電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

宮城谷昌光『沙中の回廊(上)』を読む

2010年01月07日 06時11分16秒 | -宮城谷昌光
ぎっくり腰で寝ている間は、ひたすら文庫本を読むしかありませんでした。昨年、読んだばかりの宮城谷昌光『沙中の回廊』が枕元にありましたので、こんどはじっくりと、文春文庫版の同書・上巻を読了しました。

「孤舟」
かつて晋の大司空(今なら建設大臣?)の地位にあった士家は、王の老害により嗣子が死亡し、公子が亡命しても厳正中立を保ったために、恵王からも文公からも重用されず、衰退の家となっていました。末子の士会は、文官の家に生まれながら武術を尊び、その腕前と強さは折り紙付きです。
ある夜、臣下の反乱によって文公は行方不明となります。士会と従者の弗はその捜索に加わり、舟の中に重傷を負った敵将らしい男を見つけますが、応急処置をして舟を河に流します。文公は隣国に逃れ、無事でした。文公の帰国後、重臣である先軫の命により、ある娘の護送を命じられます。

「戦雲」
周王の娘・叔姫を護衛し、士会ら一行は周都に到着します。周王の弟が兄に叛き、后と密通していることを叔姫が知ってしまったために国を逃れるはめになり、今また父王に報せるために国に戻ったのでした。士会は叔姫の身分を知らず心を寄せ、叔姫もまた、別れに玉を贈ります。晋に戻った士会は、学問にも目を向けるようになり、家臣を大切にしながらじっと機会を待ちます。その機会は、文公が周の内紛を解決し、中華の覇者の立場を知らしめる大きな戦としてやってきます。

「城濮」
楚の成王は宋を攻めさせ、魯軍もこれに連動して斉を攻めます。中国大陸東部における南北の争いです。しかし、陸続きで妨げるものもない中国では、斉が楚に屈伏するということは、晋と秦と周という中国西部が圧迫を受けることであり、その矢面に立たされるのは宋です。軍事強国である楚を相手に、晋は戦いを決意します。ただし、直接対決を避け、楚が従えたばかりの二国、曹と衛を攻めることで、宋と斉は攻撃を避けられる、という先軫の戦略です。曹を攻めた士会は、偶然にも叔姫とうりふたつの娘・叔嬉を助けますが、これこそ実は周王の双子の娘の一人で、叔姫とそっくりなのは当然のことなのでした。そして、晋と楚の対決は、城濮において始まります。

「祥雲」
楚軍の強さは本物ですが、強さをたのむ楚将・子玉に対し、晋の先軫は二重三重の作戦で負けない戦を構築、ついに勝利をおさめます。士氏の集団戦法の強さを目にとめた文王は、士会を車右に大抜擢、士会はついに一介の零落氏族の末子から大夫になるのです。家の新築、家臣の増募とともに、叔嬉との婚礼が実現します。

※ただし、それまでの話の流れでは、周の襄王の娘の叔姫は、大叔の乱で横死したことになっていたのに、今回の花嫁はどうも叔姫のようなのです(p.232)。
そのころ嬉家の深窓には、士会の妻とよく似た、足に火傷のあとのある女がひっそりと暮らしていた、というのですから、著者はたぶん途中で気が変わってしまったのでしょう。不遇な双子の娘はやっぱり不遇なままなの?著者のこの想定は、なんとも気の毒。王女は亡くなり、日陰の存在だった双子の娘が幸福になる、それでよいのではないかと思ってしまうのですが(^o^)/

「離愁」
かつて文公を殺そうと乱を起こした郤家の子・郤缺が、許されて文公に再び仕えるようになります。郤缺が命を拾ったのは、負傷したところを士会に助けられたからでした。文公の急死に際し、秦は鄭を取るために軍旅を発し、喪中の晋を通過します。しかし、策は鄭に露見し、秦軍はUターンします。二つの丘の間を通過する秦軍に攻めかかる姜戎氏の騎馬兵と晋軍の猛攻はすさまじいものです。しかし、多くの犠牲をはらって捕えた秦の三将を、まだ若い襄王は夫人の言に迷い、解放してしまいます。
「あなたが決定者だ、今すぐ判断を」というのは詐欺師の常套文句ですが、襄王もこれにやられたのかもしれません。誤った王の判断に怒り、王を侮辱した先軫は、箕を助けるために狄兵のただ中に入り、戦死します。名将らしい責任の取りかたと言えるでしょう。

「分流」
世代交代が進みます。文公に従い覇権を守り抜いた老臣が亡くなり、その後継者たちが登場しますが、理想を追うあまり、政治はあたたかさを失います。士会は武力の限界を感じ、書物を読み、父祖の事蹟を聴きます。やがて、襄公の死去が士会の運命を一変させるのでした。

老練な将軍であり政治家である先軫のもとで次第に成長する士会の物語です。この巻は、はじめは武将として頭角を現し、しだいに軍事と外交を通じて文治を理解していく過程と見るべきでしょう。
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