日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「どのクラスでも、学生達の間で差が拡がってきています。そりゃあ、そうでしょうね。一年も経てば…。」

2016-07-11 08:32:26 | 日本語学校
晴れ。

今朝も青空。とはいえ、これから、どうなるのか、わかりません。一応、「梅雨」時なんですから。

お天気なんて、人生のよう。今晴れていても、あっと言う間にザアザア降りになるということもありますし。

さて、学校の近くでは、先週頃から、か細く聞こえていた「セミ(蝉)」の声が、はっきりと聞こえてくるようになりました。「セミ」たちも、きっと梅雨が明けたと思ったのでしょう、こんなお天気ですものね。

学校では、だんだん今のクラスをそのままに、授業をしていくのが難しくなってきています。

学生達の素質というか、その面からも。そしてやる気度からも。また休まないという基本的な姿勢度から。…もちろん、一つだけでどうこうというわけではありませんが、往々にして、これらの二つ三つが重なりあっているのもなのです。

資質はあっても休みがちになってしまうと、どうしても出席していないところが空白になってしまう。それが重なれば、当然のことながらついて行けなくなってしまいます。

やる気はあっても、資質的に(これは外国語を学ぶという言語的な観点から見た場合が主で、他の能力は関係ありません)問題があれば、問いに対する答えがトンチンカンなものになってしまいます。こういう人で、ほぼ出席していれば、ゆっくりやって行きさえすれば、「言葉」ですもの、できるようになっていくのですが。

資質もそれほどない、やる気もそれほどない。しかも休みがちとなると、これは同じ所を何度も学ばざるを得ない。

たとえば、「テ形」の導入時に休んだ、後も休みがちであるから、「テ形」がなんたるかも、どうすれば「テ形」になるかもわからない。また、「受け身」の導入時に休んだ、それから続けざまに二日ばかり休んだ。受け身がスッポリと抜け落ちている。では、もう一度となる。

ところが、こういう人は、二度目も同じ所で休んだりする。何度くり返しても、同じ所がわからない。聞いてみると、出席していても、そのとき寝ていたりしている。これは、もう学校で勉強したとは、言えません。

何でも勢いというものがあり、言語も速くバッとやってしまって(できるならば)、日本にいますから日本人と自由に話ができるようになっていれば、学ぶことが面白くなります。その反対に、ダラダラと二年間ほども日本にいても、結局、「生活日本語」の域から抜け出せていなければ、それは日本人との意見交流みたいなものができませんから、つまらない。

で、「日本人は馬鹿だ。何も考えていない」という思いだけで終わってしまう。たいていの日本人は馬鹿ではありませんから、日本語ができない外国人とは、よほどのことがない限り、話したいなどとは思いません。疲れるだけですから。

まあ、これはどこの国でも同じでしょう。その国の人と深く関わりたいと思えば、まず言語をものにするのが一番です。それから、あるいは同時進行の形でその国への理解は深まっていくものですから。

とはいえ、毎日きちんと学校に来て勉強していても、理屈がわかるのに時間がかかる人もいます。また「初級1」で理解力が終わりになる人も、「Ⅱ」で終わりになる人もいます。「中級」からの「読解」がまるでダルマさん状態になってしまう人もいます。本当にわからないのです。4行ほどの短い段落の意味を聞いても、悩んでしまうか、とにかく言ってしまえとこちらが頭を抱えてしまうような答えを出してくる場合だってあるのです。

最初、真面目に「どうしてそういう答えになるのか」と考えたりしていましたが、これは無駄なことでした。「わからない」と言えないのです、こういう人たちは、習慣で。それで、とにかく何でも手当たり次第に、言えるもの(記憶にあるものを)を言ってしまう。(一緒に、幾度か声に出して読んでいますし、単語の説明や文法の説明も終わっています。だから、耳に残っている単語を口にするのです。改めて読んで答えを探すという習慣がない人たちも、少なからずいるのです)。

当たればいいけれども、当たっても、別にその理由はないのです。それを導き出したという理由が本人にないので、どうしてそういう答えになった?」と聞く方が罪作りになってしまうのです。彼らにすれば、「当たったのだから、いいじゃない」でしょうけれども。

これは、日本語云々の問題でもなし、彼らが今迄育ってきた教育がそういうものを要求してこなかったということに尽きると思います。覚えればいい、あるいは言えればいいというものだけだった…これまで。おそらくそうだったのでしょう。

だから、考える習慣、あるいは性癖(変かしらん)のある人は、(こちらが何も言わずとも)考えたりするけれども、(そうではない人たちは)これまでそんなことは要求されなかったから、突然日本に来てテストにそんなものが出てきたり、授業で聞かれたりすると、焦ってしまう。そして、シッチャカメッチャカな答えを言ってしまう。わかりませんとか言えませんし、どう考えていいのかわからないということもあるでしょうね。で、いったい何なんだということになってしまう、彼らにしてみれば。

それを少しずつ考えられるようにしていってやらねばならないのですが、そうなると、資質的にも頑張り度も十分な人たちが、暇になってしまう。しかも困ったことに日本語学校には二年しかいられませんから(その人たちはこの、大学受験までの1年半から一年の間に、できるだけたくさん学びたいと思っていますから)、当然のことながらクラスの中がギクシャクしてきてしまいます。

中国で教えていたときには、はっきりと「あの人たちに教えても無駄だから自分だけに教えてくれ」と言いに来た学生もいました。が、さすがに、こういう途上国の人たちはそこまで言いに来ません。国でこういう扱いに慣れているのでしょう。とはいえ、焦っているのはわかります。

国では親が他の手段を講じて上のレベルの勉強ができたでしょうが、日本では学校だけが頼りなのです。アルバイト先(レストランなど)で「ヒアリング力」や「単語力」をある程度研けても、それは「日常的なもの」に限られ、「中級以上」では、まず無理なのです。「漢字圏」の学生なら、本や新聞などを読んで自主的に能力を高められても、「非漢字圏」の学生は、学校での「読み物」くらいが関の山。それ以上の要求は、アルバイトをしながらの学生達には酷というもの。できません。

で、夏休み明けが勝負と言うことになります。もしかしたら、夏休み中もかしらん。

日々是好日
コメント
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