行徳生活日記

「行徳雑学館」作者の日記。

2010年12月5月(日)の日記

2010年12月05日 | 日記

午前中にトップページレポートを作り、昨日までに行徳のアルバム2に入れた祭り画像と一緒にUPする。祭り画像は相之川日枝神社の例大祭と5月に行なわれた湊新田胡録神社の新神輿お披露目。新神輿のお披露目は神主さんが来て御霊移しの儀式をやって、白装束による神輿揉みも行なわれたから、これも四ヶ町の祭礼の一つとして入れることにした。

昼飯を食べに行くついでに相之川のところの旧江戸川堤防に出る。小春日和で風も穏やかで、なんとものどかだった。あと1日、2日はのどかな天気で、そのあと冬の気候に戻るらしい。

昼飯は今井橋近くのうなぎのそめや

座った席の真ん前が厨房の出入り口。左側がお会計。こんな感じの年季の入った店。

うな重は上と特があるが、今日はを食べる。

スーパーで買い物をして帰り、午後は録画しておいた番組や映画を見る。昼にうなぎを食べたから、晩飯は軽めにしたい。南行徳駅前まで行って松屋野菜たっぷりカレーを食べる。

 

録画を見たうちの一つは、ファミリー劇場でやっている「ウルトラマン・デジタルりマスター版」で35話「怪獣墓場」。亡霊怪獣シーボーズが出てくる話。

ウルトラマンの初回放映のときは、初めて見たのが最終回の1話前だったので、シーボーズの話は見ていない。だけど、別の形でこのエピソードを見ていた。

ウルトラシリーズ最初の「ウルトラQ」が始まったのは1966年(昭和41年)の1月。その後番組として「ウルトラマン」が始まったのが同じ年の7月。自分は4月に幼稚園(1年制)に上がった年。ある日曜日に母親の実家へ遊びに行ったのだが、おじやおば(自分の親の年代は兄弟が多い)たちが子供が見るなら怪獣ものがいいだろうと思って、テレビで「ウルトラQ」を付けたのだろう。だけど、その年齢の自分にはあまりに怖かった。怯えて、おそらくは泣いたのだろう、前半15分が終わったところで、大人たちがテレビを消してしまった。それで、そのあと日曜夜7時には、そのチャンネルを合わせることをずっとしなかったから、「ウルトラQ」が終わって「ウルトラマン」が始まったことも全然、知らなかった。ちなみに自分があまりに怖いと思った「ウルトラQ」のエピソードは第11話の「バルンガ」。

ウルトラマンのことは知らずにいたが、人気が出てあちこちで取り上げられるようになったからか、小学生向けのウルトラマンのムック(少年誌の別冊だったように思う)がいつの間にか家にあった。父親が買ってきたのか、あるいは家に来た客人が男の子がいるからおみやげとして買ってきたのかもしれない。

そのムックに「怪獣墓場」を劇画化したのが載っていたのだ。なので、それが自分にとっての最初のウルトラマン体験になった。

また、そうしたムックを読んだりして、日曜の夜7時にはもう怖い番組はやっていないと分かったので、やっと「ウルトラマン」を見たのが最終回の1話前だった。

そして、10年余り後、高校生のとき、アサヒソノラマから出たウルトラシリーズのムックを読んだり、再放送を見たりして「怪獣墓場」の監督が実相寺昭雄だということを知った。

先月中旬に実相寺監督の「あさき夢みし」を見たが、ウルトラで見たのと同じような構図が出てくると感じた。「怪獣墓場」を見るとそうした場面がやっぱりあった。シーボーズを宇宙に返すためのロケットとその部品を運搬する車列が進むのを、逆光でシルエットにしたこの場面。

人物を正面から写して強調する場面。ここでは広角レンズで強調はしていないが。

それから、「あさき夢みし」との共通点ではないが、「怪獣墓場」で印象に残るのが実写映像との合成場面。

超高層ビルへ上って空に向かって悲しそうな声で吠えるシーボーズ。亡霊怪獣で体重が軽いからビルを壊さずに上れたのだろう。この超高層ビルは当時、建設中だった霞ヶ関ビルの完成後のイメージだったらしい。霞ヶ関ビルは36階建てだけど、当時はそれでも画期的な高さだった。

ミニチュアのセットではなく、実際の風景の中に怪獣がいるという場面は、ありそうで意外とない。昭和40年代ごろの怪獣ものではあまり見かけないだけに印象に残る。後の時代のようにデジタル合成などない頃だから、自然な感じで合成するためには技術的なハードルが高かったというのもあると思う。

最後のほうの場面では、宇宙パトロールへ飛び立つビートルと実際の街の風景が組み合わされていた。

実写映像と怪獣やメカを組み合わると、非常にリアル感が出るが、適切な風景を選んで写すことなどが難しいのかもしれない。怪獣がいるのに車や電車がふつうに走っていたりするのはおかしいからだ。東宝の「ゴジラvsメカゴジラ」(1993年)でゴジラが京都の街中を進む場面で、手前の京都駅のところを新幹線が走っていたりして、これには興ざめした。

 

録画して見たもう一つのが1968年(昭和43年)の映画「小さなスナック」。

1960年代後半はグループサウンズがブームで、「小さなスナック」というのはパープル・シャドウズというグループがヒットさせた歌。歌がヒットしたのでそれを元に青春映画が作られたらしい。自分は小学校低学年だから、グループサウンズ・ブーム自体をはっきりとは覚えていない。確かに、テレビを付けるとギターなどの楽器を弾いたりしながら歌う男のグループがよく出ていたという覚えはある。「小さなスナック」という歌も、聞くと、「なんか、子供の頃、どこかで聞いた気がする。」とは思うが、その程度。

なのに、この映画を録画して見る気になったのは主演が藤岡弘だから。

藤岡弘は「仮面ライダー」の本郷猛からしか知らない。「仮面ライダー」は1971年(昭和46年)からの放映。つまり、この映画は「仮面ライダー」の約3年前。そのころの藤岡弘はこんな感じだったのか。

それと、タイトルが「小さなスナック」だから、物語の核となる場所は当然、スナックなのだが、マスターをやっているのが毒蝮三太夫。このころは石井伊吉の名前で出ている。

1968年だと、毒蝮三太夫が「ウルトラセブン」のウルトラ警備隊・フルハシ隊員の頃になる。

1968年の若者の姿というと、当時の特撮ものに出てくる人物ぐらいしか印象がないけど、この映画を見て気が付いたのは若い女性たちが意外にみんなミニスカート。その前年か前々年ぐらいから外国ではやり始めたミニスカートが、この頃には日本の若い女性にもけっこう広まっていたようだ。

藤岡弘と並んで歩いているのがヒロイン役の尾崎奈々という女優。1970年代前半に引退しているとのこと。ミニスカートといっても丈はまだ長め。3年後の「仮面ライダー」のころはもっと短めの丈になって、1974年の夏までブームは続いた。「仮面ライダー」に出ていた島田陽子も山本リンダも中田喜子も、今から見ると驚くほど短いスカートをはいていた。

藤岡弘と尾崎奈々が波打ち際で服を着たままもつれ合うラブシーン。仮面ライダー前の藤岡弘はこんな場面もやっていたのかと思った。

でも、ちょっと待てよと考えると、仮面ライダー後の藤岡弘も似たようなシーンをやっていた。映画「日本沈没」(1973年(昭和48年))で、海パンの藤岡弘とビキニ水着のいしだあゆみが波打ち際でもつれ合っていた。

藤岡弘は仮面ライダーからしか知らなかったから、やっぱりイメージはヒーローだけど、この映画の藤岡弘はナイーブな若者。尾崎奈々演じるヒロインは、家庭のややこしい事情(劇中ではっきりとは語られないがおそらくは経済的な困窮)のために、親子ぐらい年が離れた男と結婚しているという境遇。人並みに青春を楽しんでないという人物設定だから、20歳になる前に結婚させられたようだ。それで、少しは世間並みの青春を味わいたいとスナックへ入ってみて、そこで知り合った藤岡弘と道ならぬ恋に落ちてしまうわけで、物語は悲恋もの。

このヒロインもナイーブな女性で、葛藤の末、車でわざと道路から転落して自殺を図るが怪我だけですむ。事故で入院したと聞いた藤岡弘が見舞いに行って、そこで自殺未遂と聞いて驚く。ここまで見て、波乱が起こったら二人もあとは落ち着いていい方向へ進むのではないかと思った。そういうのもありがちなパターンだからだ。それに、甘ったるい感じの歌がヒットして、それを元にして作られた映画というから、涙の別れ、そして二人はそれぞれの人生に旅立って行くというラストを予想した。

ところがこの男女、二人ともナイーブすぎたのか悲劇へ向かって突っ走ってしまう。藤岡弘のほうは尾崎奈々があきらめきれず、毒蝮三太夫のスナックから病院へ電話をして、会いに来てほしいと頼み、悩んだ尾崎奈々のほうはついに手首を切って自殺。病院のベッドに血まみれで横たわる姿(さすがにカラーではなく、少し茶色っぽくしたモノクロだったが)が2,3秒だが映ったときには、こんな展開になるのかと驚いた。そして、藤岡弘のほうは恋人の死を知らぬままラストとなる。

「小さなスナック」を歌ったパープル・シャドウズや、他のグループサウンズも登場するし、当時、アイドルだったらしいジュディ・オングが本人として登場し、インタビュー映像を流しているかのような場面が出てきたりして、その時代のアイドルたちの宣伝も兼ねた映画だと思えた。なので、ナイーブな若い男女の悲劇になってしまったのは驚いた。