うすぼんやりとした天気です。こんな日は、何となく放哉が恋しくなってきます。
「たった 一人に なりきって 夕空」
「障子しめきって 淋しさをみたす」
「何か求むる心 海へ放つ」
「迷ったまんまの 犬で居る」
「雀のあたたかさを 握る はなしてやる」
「こんなよい月を 一人で見て寝る」
「せきをしても ひとり」の句で、忘れられない詩人の一人となった放哉。ただの呟きで、これほど、時間と空間を切り取ることができようとは。とはいえ、持って生まれた「怪物」は、理性なんかの力では抑え付けることはできません。それは気の毒ではあるのですけれど、おかげで、後世の私たちは、結構、充実した時間を過ごすことが出来たりするのです。
さて、学校です。
日本に来たら、日本語が出来なければ何にも出来ないということが、どうしてわからないのかと思って見ていた学生が、急にそれを悟ったらしく、どうにかしようと足掻いています。どうも、身内が日本にいて、その人がどうにかしてくれるものと思い込んでいたらしく、その人からお呼びがかかれば、学校を休んでも平気、教師にきつく咎められても平気。そして、翌日か翌々日か翌々翌日に、平気の平左で、学校へ来たりしていたのです。これぞまことに「蛙の面になんとやら」。
ところが、急に彼女の態度が変わったところを見ますと、あちらの方でなにやらあったかと、勘ぐらなくてもよさそうなことながら、勘ぐりたくもなってしまいます。まあ、どちらでもかまわないことなのですけれども。
とはいえ、来日後、三ヶ月ほども経てば、真面目にやってきた学生と、テキトーにやって来た学生との間には、深くて超えられないほどの差が出てきています。同じくらいの能力、同じくらいの年齢であってもそうなのですから、それが最初から差がついていれば…まあ、どちらにしても、それぞれが出来る範囲でやっていかねばならないのですが。
教師というのは、手を添えることはできるけれども、その人の人生を作ってやることも、出来ない人を急に天才にすることも、できません。まあ、当たり前のことですが。
あくまで、手伝いしか出来ないのです。要は本人のやる気次第。どれだけ時間を割くことができるのか、そして(教師に)言われたことを、どれだけやることができるのか。そんな、いわば、たわいもないことの積み重ねで、知識を吸収していったり、技能を身に付けていったりするのです。
これは、たわいのないことであるけれども、ある意味では、学ぶ上での王道なのです。それを忘れると、手痛い目に遭うのは本人と言うことになります。
日々是好日