強い風に、木の葉が乾いた音をたてて揺れています。昨日、散り敷いていた「キンモクセイ(金木犀)」の花はどこへ行ったのでしょう。姿が全く見あたりません。
今朝の空は青く、一片の雲もありません。ニュースによると、スカイツリーから富士山の姿がくっきりと見えたそうです。富士山の姿が東京からも望めるようになりますと、「ああ、冬になった(まだ早いのですけれども)という気がしてきます。
昨日、卒業生がやって来ました。二つ用事があったようで、まず一つ目は、「はい、お土産」。
一昨日、大学の休みを利用して、アルバイト先の友人達と「高尾山」に登ったのだそうです(お土産は高尾山で買ったのだそうです。名前は「天狗の鼻くそ」と「栗チョコクッキー」です。在校生の数を聞いて、足りるかしらんと気にしていました)。「今日は足が痛いかなと思ったけれども、大丈夫だった。私は元気」なんて冗談を飛ばしていましたが、残念なことに富士山は見られなかったとのこと。
私が以前登った時には、実に見事な富士の姿を見ることができ、ここからだとこんなに富士は大きくなるんだと感動したことがありましたっけ。とはいえ、高尾からでも富士山を拝むことは難しいようです。私だとて、何度も高尾山には登ったことがありますのに、まるですぐそばにでもいるように見えたことは、あのときのただ一度だけでした。
「卒業生の中で、私が一番(学校に戻って)来るんじゃありませんか。何だかいつも来ているような感じ」と言いながらも、大学の様子、友達のこと、先日この学校の10周年記念のパーティや二次会で会った人のことなど、話は尽きません。
そういえば、前回は、在校生に大学の話をしてもらったんでしたっけ。昨日も言っていたのですが、「大学に入っても、最初はカリキュラムの見方もわからなかったから、どうしていいかわからず、本当に不安だった。けれども、今はよくわかる。来期は何をとるかもう考えている」。
彼女の場合、直ぐに友達もでき、学生生活は充実しているようです。日本へ来て本当によかったと言っていました。勿論、頑張っている人はどこへ行っても大丈夫なのでしょうが。ちなみに彼女は中国人です。
日本のビザが下りたのに、中国社会の目を気にして、来日を諦める人がこの学校にも出てきました。せっかくの勉強の機会を無にすると本当に残念でなりません。
他国から来ている人達のことなのですが、大学で、勉強を大してやって来なかったし、専門に関する本もほとんど読んだことがないという人なら、いざ知らず、真面目で、それなりに大学で指定されたものはやって来ているというのに、知識の量が圧倒的に少ないのです。
大学で何を勉強したと聞けば、「何でもやった。みんなやった」と言うのですけれども、浅く、広くというくらいのことで、結局は、専門に関しても「この専門分野にはこんな人がいた。だいたいこんなことを研究した」くらいのほんの入門編くらいの知識でしかないのです。
それで、大手を振って、日本で、大学院を目指そうというのですから、大変です。大学生活と一口で言いましても、この間、日本では真面目にやっている人であれば、かなりの量の本を読んできているのです。この四年間の差は大きいと言わざるを得ません。
中国だけではありません。本を自由に見ることが出来ない(手に入れることができないとか、図書館がそれほど開放されていない、量も少ないとかいうこともあります)国というのは、日本人が思っているよりずっと多いのです。かつて魯迅や日本留学組は、日本で、そして日本語に翻訳されたもので、世界中の、彼等が必要としていた知識を得ていました。これは欧米へ行った留学生達も同じです。彼らの国では得られなかったものを他国で得ていたのです。そして、それは今でも同じであるような気がします。
自由に本を手に入れることの出来る(例外もないわけでもありませんが)国に生まれていることを、日本人の多くは気がついていないのですけれども、外国人学生達を見ていると、本当に彼我の差に驚かされてしまいます。
彼等が、日本で、大学に入り(四年間、安定した身分でいられることは必要です)、先生方や友人達によって、本の世界に導かれ、様々な知識を身に付け、世界の広さを実感してもらえればと願ってやまないのですが、それに気づくのにも個人差があります。出来るだけはやくこのことに気がついて、そして多くの友人や先生方に恵まれますように。
卒業生が来て、いい話をしてくれますと、何だか、怒りの虫が治まってしまいます。いつもは怒り虫でいるのですけれども。
日々是好日
今朝の空は青く、一片の雲もありません。ニュースによると、スカイツリーから富士山の姿がくっきりと見えたそうです。富士山の姿が東京からも望めるようになりますと、「ああ、冬になった(まだ早いのですけれども)という気がしてきます。
昨日、卒業生がやって来ました。二つ用事があったようで、まず一つ目は、「はい、お土産」。
一昨日、大学の休みを利用して、アルバイト先の友人達と「高尾山」に登ったのだそうです(お土産は高尾山で買ったのだそうです。名前は「天狗の鼻くそ」と「栗チョコクッキー」です。在校生の数を聞いて、足りるかしらんと気にしていました)。「今日は足が痛いかなと思ったけれども、大丈夫だった。私は元気」なんて冗談を飛ばしていましたが、残念なことに富士山は見られなかったとのこと。
私が以前登った時には、実に見事な富士の姿を見ることができ、ここからだとこんなに富士は大きくなるんだと感動したことがありましたっけ。とはいえ、高尾からでも富士山を拝むことは難しいようです。私だとて、何度も高尾山には登ったことがありますのに、まるですぐそばにでもいるように見えたことは、あのときのただ一度だけでした。
「卒業生の中で、私が一番(学校に戻って)来るんじゃありませんか。何だかいつも来ているような感じ」と言いながらも、大学の様子、友達のこと、先日この学校の10周年記念のパーティや二次会で会った人のことなど、話は尽きません。
そういえば、前回は、在校生に大学の話をしてもらったんでしたっけ。昨日も言っていたのですが、「大学に入っても、最初はカリキュラムの見方もわからなかったから、どうしていいかわからず、本当に不安だった。けれども、今はよくわかる。来期は何をとるかもう考えている」。
彼女の場合、直ぐに友達もでき、学生生活は充実しているようです。日本へ来て本当によかったと言っていました。勿論、頑張っている人はどこへ行っても大丈夫なのでしょうが。ちなみに彼女は中国人です。
日本のビザが下りたのに、中国社会の目を気にして、来日を諦める人がこの学校にも出てきました。せっかくの勉強の機会を無にすると本当に残念でなりません。
他国から来ている人達のことなのですが、大学で、勉強を大してやって来なかったし、専門に関する本もほとんど読んだことがないという人なら、いざ知らず、真面目で、それなりに大学で指定されたものはやって来ているというのに、知識の量が圧倒的に少ないのです。
大学で何を勉強したと聞けば、「何でもやった。みんなやった」と言うのですけれども、浅く、広くというくらいのことで、結局は、専門に関しても「この専門分野にはこんな人がいた。だいたいこんなことを研究した」くらいのほんの入門編くらいの知識でしかないのです。
それで、大手を振って、日本で、大学院を目指そうというのですから、大変です。大学生活と一口で言いましても、この間、日本では真面目にやっている人であれば、かなりの量の本を読んできているのです。この四年間の差は大きいと言わざるを得ません。
中国だけではありません。本を自由に見ることが出来ない(手に入れることができないとか、図書館がそれほど開放されていない、量も少ないとかいうこともあります)国というのは、日本人が思っているよりずっと多いのです。かつて魯迅や日本留学組は、日本で、そして日本語に翻訳されたもので、世界中の、彼等が必要としていた知識を得ていました。これは欧米へ行った留学生達も同じです。彼らの国では得られなかったものを他国で得ていたのです。そして、それは今でも同じであるような気がします。
自由に本を手に入れることの出来る(例外もないわけでもありませんが)国に生まれていることを、日本人の多くは気がついていないのですけれども、外国人学生達を見ていると、本当に彼我の差に驚かされてしまいます。
彼等が、日本で、大学に入り(四年間、安定した身分でいられることは必要です)、先生方や友人達によって、本の世界に導かれ、様々な知識を身に付け、世界の広さを実感してもらえればと願ってやまないのですが、それに気づくのにも個人差があります。出来るだけはやくこのことに気がついて、そして多くの友人や先生方に恵まれますように。
卒業生が来て、いい話をしてくれますと、何だか、怒りの虫が治まってしまいます。いつもは怒り虫でいるのですけれども。
日々是好日