晴れ。
夕立……になるの????。今はきれいな青空が拡がっていますが、大気は不安定で、急にザァッとくるかも…なんて言われますと、頭に浮かぶのは「夕立」…以外ない。でも、まだ「梅雨」の期間ですよねえ。
とはいえ、「アジサイ(紫陽花)」はみすぼらしくなっていますし、「ホタルブクロ(蛍袋)」なんて、あっと言う間に姿を消してしまいましたし…。「キョウチクトウ(夾竹桃)」や「タチアオイ(立葵)」が、もう幅を利かせています。
そういえば、最近、空き地でよく見かけていた「ニワゼキショウ(庭石菖)」を見ていません。
里山というか、低山に通っていた頃には、あちこちでいろいろな野草を見つけ、そのたびに、満足していたものでしたが、点と線(しかも近所です)だけの生活になってしまうと、そんなことは夢のまた夢になってしまいましたね。
とはいえ、季節は巡ってきます。
さて、学校です。
火曜日の「七夕」が終わってからのことです。
実は、午前のクラスでは、授業の後半に「七夕」祭りができたのですが、午後のクラスではそのまま会場を使ったので、後半が授業ということになりました。
確かに午後のクラスの授業は少々やりにくかった…、とはいえ、これはマイナスだけでなく、プラスの面もありました。
「Cクラス(4月生と二年生の混合クラス)」というのは、皆、ゼロから始めたというのではなく、真面目にコツコツ勉強している(今年来た)4月生(『みんなの日本語Ⅰ』は終えてきています)と、二年生(…これも一筋縄には行きません)とから成っているのですが。
この二年生というのには、「聞く・話す」力だけは(一年日本にいることから)ついてはいるけれども、「漢字」や「文法」はかなり劣るというグループと、アルバイト疲れで、学校に来るなり眠ってしまうというグループとの二つがあるのです。
もちろん、眠っていないからきちんと勉強できるかといえばそういうものでもなく、おそらく集中力がない(もっとも、人というのは好きなこと、しなければいけないと自覚できること以外、簡単に、集中して物事をできるものではありません。ましてや、それほど勉強する習慣のついていない人たちにおいてをや)のか、単語の読みなど一緒に読んでいるかと思うと、突然声が止んでしまったりするのです。
見ると、大きく目を開けたまま、こちらを見ているふう(実際は、何も見えていないと思います))、あるいは本の上に目はあるけれども、文字を追っていないのです。名を呼ぶと、この世に舞い戻ったかのように驚いて、大きな声で「えっ!勉強していました」などと言う。おそらくは「気が飛んでいる」突然他のことを考えてしまうのでしょう、それで、リピートしてなかったことなど全く記憶にないのでしょう。
これが、単語読みくらいならばいいけれども、見ていると文法の説明などをしているときにも同じことをやっている。眠っているのではないのですが、おそらく、90分の授業のうち半分ほどはこういうふうにして消えているのでしょうね。けれども本人に自覚はありませんから、終わってから、「真面目に勉強していたか」と聞かれると、「ずっと起きていて(確かに起きてはいた)、一生懸命勉強していた」と言います。これを国でもやっていたのでしょうね。他のことを考えていた時には授業に参加できていませんから、彼の気持ちとしては「30頁を見ていたはずなのに、もう34頁になっている。…なぜ?」となるのでしょうし、皆が34頁を読んでいるときに、(突然、目覚めた彼は)30頁の続きを読んだりして、あきれられたりしてしまうのでしょう。
まあ、4月生の中にも、なかなかできない人が入っていたりしましたから、一概に二年制の方だけに問題があるというわけでもないのです。
ただ、二年生は、こんなふうにして、一年間を過ごしてきているわけですから、こちらがいろいろ言っても今更という感じになってしまうのです。これまで、来日してからも、ずっと言われてきた…でも、どうにもならなかった、あるいはできなかった人たちです。それが個人的な資質の問題であったということもあるでしょうし、家庭環境、つまり経済的な理由でどうにもしょうがなく、そうなったということもあるでしょう。
ただ、まだ4月生は(能力に応じた)クラス分けができていませんから(今のクラス分けは、ただ、国でどれほど勉強してきたかで分けただけです)、そういう二年生と今から同じことをやってもらっても困りますし、それでいいのだと思われても困るのです。
ですから、こういうクラスでは、二年生にとって時々耳が痛くなるようなことも言わねばならなくなります。得てして、本領を発揮したことのない人たちは己の力というものを過信しがちです。
懸命に生きてきた人たちは、いい意味でも悪い意味でも、自分の力には「限界」があることを知っているものですが、こういう人たちは、学校での勉強を懸命にした経験がないので、高を括ってしまうのです。する前から「難しいからできない」と口癖のように言うだけです。内心では、「覚える価値がないからやらない。やれないのではなく、やらないのだ。覚えるつもりがないから、やれないだけなのだ」と思っているなと察知できるのです。
実際にやってみないから、自分が懸命にやってもできないことがわからないのでしょう。
人というものは、どうにもできないものですね。人に強要できることなんて、本当に少ない。結局は当人の意思次第なのです。
このクラスは、三つか四つのグループに分けられ、それをいつも考えながら授業を進めているのですが、二ヶ月が過ぎる頃から、はっきりと軸足を4月生の、可能性がある人たちの方に合わせ始めました。二年生は、その不満も少しあると思います。
けれども、学校ですからね。やはり「勉強をしたい、そしてする人たち」が主役なのです。
で、話は戻り、「祭り」の後の、功罪の件なのですが、それは、また別の機会に。
日々是好日
夕立……になるの????。今はきれいな青空が拡がっていますが、大気は不安定で、急にザァッとくるかも…なんて言われますと、頭に浮かぶのは「夕立」…以外ない。でも、まだ「梅雨」の期間ですよねえ。
とはいえ、「アジサイ(紫陽花)」はみすぼらしくなっていますし、「ホタルブクロ(蛍袋)」なんて、あっと言う間に姿を消してしまいましたし…。「キョウチクトウ(夾竹桃)」や「タチアオイ(立葵)」が、もう幅を利かせています。
そういえば、最近、空き地でよく見かけていた「ニワゼキショウ(庭石菖)」を見ていません。
里山というか、低山に通っていた頃には、あちこちでいろいろな野草を見つけ、そのたびに、満足していたものでしたが、点と線(しかも近所です)だけの生活になってしまうと、そんなことは夢のまた夢になってしまいましたね。
とはいえ、季節は巡ってきます。
さて、学校です。
火曜日の「七夕」が終わってからのことです。
実は、午前のクラスでは、授業の後半に「七夕」祭りができたのですが、午後のクラスではそのまま会場を使ったので、後半が授業ということになりました。
確かに午後のクラスの授業は少々やりにくかった…、とはいえ、これはマイナスだけでなく、プラスの面もありました。
「Cクラス(4月生と二年生の混合クラス)」というのは、皆、ゼロから始めたというのではなく、真面目にコツコツ勉強している(今年来た)4月生(『みんなの日本語Ⅰ』は終えてきています)と、二年生(…これも一筋縄には行きません)とから成っているのですが。
この二年生というのには、「聞く・話す」力だけは(一年日本にいることから)ついてはいるけれども、「漢字」や「文法」はかなり劣るというグループと、アルバイト疲れで、学校に来るなり眠ってしまうというグループとの二つがあるのです。
もちろん、眠っていないからきちんと勉強できるかといえばそういうものでもなく、おそらく集中力がない(もっとも、人というのは好きなこと、しなければいけないと自覚できること以外、簡単に、集中して物事をできるものではありません。ましてや、それほど勉強する習慣のついていない人たちにおいてをや)のか、単語の読みなど一緒に読んでいるかと思うと、突然声が止んでしまったりするのです。
見ると、大きく目を開けたまま、こちらを見ているふう(実際は、何も見えていないと思います))、あるいは本の上に目はあるけれども、文字を追っていないのです。名を呼ぶと、この世に舞い戻ったかのように驚いて、大きな声で「えっ!勉強していました」などと言う。おそらくは「気が飛んでいる」突然他のことを考えてしまうのでしょう、それで、リピートしてなかったことなど全く記憶にないのでしょう。
これが、単語読みくらいならばいいけれども、見ていると文法の説明などをしているときにも同じことをやっている。眠っているのではないのですが、おそらく、90分の授業のうち半分ほどはこういうふうにして消えているのでしょうね。けれども本人に自覚はありませんから、終わってから、「真面目に勉強していたか」と聞かれると、「ずっと起きていて(確かに起きてはいた)、一生懸命勉強していた」と言います。これを国でもやっていたのでしょうね。他のことを考えていた時には授業に参加できていませんから、彼の気持ちとしては「30頁を見ていたはずなのに、もう34頁になっている。…なぜ?」となるのでしょうし、皆が34頁を読んでいるときに、(突然、目覚めた彼は)30頁の続きを読んだりして、あきれられたりしてしまうのでしょう。
まあ、4月生の中にも、なかなかできない人が入っていたりしましたから、一概に二年制の方だけに問題があるというわけでもないのです。
ただ、二年生は、こんなふうにして、一年間を過ごしてきているわけですから、こちらがいろいろ言っても今更という感じになってしまうのです。これまで、来日してからも、ずっと言われてきた…でも、どうにもならなかった、あるいはできなかった人たちです。それが個人的な資質の問題であったということもあるでしょうし、家庭環境、つまり経済的な理由でどうにもしょうがなく、そうなったということもあるでしょう。
ただ、まだ4月生は(能力に応じた)クラス分けができていませんから(今のクラス分けは、ただ、国でどれほど勉強してきたかで分けただけです)、そういう二年生と今から同じことをやってもらっても困りますし、それでいいのだと思われても困るのです。
ですから、こういうクラスでは、二年生にとって時々耳が痛くなるようなことも言わねばならなくなります。得てして、本領を発揮したことのない人たちは己の力というものを過信しがちです。
懸命に生きてきた人たちは、いい意味でも悪い意味でも、自分の力には「限界」があることを知っているものですが、こういう人たちは、学校での勉強を懸命にした経験がないので、高を括ってしまうのです。する前から「難しいからできない」と口癖のように言うだけです。内心では、「覚える価値がないからやらない。やれないのではなく、やらないのだ。覚えるつもりがないから、やれないだけなのだ」と思っているなと察知できるのです。
実際にやってみないから、自分が懸命にやってもできないことがわからないのでしょう。
人というものは、どうにもできないものですね。人に強要できることなんて、本当に少ない。結局は当人の意思次第なのです。
このクラスは、三つか四つのグループに分けられ、それをいつも考えながら授業を進めているのですが、二ヶ月が過ぎる頃から、はっきりと軸足を4月生の、可能性がある人たちの方に合わせ始めました。二年生は、その不満も少しあると思います。
けれども、学校ですからね。やはり「勉強をしたい、そしてする人たち」が主役なのです。
で、話は戻り、「祭り」の後の、功罪の件なのですが、それは、また別の機会に。
日々是好日