電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

明日から関西出張、数日お休みします。

2006年01月15日 21時57分55秒 | Weblog
明朝から関西出張、数日間お休みをいたします。携帯CDプレイヤーと文庫本を手に、雪道のドライブではできない楽チン移動の時間を楽しんで来たいと思います。今回は、いつものノートパソコンは持参せず、きわめてアナログな(アナクロな?)旅です。禁酒禁煙というのは聞いたことがありますが、禁パソというのはあまり聞いたことがありません。禁断症状が出ないか、やや心配な面もありますが、活字の禁断症状よりは弱いのではないかと思います(^_^)/
(1)デジカメ、携帯電話、CDプレイヤーの充電、OK
(2)文庫本、『大いなる遺産(上下)』『霊験お初捕物控(2)』『バッハ』
(3)音楽CD、フランク「Vnソナタ、Vcソナタ」J.S.バッハ「無伴奏チェロ組曲」
以上、準備OK。
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老父の同年齢存命者の喫煙率

2006年01月15日 19時56分23秒 | 健康
先に直腸ガンで命拾いをした80代の老父、同級生の一人が先日逝去し、また寂しくなったという。同級生の存命者は現在10名程度とか。大正時代に生まれ、昭和を生きぬき、平成の世を見た目には、同世代の特質がよくわかるのだろう。同級生の喫煙者で「80まで生き残った者は一人もいない」とのこと。戦争でさえ生き残りがいたのに、タバコは生き残りを許さなかったことになる。この数字が、医学的に・統計的にどの程度意味のあるものかはわからないが、個人的に一つの指標として大事にしたいものだと思う。
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宮部みゆき『霊験お初捕物控・震える岩』を読む

2006年01月15日 17時59分22秒 | 読書
『ぼんくら』が面白かったので、宮部みゆき作品の文庫本を何冊か購入してあった。その中から、『霊験お初捕物控・震える岩』を読んだ。
第1章「死人憑き」、深川の貧乏長屋で、まるで死人憑きのように、一度死んだはずのやもめ男・吉次が生き返った。透視能力を持つお初はこの話を聞き、南町奉行根岸肥前守鎮衛に伝える。老奉行は、古沢右京之介とともに探索を命じる。
第2章「油樽」、お初は油問屋の丸屋の大樽に、子供の死体が浮いているのを見る。この事件は、意外にも死人憑きの一件と関連があることがわかり、吉次ではない別の男の死霊が浮かび上がる。
第3章「鳴動する石」、100年前に赤穂藩の浅野内匠頭が切腹した田村屋敷で、切腹した場所に置いた大石が深夜に鳴動するという。老奉行とお初・右京之介らは、田村屋敷でこの怪奇現象を見るが、お初には赤穂事件の一部始終が見えた。そして、油樽の中に浮いていた子供の他にもう一人、殺された子供もまた、同じ死霊がついた別の男が犯人だ。
第4章「義挙の裏側」、死霊は浅野内匠頭の切腹にからむ赤穂浪士の1件にかかわりがあるらしい。探索が進むうちに、生類憐れみの令の犠牲となった、百年前の意外な浪人者親子の事実が浮かび上がる。
第5章「百年目の仇討始末」、死霊は古沢右京之介とその父との確執を利用し、別の体に乗り移り、妄執を果たそうとするが、なんともドラマティックな展開で幕が下りる。
忠臣蔵を背景とした筋立てだが、赤穂浪士の討ち入りと並行し、リアルタイムで進行する藤沢周平の『用心棒日月抄』などとは異なり、百年後の場面設定になっているところが作者の工夫か。死霊が活躍するのは「草木も眠る丑三つ時」と決まっており、12進法で計算する。一年が12月なら、二十四節季も12進法だ。ところが、死霊が活動するのは百年目の記念年目当てのようで、そこだけなぜ急に十進法を採用するのかは不明(^_^;)>poripori
まぁ、そんな野暮な理系的つっこみを抜きにすれば、たいへん楽しめました。
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恩師の記念会に出席する

2006年01月14日 19時32分38秒 | Weblog
大学時代の恩師が亡くなって一年、恩師の奥様から記念会のご案内をいただいた。昨晩はインターネットのライブカメラで道路状況を調べ、路面に雪がなくアスファルトが出ていることを確認、車で行くことにする。御家族と教会関係者や長年の友人が中心の会で、少々毛色の違う参加者だったけれど、教え子の一人として参加しお話しできてよかった。故人の思い出を語る場面では、困っている学生を助け、勇気づけ励ましてくださる先生だったことを話したが、息子さんたちにとっては初めて聞く教育者としての父親の姿だったようで、あるいは新鮮だったかもしれない。参加者の話の中で、晩年の先生が五行歌の会で創作を試みておられたことを知り、理系らしい緻密な思考スタイルに慣れていた学生の立場からは、いささか意外な感じを受けた。

帰路、セザール・フランクのヴァイオリン・ソナタを聞こうと、カーステレオにCDを挿入したところ、角度が悪かったのか、CDローディングでトラブル。出てこなくなってしまった。急遽近くの日産店に寄り、見てもらったところ、なんとか取り出すことができた。素早い対応に感謝!である。これまでノートラブルで来たKENWOOD製カーステレオも、いささかくたびれてきたのだろうか。
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週末の予定は

2006年01月13日 20時56分25秒 | Weblog
明日の土曜日はすこし気温があがりそうですので、峠を越えて仙台に向かい、大学時代の恩師の一周忌に相当する記念会に出席してきます。日曜は変則出勤日、月曜から関西方面出張になります。今回は、プレゼンがありませんので、よほど気が楽。音楽CDと文庫本を持って、しばし除雪の苦労を忘れて、優雅な旅になりそうです。忘れ物のないように、今から点検しておきましょう。
通勤の音楽、今日はフランクのチェロソナタ。そんな曲、あったっけ?と不思議に思われる方もおられることでしょうが、実はヴァイオリン・ソナタをチェロで演奏しているというものです。チェロがピエール・フルニエ、ピアノをジャン・フォンダが弾いています。これ、なかなかいい演奏ですね!明日の仙台行きも明後日の変則出勤日の通勤にも、フランクのチェロソナタを、もう少しじっくり聞きたいと思います。
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除雪による通行止めで大きく迂回

2006年01月12日 21時48分36秒 | Weblog
帰宅時、いつもの通勤路を帰ると、途中で除雪のため通行止めだという。たしかに、大型除雪機が狭い道をふさぎ、車は全面通行止めのようだ。しかたがないので、別ルートで帰ることにする。ところが、これが大渋滞。時間帯も悪かった。お~い、なんとかしてくれ~!
というわけで、マイケル・ティルソン・トーマス指揮ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団によるレスピーギ「ローマの祭」「ローマの泉」、レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニックによる「ローマの松」、以上の三部作を、二回繰り返して聞いてしまった。
帰宅まで、いつもの倍の時間がかかった。考えようによっては、いつもよりも長く音楽を聞いたことになるのかも(^_^;)>poripori
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モーツァルト「協奏交響曲」K.364を聞く

2006年01月11日 22時17分31秒 | -協奏曲
大雪の晴れ間、ありがたい休息日です。モーツァルトの「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲」K.364 を聞きました。1779年、モーツァルト23歳のときの作品です。19歳の時にまとまって書いたヴァイオリン協奏曲も、後半の三曲はずいぶん充実していましたが、4年後に書かれたこの曲はほんとうに充実した立派な音楽です。

第1楽章、アレグロ・マエストーソ、変ホ長調。コンチェルト・グロッソを思わせるオーケストラの充実した響きの中で、ソロ・ヴァイオリンとヴィオラの対話が始まる。特にヴィオラの響きがとても印象的で、雰囲気がいい。
第2楽章、アンダンテ、ハ短調。モーツァルトの嘆き、訴えは、母の死か、アロイジアとの別れか、それとも就職ならずザルツブルグに戻った失意か。(だが、若者の失意はまだ未来を夢見ることができる。)
第3楽章、プレスト、変ホ長調。はつらつとした音楽。ヴィオラ奏者は嬉しいだろうな、こんな素敵な曲が演奏できて。

演奏は、LPがクリーヴランド管の首席奏者だったラファエル・ドルイアン(Vn)とエイブラハム・スカーニック(Vla)、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団。ゆったりしたテンポの第2楽章、モーツァルトの嘆きが胸をえぐるが、しかし気品を失わない、堂々たる演奏。終楽章のプレストは、はつらつとした表情で、オーケストラの高性能を遺憾なく発揮する。これは、セルとクリーヴランド管の残した名演奏の一つだと思う。CBS-SONY 13AC-805。
CDはジェラール・ジャリ(Vn)とセルジュ・コロ(Vla)、ジャン=フランソワ・パイヤール指揮パイヤール管弦楽団。響きがとても美しい。日本コロムビア、My Classic Galleryシリーズより、GES-9235である。

参考までに、演奏データを示す。
■セル盤
I=13'00" II=12'03" III=6'05" total=31'08"
■パイヤール盤
I=13'03" II=10'07" III=6'45" total=29'55"
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積雪の重さ

2006年01月10日 20時42分51秒 | Weblog
各地の雪のようすが相次いで報道されている。南国で数十年ぶりに雪が降り、子どもたちが喜んでいるニュースなどはほほえましいが、ここまで雪の被害が相次ぐようだと、自主規制が働くのか、そういう無邪気な報道はストップしたようだ。
一口に積雪の重さというが、雪はもともと水である。したがって、屋根に雪が積もった状態は、屋根にプールがのっているのと同じである。鉄筋コンクリートの建物も、最近は丈夫なものの代名詞にはならなくなってしまったようだが、木造住宅の屋根に水深数メートルのプールが乗ったら、つぶれるのは当然である。それも、一軒だけではない。その地方の住宅全部だ。ただし、多くの住宅は、雪下ろしをする人手があるので、人力で雪下ろしをして軽くしている。それでつぶれずにすんでいるにすぎない。従って、雪下ろしのできない老人世帯では、住宅がつぶれるのは時間の問題である。震災は一瞬におこるため、被害を認識しやすい。しかし、雪害はじわじわときいて来る。住宅がつぶれないよう無理をして雪下ろしをした老人の健康障害、単身赴任の留守宅の主婦にかかる過重負担などなど、雪国でない地方に住んでいる方には理解できない面がある。しんしんと降り積もる雪。それは、屋根の上のプールに水がたまるに等しい。障子が開かなくなり、柱や壁に亀裂が走る。豪雪は災害(*)なのです。雪国では、災害と戦っているのです。

(*):雪害救済運動に取り組んだ松岡俊三
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映画「心の旅路」を見る

2006年01月09日 21時36分11秒 | 映画TVドラマ
午後から買い物に行き、500円カゴでマーヴィン・ルロイ監督作品「心の旅路」のDVDを見つけ、思わず懐かしくなり購入してきた。だいぶカットされ無残な姿になっているものの、テレビで放映された番組を見て以来、実に25年ぶりの映画である。

フランスのアラスの塹壕で、戦争のため負傷しドイツ軍の捕虜となったが、スイス経由で英国に帰還したスミス大尉は、記憶喪失と言語障碍をかかえ、メルベリーの精神病院に収容されている。霧の深い夜、戦争が終わった喜びと混乱の中、病院から逃げ出したスミスは、インフルエンザに倒れるが踊り子ポーラに助けられ、やがて互いに愛し合うようになり、田舎の村で結婚し幸福な家庭を持つ。長男の出産の喜びの中に一通の電報が届き、新聞社からの終身契約の申し出に応じようと、スミスは単身リバプールに赴く。しかし、そこで起こった交通事故により、失われた記憶が甦り、ポーラとの三年間の生活の記憶を失ってしまう。
彼の本当の名前は、チャールズ・レイニア。有力な実業家の息子だった。父の邸宅に戻り、三年間の音信不通をいぶかる兄弟たちの家族を前に、亡くなった父の遺言により邸宅を相続し、大学に戻る。血のつながらない姪であるキティは、そんな叔父に一方的にあこがれる。父の事業を受け継いだ長男は、家族の資産を預かっていたが、無駄な放漫経営のため倒産の危機に陥る。家族の勝手な期待を担い大学から呼び戻されたチャールズは、全力で会社再建にあたるが、その陰には一度結婚し息子を失った経験を持つ、美しく有能な秘書がいた。大学を卒業し、美しく魅力的な娘に成長したキティはチャールズと婚約するが、結婚式の讃美歌を選ぶオルガンの音に放心したようなチャールズを見て、彼の心の中に自分はいないと悟り、婚約を解消する。
やがて、有力な実業家として政界入りを果たしたチャールズは、レイニア夫人となった元秘書が、かつて心から愛した妻ポーラだとは気がつかない。彼女は、コヴェントガーデン(かな?)歌劇場でボックス席を占有しチャイコフスキーを楽しむ地位にのぼり、周囲から羨まれる。だが、仮面の夫婦生活に疲れ、旅行に出ようとかつて共に生活した村に立ち寄った時、メルベリーの電線工場のストライキを解決したレイニア卿が、記憶の断片をたどり、あの桜の木のある小さな家の前にたたずんでいた。十数年の時を越えて記憶がよみがえり、二人の愛が再び目覚める。

出演は、ロナルド・コールマン、グリア・ガースン、フィリップ・ドーン、スーザン・ピータースなど。完全版にはほど遠い120分。しかし、音楽は記憶の深いところを揺り動かす力があるのですね、讃美歌のエピソードは説得力がある。
ヒルトンの原作も、角川文庫で購入して読んだはずだが、度重なる引越しで見えなくなり、探しても出てこないようだ。この映画の無残なカットを埋めるには、原作を探し出すほかにはないかもしれない。
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ルイス・ガースナー『巨象も踊る』を読む

2006年01月09日 12時07分03秒 | -ノンフィクション
IBMの印象を「巨象」にたとえるのは、とてもわかりやすい。1970年代末に高校の同級生が日本IBMに入社したとき、周囲がうらやんだものだ。同時期に入社した大学の同級生も、女性が活躍できる場として同社を選んだと話していた。ThinkPad220に描かれたIBMのロゴは、なんだか開発者の誇りを感じさせる。
にもかかわらず、これまでのビッグ・ブルーの印象は冴えなかった。大型コンピュータにいつまでもしがみつき、高い金を取るだけの化石のような巨大企業とか、パソコンを計画しながらOSも中央演算装置も他社にまかせ、覇権を譲り渡した先見性のない企業とか、そんなような見方だ。パソコンのユーザーで、クライアント・サーバー型の分散処理を理想として、DOS/Windowsのマイクロソフト社が業界を牛耳り、OS/2にこだわったIBM社の復権はありえないと思った人は多いのではないか。
しかし、LinuxMagazineや日経LinuxなどのLinux雑誌に、IBMが継続的な広告を掲載するようになったころ、それまでとは違う空気を感じた。また、Linuxを標的にIBMを訴えた某企業に対する態度や、オープンソースに対する取り組みの点でも、巨象の視線が違っていたように思う。うかつな話だが、本書を通読し、いまさらのように同社が行った変革を理解した。私は経営者ではないので、経営の参考としての意味はない。だが、自社の最大の強みである大型コンピュータの価値を評価し、分社化ではなく本業回帰、基幹ネットワークやミドルウェア等を重視した統合ソリューション路線に転換した点は、当時の空気を考えるとまさに卓越した視点だったと思う。
私の恩師が、面白いことを言っていた。「あの人は切れる」という言い方があるが、切れ味にはメスの切れ味とナタの切れ味とがある、というのだ。訳本のカバーに見る著者の風貌は、まるで闘志をむき出しにするラグビーの鬼監督のようだ。創業者が顧客に合わせるよう制定したはずのドレス・コード(服装規定)が一人歩きし、顧客が違う服装をするようになっても、服装規定だけが遵守される。そんな企業文化を変革する辣腕経営者とはこういう人なのかもしれず、メスのような鋭い切れ味だけではだめで、ナタの切れ味とブルドーザーのようなタフな実行力を必要とするのだろう。
もっとも、あまりタフでない私などが現場に居合わせたら、さしずめ早々に追い出される役回りかもしれないけれど(^_^;)>poripori
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田辺秀樹『モーツァルト』を読む

2006年01月08日 19時59分07秒 | クラシック音楽
新潮文庫の「カラー版作曲家の生涯」シリーズから、田辺秀樹著『モーツァルト』を読んだ。父親であるレオポルト・モーツァルトは、ザルツブルグ大学で哲学と法律を学ぶ学生であったのに、次第に学業から遠ざかり、好きな音楽の道に進むようになる。これは、ローベルト・シューマンも同じだ。父レオポルトは、その意味ではかなりの知識人だったことになる。ようやく安定を得た生活は、宮廷音楽家の道だった。そして、独自のヴァイオリン教程を完成、娘ナンネルや息子ヴォルフガングに音楽を仕込む。自分の歩んだ宮廷音楽家の道を望む父と、そこから離れようとする息子。いつの時代にもある光景だ。
この後の経過は周知のとおり。しかし、随所に挿入された美しいカラー写真と、年譜や年代順の作品一覧はたいへん役に立つ。小ト短調シンフォニーが17歳で書かれたことや、五曲のヴァイオリン協奏曲が19歳の年にまとまって書かれたことなど、眺めているだけでも興味深いものだ。
今年はモーツァルト生誕250年ということで、モーツァルトにかかわる事柄を1度本書で確認することが増えることだろう。
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すこし前のベストセラーを読み返すとき

2006年01月08日 10時41分37秒 | 読書
すこし前にベストセラーになった本を後から読み返すとき、様々な感想を持つ。ある本については、なぜこれがベストセラーになったのだろうと思い、また現在こそもっと読まれてしかるべきだと思うものもある。
たとえば、『iモード事件』。iモード機ユーザーでない私には、同書の興奮が理解できない。だが、ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』には泣かされた。何度か読み返しているが、読み返すごとに、胸に迫るものがある。
また、お堅い本も、すこし前にベストセラーになったものなら自分の力で理解できるレベルかどうかわかり、安心して読める。『銃・病原菌・鉄』などは、高校時代に抱いた世界史の疑問に明快に答えてくれる内容がたくさんあり、目からウロコが落ちる面白さだった。
いわゆるビジネス書の類も、流行の解説本は本当に寿命が短い。大げさに言えば、昨年までの勝者が今年は売りに出される時代だからだ。今興味深く読んでいるルイス・ガースナー著『巨象も踊る』も、長い目で見れば一時代の断面に過ぎないのかもしれない。しかし、官僚主義に陥った巨大組織IBMを復活させた著者らしい、率直で面白い表現が頻出する。たとえば「手続きによってでなく、原則によって管理する」などはその最たるものだろう。クリフォード・ストールの『カッコウはコンピュータに卵を産む』において、ネクタイとワイシャツとスーツの画一的な一団として描かれたような、そんな組織のその後の話としても、面白く読める。
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モーツァルトの「ディヴェルティメント K.254」を聞く

2006年01月07日 21時40分24秒 | -室内楽
1776年、20歳となったモーツァルトは、ザルツブルグの大司教のもとで「ハフナー・セレナード」を初演、多くのディヴェルティメントを作曲している。前年には五曲のヴァイオリン協奏曲を完成しており、楽しく優雅な音楽を量産している。特に、変ロ長調の「ディヴェルティメント K.254」は、ヴァイオリン、チェロ、ピアノの三重奏曲で、シンプルだが実に魅力的な音楽だ。
第1楽章、アレグロ・アッサイ。(6'19")
第2楽章、アダージョ。(7'36")
第3楽章、ロンド。(7'24")、(total=21'26")
ヴァイオリンとピアノが優雅に歌い、チェロが低音部を補強する。多少の不満はかかえながらも、まだ決定的な決裂には至っていない頃の、幸福な若者の音楽。
演奏は、トリオ・フォンタネイ。1990年、ベルリンのテルデック・スタジオでデジタル録音された二枚組のCDで、表題曲のほかにモーツァルトのピアノ三重奏曲(第1番~第5番)を集め収録している(2292-46439-2)。

写真は、洋ナシの一種、シルバーベルという品種。香りや甘さはラフランスに負けるが、果実が大きくみずみずしい。ラフランスがなくなった冬に食べると、けっこう美味しく感じられる。
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全く同一の文で多数のブログにコメントすることがあるか

2006年01月07日 16時01分55秒 | コンピュータ
掲示板が流行すると掲示板に妙な書き込みが多発した。ブログが流行すると、これまた歓迎せざるトラックバックが来るようになった。最近は、妙なコメントが流行っているようだ。今回は、投稿して30分もたたないうちに、内容に全く関係のない思わせぶりなコメントがついた。MRIすなわち磁気共鳴画像法の記事に付いたコメントの文面はこうだ。
「新参者です♪お手柔らかにお願いネ!分からなくって今日の出来事なんだけど」
これって、どう考えてもあやしいピント外れのコメントだよね。そこで、この部分をマウスでコピーして、すぐGoogleで検索してみた。
あるある。全く同じ文面で、実に多くのブログサイトにコメントを付けている。しかも、三つや四つのサイトではない。実に292件!案の定、コメント主のサイトは、あまり上品でないいわゆる「大人向け」と称するものだった。たぶん、新着記事の一覧を見て、全く同一の文面をコピーアンドペーストでコメントしている「雇われ専門家」(*)がいるのではないか。

最近ブログを始めたみなさん、あまりに早すぎたり、なんかへんだな~と思ったら、そのコメントの文面の一部をGoogle検索してみましょう。ヒットする件数が1件とか2件だったら、それはたぶん誰かがまじめにコメントしてくれたものです。ヒットする件数が数十~数百件にのぼるときは、それは不誠実な~機械的に付けられたコメントです。決して反応せずに、ただちに削除しましょう。

(*)無差別かつ機械的にコメントをつけているところを見ると、コンピュータのプログラムですね、これ。
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脳ドックでMRI受診~またの名をミュジーク・コンクレート

2006年01月07日 14時53分01秒 | コンピュータ
昨日は、某病院の脳ドックでMRIを受診。MRIとは Magnetic Resonance Imaging(磁気共鳴画像法)の略だという(*)。金属片を身に着けていないかや、簡単な問診を行い、頭部を固定してベッドに横になると、強い磁場を発生する装置の中に頭部がすっぽり入るまで移動。30分ほど、ガンガンガンガンガンと連続する騒音が続く。ちょうど、一種の電子音楽、ミュジーク・コンクレートのようなものだ(^_^;)>poripori
結果はしばらく時間がかかるらしいが、脳味噌の内部が手術などをしなくともとうふのようにわかる。これはすごいことだ。

Magnetic Resonance といえば、昔 NMR(Nuclear Magnetic Resonance) といって、水素原子の核磁気共鳴スペクトルをもとに、化学分析に利用する技術が進歩した時代があった。このデータに位置情報を付与し、コンピュータで連続的に処理することにより、画像診断法として確立したものであろうか。これなども、コンピュータやデジタル技術の恩恵の一つと言って良いだろう。

(*): 磁気共鳴画像法の原理

帰りに、病院の近くにある書店で、新潮文庫版のディケンズ『大いなる遺産』の上下巻を購入。『デイヴィッド・コパーフィールド』は見当たらないようだ。
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