行徳生活日記

「行徳雑学館」作者の日記。

2008年6月7日(土)の日記

2008年06月07日 | 日記

この週末、晴れは土曜日だけのようなので掃除・洗濯などは今日、片付けてしまう。

トップページのレポートも今日、更新してしまおうと思い、そのネタとして本行徳一丁目の豊受神社神明宮のようすを見に行く。再建工事は進んではいるが、まだ時間がかかりそう。細かいところを作りこんでいくのに手間がかかるのだろうか。 

途中、湊の街頭掲示板には水神宮祭礼のお知らせが出ていた。6月28日(土)。トップページの地域イベントのリストに追加する。

 

そして、本行徳方面へと向かったが、関ヶ島や本行徳の街頭掲示板で↓のようなものを見つけて驚いた。

常夜燈(掲示板の紙面上や市川市HP内などでは「常夜灯」と表記されている。)をこれまでの場所から上流側に約150m移設することへの反対運動である。

ゴールデンウィークにも本行徳のあたりに来たが、この掲示は見当たらなかった(気がつかなかったのかもしれないが)。

この掲示を書いて載せたのは、本行徳四丁目自治会と関ヶ島自治会。(常夜燈の場所は本行徳と関ヶ島の境界である)

昨年末に常夜燈移設の話が回覧で回り、住民も初めて知ったということ。

3月27日に市による住民説明会が行われたということ。

そして、自治会で移設反対の署名運動をやっているということである。

市のほうは、安全上の問題(堤防の高さが高くなるが、これまでの場所は幅もそんなに広く取れないので耐震性などを考えると問題ということだと思われる)で、堤防の幅が広いところに設置したいという意向。

地元側は、その場所が行徳新河岸跡であることを示すものであり、行徳街道への道や笹屋うどん跡なども含めた歴史遺産なのだから、移設すればその価値が著しく損なわれるということで反対ということだ。

これまで、この話は街頭掲示板でも、いろいろな地域メディアででも全然、見たり聞いたりしたことがなかった。

↓は自分が2月17日に本行徳の堤防工事のところに掲示してあった完成予想図を写したもの。サイズ縮小したので見えにくいけど、これまでと同じ位置に常夜燈がある。後ろのマンションとの位置関係からしてもこれまでと同じ場所。

そして、市川市の公式サイト内の常夜灯周辺地区整備事業ページも、今日6月7日時点では移設のことは載っていないし、完成予想図の画像も、上の工事現場にあった完成予想図に常夜灯や東屋などの設置物の名前を書き加えたものだ。

今日見た街頭掲示板の内容や、市の公式サイトにある内容から見る限り、市は意向はあるが最終的な決定はしていないと思われる。

 

ここからは自分の意見になるけど、こうした地域のシンボルとなるような史跡や建物は、地域の記憶として残り、地域のアイデンティティとなるものだから、軽々しく扱うべきではない。常夜燈はあと4年もたてば建立200年。その長い時間、建っていた場所はかつて行徳新河岸があって、行徳街道への道があり、そして笹屋があって、外から行徳へ着くときも、行徳から外へ行くときも常に目に入り、その配置も含めて地域の顔として受け継がれ、記憶されてきているわけだ。だから江戸川のそばにあれば、たかが150mぐらいなどとは、とても言えるものではない。

市川市も景観シンポジウムを開催したり、景観100選を作ったりしているのだから、こうしたことが決して分からないわけではないだろう。安全上の問題はあるだろうが、歴史の遺産を後世に残すということを前提にして技術的な解決策を考えてほしいと思う。

この問題は人間に例えて言えば、こんな話だと思える。

常夜燈や街路や歴史的建物は地域の顔と言ったけど、これは人で言えば顔の器官(目とか鼻とか口とか)に医学的な問題があって、それで命にかかわることもある(高さのある堤防に設置した常夜燈が大地震で崩れて落下すると人命にかかわる)から、手術して問題を取り除こうというである。だけど、手術すれば、整形手術をしたのと同じように顔の形が変わってしまうということだ。

顔はその人物のアイデンティティとなる重要な要素だから、命の危険があるからといってそれを変えてしまうのは人格や人権を損ねるという問題になる。だから、どちらが優先されるべきかということになるわけだが、常夜燈が移転されるということは地域に代々住む人々にとってはそれと同じぐらい重大な問題である。

今日見た街頭掲示板の内容を見る限り、昨年末に常夜燈移転の話を初めて耳にして、

「私たちは驚いて市への問い合わせをはじめました。」

ということだから、まったく寝耳に水だったのだろう。

また3月の住民説明会についての部分では、

「市からは、常夜灯は新河岸に建立された歴史については特に触れず、常夜灯に江戸時代のような基壇を付けた上で安全対策を取る場合、従来位置は手狭と考えているという旨の説明がありました。」

とある。これを読むと、説明会の担当者は、上の例え話で言えば、患者に医学的な問題があるからとにかく手術すればよいということだけを主張するだけで、患者の人格、人権にまったく無頓着な医者のような印象を与えたのだと思える。それで、地元としては相当にカチンときたようだ。

説明会担当者も組織の一員だから、個人的にはどう思っていても、その場では組織の意図を伝えることしかできないわけだが、どうも問題がこじれそうな臭いがする。もっと責任と権限のある立場の人が、収拾に乗り出さなければいけないのではないかと思える。

成田空港も国での決定について地元で同意を得るときのやり方がまずくて(「最初のボタンの掛け違い」と言われているもの)、それがずっと尾を引いているわけだけど、この常夜灯問題も市の対応がまずければ、狭い地域のことだがこじれて尾を引いてしまいかねない。市川市にもしっかりとした対処を望みたい。

 

 

で、今日の生活の記録に戻ると、昼飯は本行徳から妙典駅前に抜けて、妙典高架下の神戸らんぷ亭ハンバーグ定食おろしソース

トップページをUPDATEし、それからこの日記の前半部分を書く。いろいろと考えて書かないといけないから、飲み食いの前にやる。

晩飯は上海飯店。前に来たのは1月末だった。

最初はビール中生と砂肝

一緒に注文した小籠包

食べる絶対量を減らさないといけないと思うから、一品当たりの量が少ないのを注文する。すると店のママが、カウンターの正面、厨房の壁の黒板に書いたメニュー(特に大皿、小皿とは書かれていない)も小さいのができるよと言う。なんか、こちらの気持ちを見透かされたような感じ。

それで、その黒板メニューから大根と牛肉煮込みを少なめの量で。酒は紹興酒の小瓶。

量が少なめのばかり食べたので、やはり締めにご飯ものを食べたい。おごげを食べてみる。中華のおこげはメニューで名前は聞いても、実は40代後半になるまで食べたことがなかった。

どんなものが出てくるのかと思ったが、揚げたご飯に具を掛けたものだった。やわらかい焼きそばに対して硬焼きそばがあるように、ふつうの炊いたご飯の中華丼に対して揚げて硬いご飯のおこげがあるのだと思った。紹興酒が終わったあと杏露酒サワーを一杯。

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