いとうせいこう/みうらじゅん 「見仏記 2」読了
ふたたびの見仏記だ。
いとうせいこうとみうらじゅんの仏様の拝み方には信仰心もないしご利益を期待することもない。だから正確に表現すると拝んでいるのではなく、見仏しているのだ。
多分、ある意味、悟りを開くというのはこういうことなのだろう。
仏像の出来だけをひたすら評価する姿勢は徹底している。
何の信仰心もない状態で仏像を見せてくれと頼もうと思えば、これだけの薀蓄がないとだめなのだろう。
これぞオタクの真骨頂だ。
僕は少しは信仰心を持って仏像を拝みたいと思っているので著者ほどの知識はひつようかどうかわからないが、見ただけでこれは誰、とわかるようになりたいものだ。
魚釣りに出る朝は、トイレでOOを済まして、朝刊が配達されるのを待ち、テレビを見ながら家を出る時間を調節している。
テレビ見仏記という番組が不定期でそんな時間に放送されている。
この本を読んでいる期間中、偶然に放送されているのを観た。
これも何かのお導きなのだろうか・・・?
などと考えているうちは著者のような悟りの境地にはたどり着くことができないのだろうな。
ふたたびの見仏記だ。
いとうせいこうとみうらじゅんの仏様の拝み方には信仰心もないしご利益を期待することもない。だから正確に表現すると拝んでいるのではなく、見仏しているのだ。
多分、ある意味、悟りを開くというのはこういうことなのだろう。
仏像の出来だけをひたすら評価する姿勢は徹底している。
何の信仰心もない状態で仏像を見せてくれと頼もうと思えば、これだけの薀蓄がないとだめなのだろう。
これぞオタクの真骨頂だ。
僕は少しは信仰心を持って仏像を拝みたいと思っているので著者ほどの知識はひつようかどうかわからないが、見ただけでこれは誰、とわかるようになりたいものだ。
魚釣りに出る朝は、トイレでOOを済まして、朝刊が配達されるのを待ち、テレビを見ながら家を出る時間を調節している。
テレビ見仏記という番組が不定期でそんな時間に放送されている。
この本を読んでいる期間中、偶然に放送されているのを観た。
これも何かのお導きなのだろうか・・・?
などと考えているうちは著者のような悟りの境地にはたどり着くことができないのだろうな。