電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

藤沢周平『三屋清左衛門残日録』を再々読する

2016年09月06日 06時02分05秒 | -藤沢周平
WEB サイト「藤沢周平作品データベース」(*1)にあった記事で、『用心棒日月抄』シリーズ第五作として『三屋清左衛門残日録』を読む、というのがありました。執筆年代や作品内容からみて少々無理があるのは承知の上で、つい第五作を想像してしまう読者の一人として、おもしろい発想だと思い、『残日録』をまた読み始め、案の定、ハマってしまった次第です。

三屋清左衛門は、若い頃に無外流の名手として嘱望された時期もありましたが、先代藩主の信頼を得て出世を重ね、用人として勤め上げ、先代藩主の没後に家督を長男の又四郎にゆずって隠居をしています。妻の喜和は死去して独り身ですが、新藩主の信頼が厚く、隠居部屋を新築してもらい、そこに住んでいるという境遇です。

なるほど、このあたりは『日月抄』の青江又八郎の晩年を想定したと見られなくもないかも。しかし、読み進めるうちに、そんな詮索はどこかへ吹っ飛んでしまい、物語の中に引き込まれていきます。

四年ぶりの再読(*2)ですが、特に好ましく感じられるのは、先祖の百回忌がきっかけで、若い頃のひそかな記憶に絡んだ女性の娘を、剣術道場の信頼できる後輩に紹介し世話をする「白い顔」とか、農婦の母子を助けたのがきっかけで藩内の抗争の存在を知ることになる「川の音」、あるいは偶然に立ち聞きした密事を藩の対抗勢力に伝えようとする武士を描く「霧の夜」などです。たとえば、

誰もいない、丘の陰に入って小暗く見える川には、水面を飛ぶ虫をとらえる魚がはね、そしてそこだけ日があたって見える丘の高い斜面のあたりでは、一団になってひぐらしが鳴いていた。夏の終わり、秋に移るところだと清左衛門は思った。丘のどこか見えない場所に、やはり一団になって鳴くひぐらしがいて、ひぐらしは寄せる波音のように交互に鳴きかわしていた。
 「川の音」より、p.159

というような記述に季節感を感じ、やけに共感したりします。

虫の音、蛙の鳴き声、ひぐらしの声など、藤沢周平の音にまつわる感覚は豊かです。都会の喧騒の中にあって、こうした自然の音は、懐かしい海坂藩や武蔵野の療養所生活に通じるものがあったのかもしれません。



逆に、本作品の末尾で、中風を患った竹馬の友が起きて歩く練習を始めたエピソードを取り上げて終わっていますが、随筆の中で、こうした表現をしたことを後悔していると述べているところがあり、不思議に思ったものでした。今になって思うのは、病を得た人はかならずしも良くなるとは限らないわけで、たとえ充分に回復はできなくても人間の尊厳は変わらないし、起きて歩ける、働けることが全ての価値観ではない、ということだったのでしょうか。

(*1):たーさんの部屋2~「藤沢周平作品データベース」
(*2):藤沢周平『三屋清左衛門残日録』を再読する~「電網郊外散歩道」2012年4月

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