲイツ本も立花隆の本も、多分もう読まない。各種の入門的な本も、もういらないものが多い。
本棚の中でも、中段は比較的動かしているので、鮮度が保たれている。今回は、最上段と最下段を重点的に処分することにしましょう。

写真は、部屋のほぼ中央から書棚を見たところ。カメラ位置の右後ろにピアノが、背中側に、パソコン用デスクと事務机と書棚がもう一つあります。居住スペースがゆったりと取れるのは、田舎暮らしのよさでもあります。
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ルービンシュタインのシューマン「幻想小曲集」を聞く

2006年04月07日 21時21分18秒 | -独奏曲
子どもの大学の入学式に便乗して敢行した熟年夫婦の東京旅行の数少ない成果(?)の1つである、アルトゥール・ルービンシュタイン(Pf)によるシューマンのピアノ作品、「謝肉祭、幻想小曲集」のCD(BMG BVCC-35076)を聞いています。先週から休みなしの生活でしたが、花の金曜日、ようやくほっとしています。
シューマンのピアノ作品の中でも、「謝肉祭」は大のお気に入りの一つですが、週末の夜はもう少しゆったりとした気分で、作品12のピアノによる「幻想小曲集」を聞くことにしたものです。

ルービンシュタインは、「幻想小曲集」を何度も録音しているようで、このCDに録音されているのは、1962年4月および12月に、ニューヨークのマンハッタン・センターで演奏されたものです。
(1) 夕べに 4'06"
(2) 飛翔 3'21"
(3) なぜに? 3'12"
(4) 気まぐれ 3'45"
(5) 夜に 3'48"
(6) 寓話 2'32"
(7) 夢のもつれ 2'30"
(8) 歌の終わり 5'36"
total=28'56"
まず第一印象は、「音が古い!」でした。ねぼけたような低音は、ホールに響く音を重視せず直接音だけをとらえようとした、1960年代初頭の録音思想と技術の制約によるものでしょうか。長くLPで親しんできた、ルービンシュタイン最後の感動的な録音である、1976年の同曲(RVC RVC-2150)と比較しても、低音の鮮度は格段に違うように感じます。
しかし、そんな不満はほんの最初だけ。あとは、見事な演奏に酔うばかりです。LPに収録された1976年のロンドンでの演奏も、total=28'10"となっておりますが、テンポにそれほどの違いは感じられません。
写真は、最初のきっかけとなったFM放送をエアチェックしたカセットテープと、1977年に千葉県で購入したLPです。私には、ヤン・パネンカ(Pf)の「謝肉祭」の演奏とともに、ルービンシュタインの「幻想小曲集」の演奏が、無条件で楽しめる宝物となっています。
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春の交通安全運動が始まる

2006年04月06日 20時27分42秒 | Weblog
朝、寒い寒いと思ったら、雪がちらちら舞っていた。CDでメルカダンテのフルート協奏曲を聞きながら出勤すると、道路脇にやけにカラフルなウィンドブレーカーの列が目に付いた。そうだ、今日から交通安全運動が始まったのだった。
黄緑色のウィンドブレーカーは、かり出された若妻会の人たちだろうか、若い女性が多く、手を袖の中に入れて、寒さにふるえているようだ。オレンジ色のヤッケは老人クラブか。長靴をはいて手袋をして、完全防寒スタイルでのぞんでいる。年の功で、さすがに準備がいい。
毎年のことながら、こんなことで効果があるのかと疑問にも思うが、中には順番が割りあたったために、勤務を休んで参加している人もいるだろうと思う。担当の警察職員も、そのあたりの事情は重々承知だろう。一般の人がたくさん参加する春の交通安全運動、もしかすると一番効果があるのは、おまわりさんたちの意識の引き締めだったりするのかもしれない。

なにはともあれ、みなさん、運転にはお気をつけください(^_^)/
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山本周五郎『ながい坂』下巻を読む

2006年04月05日 21時33分05秒 | 読書
三浦主水正を暗殺するために、五人の刺客が来ると言う。新藩主擁立を狙う一派の策動に、城代家老の交替と堰堤工事の中止が決まり、主水正はななえと赤子を連れて、百姓として身を隠す。襲撃を乗り越え、開墾地でじっと身をひそめている間にも、流産したななえはぬけがらのような暮らしを送る。ある日、馬を走らせてきた妻つるから、藩主の様子が不審だと聞かされる。もしかすると、藩主は替え玉なのではないか。疑惑が広がる。
主水正の子・小太郎が、ちょっと目を離した隙に川に落ち、死亡する。その衝撃に、ななえは耐えられない。主水正の子をまた宿すのではないか、そしてまた不幸になるのではないか。そう恐れるななえは、自ら主水正の元を去る。主水正が身を潜める長屋に、藩主昌治が生きており、幽閉されているとの情報がもたらされる。藩主のもとに忍び入るが、敵の自滅の日が近いことを確信する昌治は、逃亡を拒否する。藩内の商人五人組は、新藩主擁立を目指す勢力が引き入れた卍屋すなわち江戸の三井によって打撃を受け、藩主昌治と三浦主水正の復活にかけようとする。そして主水正は、妻つるの守る、自分の屋敷に戻る。
34歳になった妻つると初めて心を交わしてから数日後、主水正は登城を命じられ、領内測量の功により、公儀よりお褒めの言葉を賜わる。五人組にも世代交替の時期が来ており、危機感を持つ抜け目のない息子達を一人一人確かめる。妻つるは抑えてきた情熱を夫にぶつけ、やけに色っぽく変身する。とても上巻の銀杏屋敷の場面を経てきた同じ女性とは思えない。
城代家老の息子として、その後を継ぐべく育てられた滝沢兵部は、放蕩の限りをつくし、父主殿から見放されているが、妻子ある身で山中で絶望に苦しむ姿を森番が見ていた。主水正のもとを離れたななえは、芸者として出たお屋敷で、主水正を陥れる企みを聞き、情報を主水正に伝える。また、森番は滝沢兵部の苦しむ姿を主水正に伝えるが、主水正は、それが酒毒による苦痛だけでなく、再生への苦しみでもあることに気づく。
江戸で、老中松平定信が辞任し、藩主昌治は家臣一人を連れてひそかに老中青山大膳亮をたずね、供回りの借用を願う。幕府の威光を背景に江戸上屋敷に乗り込むと、反対派を一掃してしまう。かくしてクーデターの無血鎮圧は無事成功する。
このあとの物語は、淡々と進む。最後に、帰国した藩主昌治が三浦主水正に城代家老を命じたとき、主水正は十日の猶予を願う。それは、酒毒に侵されたライバル滝沢兵部を救い、次席家老とするためであった。

ほろ苦さを残しながらも、最後のハッピーエンドはいかにも人を信じる山本周五郎らしい終わりかただと思う。滝沢兵部が破滅して行く姿を対比させるだけなら、三浦主水正は結局は利己的な出世主義者でしかないと言われかねない、作者はそう恐れたのではないか。
ただ、三浦主水正が権力の味に溺れない理由を、苦しさの独白という形で描いているが、ちょっと楽天的に過ぎるのではないか。加藤紘一氏が愛読書としてあげていた藤沢周平の『風の果て』は、まさにこの権力の味を描いている。同様に立身出世し家老となった男が、手にした権力の味に気づくところは、やけにリアルだった。
それと、妻つるがずいぶん変身するけれど、銀杏屋敷の場面はやはり違和感がある。後半の夫婦の情景だけでもずいぶん色っぽいのだから、あの下品な描写はないほうがよかった。作者のサービス精神ゆえとは思うが、せっかくの作品の価値をだいぶ下げているように思う。
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山本周五郎『ながい坂』上巻を読む

2006年04月04日 21時36分08秒 | 読書
8歳の時に父親とともに釣りに行く途中、いつもの小道にある橋が壊されていた。それを誰も咎めるものがいない。理不尽ではないか。偶然に目撃した藩の抗争事件についても、口をつぐみ誰も何も語らない。この現実を正したい、そう決意した阿部小三郎は、学問と武芸に励み、頭角をあらわす。主水正と名を改めた頃、藩内の名家の一つ山根家から、評判のじゃじゃ馬娘の婿にと縁談が来るが、婿養子には行かないと断る。火事の最中に、20年前の大火の時と条件が似ていることに気づき、出仕先の奉行に断り、素封家に米の提供を依頼すると同時に、焼け出された人々を寺に収容することを依頼し、奉行名で村人に炊出しの人手を出すことを命じて回る。家々の再建に従事する賃金を倍増するとともに、被災者の税を一年間停止し、短時日のうちに町の再建を果たす。これがみな、まだ二十歳にもならない若い平侍の阿部主水正の手柄だった。
藩主の昌治に認められ、断絶した三浦家の家名を継ぎ、山根家のじゃじゃ馬娘を娶るが、この高慢な娘つるは平侍出身の主水正を認めようとしない。主水正が25歳になるまで寝所も別にし、真に夫婦とはならないという。それどころか、これみよがしに遊び回る。家老の嫡子・滝沢兵部は主水正をライバル視するが、主水正は明らかな対決を避け、荒地に水を引き、ひそかに開墾する計画を練る。
仕事に打ち込む夫が自分を振り向いてくれないことに、気位の高い妻つるは業を煮やす。あげく、銀杏屋敷での乱痴気さわぎに明け暮れる始末。藩内の商人五人組が、主水正の幼なじみの武高ななえを別宅に住まわせ、主水正を取り込もうとする。恩師から、手中に入り敵の内情を知ることも必要と諭され、ななえのもとに通うようになると、夫に思い知らせることに固執する妻つるの心中はおだやかでない。
江戸勤めにより測量を学んだ主水正が帰国し、やがて藩主飛騨守昌治のきもいりで開墾地の測量が始まる。これに対する妨害も発生する中、新藩主擁立を企て藩主昌治の排斥運動が起こる。ななえに子どもができ、妻つるは孤独をかみしめる。

山本周五郎らしい力のある物語の展開です。長編だけに、一つ一つのエピソードが後からじわりと効いてきます。思わず読みふけってしまう面白さがあります。
ただ、主水正の独白の場面はやや説明的というか弁解がましい。また、いくら気位の高いじゃじゃ馬娘でも、銀杏屋敷の場面で平然とあられもない同性の姿を眺めているのは不自然。このあたりは、大衆小説の読者に向けた、少々下品なお色気サービスにすぎないように思います。

藤沢周平の『風の果て』と、設定も展開もよく似ています。山本周五郎の『ながい坂』では主人公が婿養子には行かないと断りますが、藤沢周平作品のほうでは、主人公が婿養子に行って物語が展開されます。このあたりの想定は、女性に対する作者の優しさの差でしょうか。
さて、主水正とつるの運命が急展開する下巻の内容は、また次回。
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シューマン「弦楽四重奏曲第3番」を聞く

2006年04月04日 19時49分42秒 | -室内楽
大都市には大都市の良さがあるけれど、田舎に戻ってくるとほっとする。休日を全部費しての東京滞在を終え、昨日から再び仕事の日々が始まった。まだ慣れないためか緊張感が強く、いらぬ神経を使う。帰宅してから、R.シューマンの「弦楽四重奏曲第三番イ長調」を聞く。演奏は、ヴィア・ノヴァ四重奏団。
(1)第1楽章 アンダンテ・エスプレッシーヴォ、6:57
(2)第2楽章 アッサイ・アジタート、6:51
(3)第3楽章 アダージョ・モルト、8:35
(4)第4楽章 フィナーレ、7:19
シューマンの室内楽の年である1842年に産まれた曲だが、優しさと前向きな情熱を感じさせる音楽になっている。三曲ある弦楽四重奏曲のうちで一番好きな曲だ。
ディケンズの『オリバー・ツイスト』が書かれたのが1838年、『クリスマス・キャロル』が1843年というから、実際の社会は小説に描かれているような悲惨な境遇にある人が多かったのだろう。恵まれた環境で幸福いっぱいのはずのメンデルスゾーンの弦楽四重奏曲がある種の悲壮感や怒りを感じさせたりするのは、そんなせいもあるのかもしれない。だが、本作品の楽想の影には、あまりそうした深刻で悲劇的な要素は感じられない。ベートーヴェンやモーツァルト、ハイドンなどの同ジャンルの作品を研究し、意欲的に挑戦しているようだ。きわめて多産な時代のR.シューマン。
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