電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

ベートーヴェンの聴覚障碍の原因について

2010年01月25日 06時21分41秒 | クラシック音楽
音楽家にとって、ふつう聴覚障碍(がい)というのは致命的なものだろうと思います。ベートーヴェンの生涯と創作を考える上で、彼の難聴、聴覚障碍の原因が何であるのか、興味深いものがあります。

ベートーヴェンの場合、ウィーンに颯爽とデビューし、レガート奏法と即興演奏の技量もあって、社交界の寵児となっていた20代の後半に、その兆候が現れてきたようです。したがって、子供の頃に厳格な父親に殴打されたための鼓膜の損傷のせいではありえません。

また、酔っぱらいの父親の不行状に由来する先天性の梅毒や、ベートーヴェン自身の責任に帰すべき梅毒によるものという考えもあるようですが、もし原因が梅毒なら、20代後半という難聴の発症時期は早すぎますし、50台後半という死亡時期は遅すぎます。当時の医学水準から見てもっと若いうちに死亡している可能性が高いでしょう。ところがベートーヴェンは50代後半まで長生きしていますし、梅毒性難聴のスメタナ(50代で発症)と違って若いうちに難聴になっています。息子にトレポネーマ(スピロヘータ)を伝えたことになる母親も、また最初に感染したことになる父親も、梅毒で死亡したというような事実はありませんから、これはありえないと思われます。もっと決定的なのは、ベートーヴェンの遺髪鑑定で、当時、梅毒の治療に用いられていた水銀の蓄積が見られない(*)こと、などが挙げられます。

ロマン・ロランのように、創作時の極度の神経の集中による脳神経系の損傷という考えは、レオン・フライシャーのジストニアの例もありますので、ありえないことではないようですが、実はもっとはっきりした別の証拠があるようです。

それは、ベートーヴェンの遺髪や頭骨を現代の技術で分析した結果、基準値を大幅に超える鉛が検出された(*)、というものです。慢性的な鉛中毒は、胃腸障害のほかに、聴覚などの神経系にダメージを与えます。さらに、怒りっぽくなるなど気分障害、ひどくなると人格障害も生じるらしい。ベートーヴェンのよく知られた様々な特徴が、鉛中毒という症例によくあてはまります。

ただし、なぜ鉛中毒になったか、という理由は明らかではありません。腹水穿刺の際に、消毒に鉛化合物を使ったため、という事情もあるようですが、そもそもなぜ腹水がそんなにたまるのか、説明できません。好んで食べていた川魚が汚染されていた、とする説もあるようですが。

そこで、推測されるのは、ベートーヴェンの祖母がアルコール依存症で施設に入所しており、彼の父親も極度のアルコール依存症だったという環境であり生育歴です。ベートーヴェン自身もかなりワイン類をがぶ飲みしたようですし、若さゆえの鯨飲もあったことでしょう。
粗悪なワインが、品質の高いワインの味を装う古典的な手法が、ごく少量の鉛塩(酢酸鉛など)を加えるというものです。お酒を一番たくさん飲む若い時代はまた経済的なゆとりの少ない時期でもあります。値段の割においしく感じられる特定の銘柄を好んで飲んでいたとすれば、それが鉛入りのものだった可能性があります。

ベートーヴェンの難聴の原因を鉛に求める説に対して、それならばもっと多くの人が難聴になるはずだ、という反論がありますが、もしタイムマシンに乗って18世紀のドイツやオーストリアに行ったとすると、アルコール依存症患者の聴覚障碍発症率は有意に高かったという結果が出るのではないか。一般庶民でなく、音楽家ベートーヴェンだから注目されたにすぎない、と考えます。

現代人は、昔の医学水準を蔑視する傾向がありますが、投薬や治療の方法に時代の限界はあるものの、医学の基礎基本である症状の観察は的確であることが多いようです。どうやら、彼の周囲にいた医師たちは、難聴の原因を胃腸障害に求めていたようで、これはまさしく原因解明の糸口を見事につかんでいたことになるでしょう。

(*):楽聖ベートーヴェンの遺体鑑定~解剖、遺髪・遺骨の分析結果など~関西大学法医学講座「法医学鑑定の話題」より
コメント (4)