イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「麦わら帽子の釣り本散歩」読了

2009年10月12日 | Weblog
大崎紀夫「麦わら帽子の釣り本散歩」読了

ふるい、古いつり関係の本の紹介を著者の感想を交えて書かれている本だ。
出てくる本のほとんどが明治から昭和の初期に書かれたものだ。
著者曰くには、古い釣り本を通して自らの子供の頃の原体験を思い出すことができるとのことである。
著者は昭和15年生まれということである。戦争、復興、高度経済成長と日本の風景がどんどん変わっていく中で、古い本の中にそれ以前の日本の原風景を求めている。

最後の方に、「私たちの生が幼少時代の原体験を強く内に抱え込んでいるという事実に目を向ければ、・・・釣りする己のイメージが、やがて己の仲で成熟していくとき、釣りがその人の生と不可分なものと悟るのは、多くの釣り人が知っていることである。」という著者の言葉が出てくる。
僕にも確かに鮮明に記憶の中にある釣りのシーンがいくつかある。
いままで数え切れないほど釣りに行っているが記憶に残っているのは小さな頃の記憶の方が多いのは不思議なものだ。

そんな体験を教えてくれた父親には感謝したい。
それに引き換え、僕の子供にはそんなものはあるのだろうか。釣りだけが特殊なものではないにしろ、なにか自然のなかでの体験が原体験となってくれたものはあるのだろうか。今にして思えば、もっといろいろなところに連れ出すべきであったはずだ。昨夜の大河ドラマで直江兼継が晩年の父親に、「父親から受けた教えに感謝する。」というせりふがあったが、父親がしてくれたことを僕は子供にはしてやれていないと思うと残念な限りだ。
数少ないアウトドアの体験のなかのひとかけらでも記憶にとどめていてくれればいいのだが・・・。
勉強ばかりが人生ではないのだぞ、君・・・。


古い本の中には含蓄に富んだ言葉がたくさん出てくる。
「河のほとりにいると、僕は決して立派なことも遠大な理想も考えはしなかった。ただ、ほとんど白痴のような状態に還っただけである。人間が或る種の美しい痴呆の状態になれるのは異性に対して頭をやられているときと、釣りをしているときくらいなものだろう。」
「釣りは、どうしても、一種の人生哲学に行きつかざるおえない。釣り自体が、遊びを超えて、その人の人生になり得るのである。本人がそれを意識しなくとも、事実がそうなっているのである。遊びが愉しみにあるのである。」
「・・・風こそが釣り人に、"お前は世界の内にあって人間(じんかん)に在るに非ず"と語りかけてくるささやかな声なのである。」
「釣れてもよし、釣れなくてもよし、只一竿釣りを楽しむという風流な境地は、釣禅一如、釣詩一体、非常に東洋的なものを感じる。」

ゴルフではこうはいくまい・・・。
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水軒沖釣行

2009年10月12日 | Weblog
場所:水軒沖
条件:小潮6:30干潮
釣果:エソ 3匹

今日は早朝からタチウオへ。
台風以降一気に秋も深まり、朝は涼しさを通り越して寒くなってしまっている。
原チャリで走っていると手がかじかんでしまうのだ。

午前4時半過ぎに出船していつもの通り双子島の沖からはじめるがまったくアタリがない。やっとアタリが来てもエソ・・・。6時前にはかなり明るくなってきたのでタチウオの顔を見ることなく終了。
台風の影響で水中にはかなりのゴミが漂っていた。これではタチウオも水面まで浮上できないのではないだろうか。今日の言い訳はこれにしておこう。

タチウオは早くに終わってしまうのでためしにコウイカをやってみた。
こちらはまだまだ早いのか、まったくアタリなしで終了。

気温は低いが水温はまだまだ高いようで、沖を航行する船は光の屈折の影響で瀬が高く見える。これも秋の風景のひとつだ。
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