ぐうたら里山記

兵庫の西の端でただのほんと田舎暮らしをしています。ぐうたらです。のん兵衛です。

言葉

2018年04月15日 17時31分07秒 | 雑感
年とともにますます偏屈になっている。
もともと偏屈な人間でしゃべるのがとってもにがて。
しゃべるには顎を上下運動しないといけない。
それがとっても面倒。

知ったかぶりをするより、知らんふりをする方がいい。
話すよりも聞く。
話すにはエネルギーがいる。
でも聞く分にはそんなにエネルギーは使わない。
自分のためになる話だったら聞き、自分の役に立たない話だったら聞いてるふりをして、他のことを考える。

ところが何の因果か去年、公民館講座で田舎暮らしについての講演をした。
時間は2時間。
でも2時間なんて到底しゃべれない。
それで「田舎暮らし、そして今」というテーマで前半は田舎暮らしを始めたいきさつや、田舎暮らしてみて感じたこと、イベントのこと、町おこし村おこしのこと、パーマカルチャーのこと、野菜作りのこと、山羊や鶏のことなどを話した後、
後半は田舎暮らしでその後合流した息子に代わってもらって「そして今」のことを話してもらった。

普通は一人で2時間話すのだけど、それは到底無理!
ひたすら1時間話し続けてすっかりくたくたになった、くたくたに疲れた。
もうこんなこと、こりごり!と思った。
しかしあらためて人の講演を見たらみんな結構手抜きしている。
スライドで時間稼ぎなんかして・・・
(スライドなどを使ったら1時間半くらいはいけたかなぁ~なんて思ったけど・・・)
でもやっぱりもういいや!

いえいえ、こんな話じゃない。
偏屈の話・・・でもない、言葉の話。
もしも言葉がなかったらどうだろう?
人を傷つけることもない、人から傷つけられることもない。
以心伝心でこちらの思いを相手に伝えることができたらこんなにいいことはない!

というわけで禅問答のごとく話しが通じたら・・・
あるいは言葉を使わないで物を見せ合うことによって自分の意思を通じさせることができたら・・・と、とっても思う。

ガリバー旅行記に出てくる話、
ある国では会話は言葉は使わない。
球だの円柱だの、そのほかいろんな道具をそれを見せ合ってお互いの意思を通じ合う、それで会話をする。
ところが話が長くなったり込み入ったりすると、よりたくさんの道具を用意しておかないといけない。
それで会話をするために沢山の道具を背中にしょって移動しないといけない。
言葉のない会話はまさに体力勝負なのだ。

日本でも・・・

あるとき修行僧がある評判の寺に行った。
そしてそこの対応に出た住職らしい人に禅問答を挑んだ。

まず左右の親指と人差し指で円を作った。
するとその住職はすぐに指を3つ立てた
それならと、今度は指を2本立てると、
この住職はすぐに自分の目を指さした。

するとこの修行僧はすっかり恐れおののき、逃げ出した。
そして言うことに

あの寺の住職はすごい人だ!
世界は?と聞いたらすぐに指を3つ挙げて「三界」と答えた。
それならばと、日本は?と指を2つ挙げて問いたら自分の目を指さして、
「眼中にあり!」と答えた。
それですっかり恐れおののき逃げ帰って来た。
しょせん、田舎の寺の住職と侮っていたけど、今まったくそんな自分を恥じている。

一方、この田舎寺で留守番してた豆腐屋、
住職が返ってきて「留守中何かなかったか?」と聞かれて、

修行僧らしき人がきて、いきなり豆腐は?ときく。
それで3文と言うと、2文に負けろという。
あかんべぇ!をすると、すぐに逃げ出した。
と答えた。

言葉は確かに厄介なもの。
人を傷つけ人から傷つけられる。
でも言葉がなかったら、それはそれはとってもややこしい世界になってしまう。

年をとると言葉が浮かばずなんでもあれ、これ、それで済まそうとする。
そしてそれで会話が成り立つ。
でも困ったことに、しばしなお互いが思っている、あれ、これ、それ、が違うのだ。
それで話はまるで禅問答のようになってしまう。

とすると、言葉はやっぱり必要、やっぱり便利。
言葉がなくてもお互いに通じ合える世界を夢見ながら、
やっぱり言葉で意思を通じ合う、それはしかないだろう。
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